SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ019】村上・橋野 (2020) を英語教育政策の観点から読む:10章と11章

前回のつづき。

sudos.hatenablog.jp
sudos.hatenablog.jp
sudos.hatenablog.jp
sudos.hatenablog.jp
sudos.hatenablog.jp

今回は10章「統合と分立」と11章「民主性と専門性」。

10章「統合と分立」

  • この章は、私個人では特に論点が思いつかなかった。

以下、当書の簡単な要約と読書会で議論された内容を復習としてまとめておく。

教育委員会制度

教育委員会制度はアメリカで生まれた仕組みである。政治家や専門家(教師や教育行政官)ではなく、一般の住民が教育委員となって教育委員会を組織し、地域のコミュニティを基盤として草の根の民主主義によって学校を運営しようとするものである。ただし、一般市民だけでは専門的な教育行政運営は難しいことから、教育委員会が教育行政の専門家である教育長を任命し、日常の実務は教育長および教育長が統括する事務局に委ねられる。教育委員会による民衆統制(レイマン・コントロールまたはポピュラーコントロール)と教育長の専門的指導性(プロフェッショナル・リーダーシップ)の抑制均衡(チェック・アンド・バランス)によって教育行政の立案・実施を行うことがその理念とされている。(p. 192)

  • 戦前の中央集権的な教育行政の反省として、民主主義的な行政の構築が求められた。そこで、米国の制度をモデルとして教育委員会制度が生み出された。民主主義・住民自治の機能を高めるための制度だったことがわかる(まぁ、今でもそうなのだろうが)。
  • 1948年の設置以来、教育委員会制度は複数の制度変更が行われた。当初は「教育委員会が……教育長を任命し」ていたのだが、1956年に教育委員会法に代わり地教行法が成立し、「教育委員会は公選制から首長による任命制に改められた(任命制教育委員会)」(p. 193, 太字は本書)。
  • その後しばらくは、議論はあったものの大きな制度変更が起きることはなかった。しかし、2011年以降に騒動となったいじめ自殺事件や体罰事件によって教育行政に対して批判が集まる。これをきっかけに、第二次安倍政権において、教育委員会制度の見直しが議論された。一時期は教育委員会制度の廃止までも議論されるもののそれには至らず、2014年の制度改変に留まった。
  • 2014年以前と以降の教育委員会制度を比較して、当書では大きく3つの変更点が指摘されている:
  1. 教育長と教育委員会の一本化
  2. 教育行政の基本方針(=大綱)の決定権を教育委員会から首長へ譲渡
  3. 総合教育会議の設立
  • この制度変更の結果として、首長の権限がさらに強化されたと言える。
  • 一斉休校:法律上は校長に決める権限がある

アメリカでは、一斉休校をした結果、学力が大きく低下したと報告されている(朝日新聞)。日本では、2020年の3月に当時の安倍晋三首相が全国の小中高の臨時休校要請を表明した。その結果、この要請が法的拘束力を有さないにもかかわらず、ほぼすべての学校が一斉に臨時休校を実施した(このときの各自治体・教育委員会ごとの対応の独自性については、末富 (2022) で詳述されている)。このとき、生徒の学力に遅れが生じることは承知でこの要請を行ったはず。であれば、授業再開後は当然そのことを考慮して柔軟に対応すべきだったはず。でも、いざ学校が再開すると大きくカリキュラムは変えずにほぼそのまま。遅れを取り戻そうと急いで授業をやって、詰め込みにならないように!——という勧告がなされた市教育委員会もあったようだが(末富, 2022)、でもカリキュラムは変わらないし入試もあるしで、詰め込み教育になっていた事例は多いのではないだろうか(印象論ですが)。国からの言うこと聞くくせに、最後のつけは子どもに払わせる。英語教育では、その最中で英検の取得率を都道府県ごとに比較したりもしていた。そんな中で、健全な教育などできるはずがない。

  • 上記に関連して、一斉休校措置における教育委員会の活動を記録・分析した、末富 (2022) を読んだ(流し読み程度だが)。地方の教育行政はめちゃめちゃ属人的だなぁ、とあらためて思った。

コミュニティースクール(学校運営協議会制度)

学校運営協議会の主な役割として、
○ 校長が作成する学校運営の基本方針を承認する
○ 学校運営に関する意見を教育委員会又は校長に述べることができる
○ 教職員の任用に関して、教育委員会規則に定める事項について、教育委員会に意見を述べることができる
の三つがあります。

