SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ015】村上・橋野 (2020) を英語教育政策の観点から読む:4章と5章

前回のつづき。

sudos.hatenablog.jp
sudos.hatenablog.jp

今回は4章「選抜と育成」と5章「教育における自由と平等」。

4章「選抜と育成」

「選抜」ときくと、個人的には入学者選抜(=入試)を連想してしまうが、ここでの選抜は「教員養成にかかわる選抜」を意味している。タイトルの「選抜と育成」とは、教員の質をコントロールするための、大学の入学試験や教員採用などの「入り口」と、大学での教職課程における養成や入職後の研修などの「過程」を意味している。少し誤解をもたらしやすいタイトル。

資質と能力

一般的には、資質と能力の意味するところは異なっており、資質は教育・訓練で容易には変えられないもの、能力は教育・訓練で向上させることができるもの、と区別できるだろう(市川 2015)。(中略)市川は、戦前気に、学力以上に求められた教員としての「気質」「徳性」が「資質」という語に転換したことを指摘するが(市川 2015)、そうした特定の人格の類を今日置いても要求すべきであろうか。あるいは、教員としての具体的な職務遂行に必要な能力すべてが能力に属し、それらの訓練可能性(若さも含む)が資質に該当すると解釈すべきだろうか。(p. 79)

  • これに関連する英語教育の議論として、ALT の選抜方法が連想される。
  • ALT の選抜では、上記の区分でいうと「資質」中心の選抜に偏っており、「能力」の有無はほとんど考慮されない。その証拠として、JETプログラムの募集要項を以下に引用する。

外国語指導助手については、一般要件のほか、更に以下の要件を必要とする

(15) 日本における教育、特に外国語教育に関心があること。
(16) 積極的に子ども達と共に活動することに意欲があること。
(17) 語学教師としての資格を有する者又は「語学教育」に熱意がある者。
※ 応募要件ではないが、次のような要件に該当する応募者には選考にあたり一定の評価が追加的に与えられる。

 1) 語学教師としての経験又は資格を有すること。 
 2) 教職経験又は教職資格を有すること。 
 3) 高い日本語能力を有すること。
http://jetprogramme.org/ja/eligibility/ より引用

ここからわかるように、ALTの選抜に際しては語学教育の資格は応募要件には含まれない。仮に保持していたとしても、「一定の評価」が付与されるのみに留まる。事実、上智大学が実施した「小学校・中学校・高等学校におけるALT の実態に関する大規模アンケート調査研究」(上智大学, 2018)によると、TESOL の資格を有するALT の割合、教員免許保持者の割合について次のように報告されている。*1

  • [区分:TESOL 資格, 教員免許保持]
  • 小学校:42%, 14%
  • 中学校:44%, 16%
  • 高校:55%, 17%

教育段階に関係なく、およそ半数のALT が英語教育の資格を持っていないことに加え、教員免許を保持していないALT はおよそ8割にも及ぶことがわかる。もちろん、資格の保持の有無が必ずしも能力に直結するわけではなく、逆に、資格は持っていなくてもすばらしいALT は何人もいることだろう。しかし制度を見る限りでは、ALT の選抜は「能力」をほとんど考慮しておらず、率直に言えば、英語教育の「素人」ともいえる ALT を募集しているようにうつる。