  • 上記の通り、この協議会は校長や教育委員会に意見を述べることができるのみで、従わせる権限を有しているわけではない。つまり、そこまでの拘束力がない。にもかかわらず、設置している自治体は少ない(2021年の文科省の調査によると、全国の導入率は33.3%)。
  • 読書会で、コミュニティースクールに注目した英語教育研究はおそらくまだ無いのではないか――という指摘があった。たしかに面白そう。市民の意見を取り入れようとすると、自治体によってはカオスになりそう。「英会話にもっと力を入れてください」とか「そもそも英語なんか教えないでください」とか「英語じゃなくてドイツ語をやってください」とか、そのような多元的な要望がコミュニティースクールを通じて校長や教育委員会に伝わった場合、どのような対応をとるのか。
  • 当書でに学校運営協議会について219頁で説明されており、その正の側面を主張するとともに、負の側面について以下のように述べている:

ただし民主制の主体を学校レベルに移譲することに関しては、地域住民が保護者に対して優位に立つなど、学校運営協議会内部で権力の不均衡が生じることなどが指摘されている(仲田, 2015)。また、これまで以上に学校に直接的に政治が持ち込まれる危険性もある。(p. 219)

  • 「教育が公的な意味を持つ」という認識が一般的でない日本では、教育費は社会全体ではなく親ができる限り払うべきだという考えが一般的となっている(中澤, 2014)。教育の公的な意味合い、教育の外部性への期待の欠如、このような背景を考慮すると、たしかに「地域住民が保護者に対して優位に立つ」事態になった場合、教育行政が適切に機能しない恐れがあることは想像に難くない。

11章「民主性と専門性」

民主性と専門性は民主主義社会における車の両輪であり、いずれか一方ではバランスを書き、健全な市民社会が成り立たなくなる危険が高くなる。例えば民主制だけを政策決定の基準にすると、そのときの住民の意思だけで決定が行われ、専門家よりも素人の意見が優先されることで弊害が起きるかもしれない。(中略)他方で専門性を重視しすぎると、先に述べたように住民のニーズを無視するような政策が行われる、あるいは一部の専門家の利益やイデオロギーが優先されてしまう危険がある。(p. 212)

  • 民主性と専門性の境界が、政策会議における人選の多様化により曖昧になっているのでは? 例えば、「英語教育の在り方に関する有識者会議」の出席者には、教育の専門家や学校関係者に加え、予備校講師、非教育産業の経営者の参加もみられる。はたして、予備校講師や経営者は、住民意思の反映なのか? いや、でも、議事録での彼らの発言内容から察するに、自身を民意の代表というよりかは、一専門家として発言しているような箇所もあったり…… いったいあの人たちはなんなのだろう。 
  • (12章の内容だが)「専門職への不信」(p. 230) 、専門家の地位の低下——という指摘がよくなされるが、本当に専門家自体の地位が低下しているのか? 専門家以外の発言機会の増加により、専門家の影響が霞んでしまっていることが遠因としてありそう。

ただ、教職に関しては他の領域に先んじてそうした不信[=専門性に対する懐疑・不信]が強まってきた面がある。経営学社会学などでは、教師は医師や弁護士などの伝統的専門職(フル・プロフェッショナル)と比べてその専門性は高くない準専門職(セミ・プロフェッショナル)であるとの見方がある(教育学などでは異論もある)。医師や法曹の世界に比べるとその専門性が自明でないという点は、教育の専門性への懐疑的な視線を強めてきた可能性がある。(p. 216, [補足] は引用者)

  • 医療や法律といった分野に比べて、教育は「モノを言いやすい」という特徴も関係していると思う。分野の専門知識がなくても、自身が受けた教育の経験にもとづき情報を発信することができる。YouTube を見ればいくらでもそういう人はいる。あとは、教育産業の多様化も関係しているはず。塾・予備校のみならず、オンライン教材や講義動画の流通によって、生徒たち(特に富裕層)はいくらでも「学校の外」で学ぶことができる。教員・専門家以外の教育に関する発言が溢れる時代となっている。情報過多の中でも生き残るためには目立たなくてはならず、目立つためにはキャッチーなことを言う必要がある。そこでストローマンにされやすいのが、学校教育・学校教員。「学校ではこう教わったと思うけど……」「学校では教えてくれないと思うけど……」のような発言。そのような発言をインフルエンサーがすれば、それを信じちゃう生徒はけっこういるでしょうね。こういうところも昨今の教師不信に関係しているはず。