  • 「能力」についての有無はほとんど考慮されていない一方で、ALT の選抜では「資質」が重視される傾向にある。とはいえ、ここでいう「資質」とはもっぱら「出身国」のことを指す。JET (2019) によると、ALT の出身国割合がアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドといった、英語を公用語とする国が95%以上を占める(特に WASP の割合がほとんどを占める。別の言い方をすれば、中心円の標準英語使用国)。自治体レベルでみても、ALT の採用基準として「英語のネイティブスピーカーであること」を必要要件として掲げているものもある。以上より、ALT の選抜では「英語のネイティブスピーカーであること」という一種の資質が重視されていることがわかる。
  • 以上をまとめると、ALTの選抜法は資質重視で、能力の有無はほぼ重視されない。
  • ALTの存在がもたらす学習効果について「効果がない」とは言えないものの、本格的な調査は行われていないに等しく(沖, 2021)、少なくとも「効果がある」ことを示す研究は管見の限り存在しない。*2にもかかわらず、今日までALT廃止の議論が取り沙汰されることもなく存続し続けている。NPMの発想からすれば真っ先に廃止の候補としてあがりそうなものだが。
  • ここから示唆されることとして、ALTの存在意義は「生徒の英語力を向上させるため」という実利的な側面以外の要素にあることが推測される。
  • 読書会にて高校の英語教員の方が、「もし学校(あるいは自治体)にALTがいないと、外部に対して『あの学校は英語教育に力を入れていない』というイメージを誘発しかねない。だから、ALTの制度は今日まで存続しているのではないか」という指摘があった。なるほど、ALTの存在意義は、生徒の英語力向上という実利的な側面というよりも、むしろ外部に向けた象徴的な機能としての側面が強いのかもしれない。たしかに(英語教育事情に精通していない)保護者・生徒からすれば、「ALTがいる学校」と「日本人の英語教員しかいない学校」のどちらが魅力的にみえるかといえば、たいていの場合、前者を選ぶであろう。例えば、久保田 (2015: 4章) では、日本人の女性英語講師が英会話学校で勤務した際に、自分が英語母語話者でないがゆえに(ネイティブスピーカリズムの思想をもつ)保護者から差別的扱いを受けた——という事例が紹介されている。ネイティブスピーカリズムの思想に基づけば、「ネイティブスピーカー=理想の英語教師」として捉えられるからだ(沖, 2021)。ALTがWASPに極端に偏っており、第二言語として英語を話す「英語話者」の割合が極端に少ない点然り、英会話学校の講師のほとんどが白人英語母語話者であること然り、入試に英語科目があるがゆえに英語力を数値化する必要があり、そのために「正解」となる正しい英語として標準英語が重宝されるという点然り――(白人の)英語母語話者の優位性を強化するしくみが至る所にあり、結果として「ネイティブスピーカー=理想の英語教師」という誤解を抱かせやすい構図となっている。だからこそ、ALTの選抜過程では、候補者の「能力」よりも「資質」が重視されており、それがネイティブスピーカーリズムの再生産に寄与しているともいえる。
  • 上記の発想は新自由主義的傾向とも一致する。ことばを選ばずに言えば、学校の「価値」を高めるために、宣伝効果を高めるALTを一種の商品として雇う——と説明できる。
  • 新自由主義・NPMと親和性が高い英語教育では、各施策の目的・意図について考察する際、上記のような「宣伝効果」「広告塔」「商品」としての側面を考慮に入れる必要がある。

5章「教育における自由と平等」

機会の平等

  • 平等について議論する際、機会の平等/結果の平等という区分がよく使われる。一般的には、「結果の平等は許容されるが、機会の平等は是正されるべき」という主張が言われるが、本書ではそれに対して批判的な考察を行い、機会の平等の不明確さについて説明している。

(前略)機会の不平等の是正は、環境による格差だけを対象にしているのか、それとも遺伝による格差も含むのか。19世紀末に創始した教育学における実証研究において、当初、「氏か育ちか (Nature or Nurture)」という点は大きな論争になったが、次第に遺伝的要因の影響は顧みられなくなった。このことは現実に遺伝的要因が教育や発達と無関係であることを意味しているのではなく、教育学あるいは他の社会科学的コミュニティによる意図的な過小評価の結果にすぎない。(p. 100)

  • 上記をふまえ、本書では機会の平等の是正のパターンを以下のように分類している(表は引用者が作成)。*3

格差是正に関する考え方の3分類

  • 現在の日本の英語教育では、「遺伝的要因」の是正についてはほとんど議論されることがない一方で、「環境的要因」についてはたびたび取り上げられている。例えば、2020年度の民間試験導入をめぐる批判内容の中には、それによって生じる地域格差や経済格差が注目された。
  • 国語学習に照らして考えれば、「遺伝的要因=言語適性」とも言える。
  • 1950年代は外国語科の「学習不可能性」が指摘されていたことからわかるように(相澤, 2005)、遺伝的要因による教育機会の格差は問題視されていなかった。むしろ相澤が指摘するように、外国語の選択制推進の根拠の一つとして、学習不可能性は積極的に指摘されていた。つまり、遺伝的要因による英語学習の学習機会の格差を(積極的に)容認していたと言える。
  • 一方、今日の英語教育では、外国語科の学習不可能性が問題視されることはほぼない。遺伝的要因を「是正しない」というスタンスは昔も今も変わらないが、1950年代は「遺伝的要因は存在するが、是正する必要が無い」という考え方だったのに対し、今日では「遺伝的要因は存在するが、是正するほどのものではない(=努力によって何とかなる!)」という考え方に近い気がする。「英語は時間をかければ誰でもできる!」や「才能よりも努力が大事!」という努力至上主義が浸透している実態があるのではないか。その証拠というわけではないが、エセ・ウォッシュバック専門家のT進ハイスクールのY氏も「英語なんて言葉なんだ、こんなものやれば誰だってできる。」という名言を残している。補足して換言すれば、「英語は言葉である。だから、才能に関係なく努力次第で誰でもできるようになる」という意味になる。正直、何を言っているかよくわからないが、少なくとも、「英語学習は才能よりも努力がダイジ! 努力さえすれば、才能の優劣はさほど関係ない」というロジックが前提とされていることはわかる。
  • 「英語は時間をかければ誰でもできる」という言説の真偽については不問にするとして、ここで重要なのが、「英語力—努力」という結びつきが今日ではかなり強固なものとして認識されている点である。たしかに語学の習得には相当な努力が必要ではあるが、その特徴が重視されすぎるがあまり、「英語試験で高得点を取る=英語力が高い」だけでなく、「英語試験で高得点を取る=努力家」という認識をもたらすようになっている(久保田, 2015: 4章)。純粋に英語力をはかるための手段としてではなく、その人がそれにあたりどれくらい努力をしてきたか(=どのくらい勤勉であるのか)をはかるための手段、一種のシグナルとして英語テストが使われているという現実がある。

2022-11-09 追記

  • そもそも、JET プログラムの主目的は、日本の英語教育における質向上ではなく、国際交流、とりわけ、対米貿易黒字の削減であった(例えば、江利川 (2018), p. 270 を参照)。JET プログラムが開始したのは1987年の8月で、その当時、日本は好景気で、対米貿易でも10年以上大幅な黒字を計上していた一方、アメリカはロナルド・レーガン大統領の就任以降、軍事費に多額の予算を投じていたことに加え、対日貿易では多額の赤字で、いわゆる「双子の赤字」状態。当然、アメリカ国民の反日感情は高まっていき、1980年代には最高潮に達し、「ジャパンバッシング」と称されるほどの政治現象となった。
  • この対米貿易黒字の削減、それに伴う、日米関係の改善の一手段として採用されたのが、「語学指導等を行う外国青年招致事業 (The Japan Exchange and Teaching Programme: JET プログラム)」であった。つまり、繰り返しになるが、JET プログラムは、日本の英語教育の質向上のための施策ではなかったのだ。
  • 外国青年を日本に招致するからには、何かしらの仕事を与える必要が出てくる。そこで採用されたのが、「外国語指導助手 (Assistant Language Teacher: ALT)」であった。JET プログラムの職種は他にも、国際交流員 (CIR)、スポーツ国際交流員 (SEA) の2つがあったようだが、実際のところ、参加者の9割がALT として、小中高で英語教育に関わってきたと報告されている(江利川, 2018, p. 270)。
  • 以上のように、JET プログラムの主目的は「日米関係の改善」であり、だからこそ参加者条件として以下の内容を満たす必要があった。すなわち、① 米人が好ましい、② 米国に帰国後、親日政策に貢献できるだけの影響力を有すること——の二つである。②については、換言すれば、英語指導力に長けているとか、資格を持っている云々よりも、その人が将来活躍する見込みが高いかどうかが重要であった。そのわかりやすい指標となるのが、「若者であること」と「大学卒であること」の2つであった。だから、指導経験よりも学歴重視であり、能力よりも資質重視なのだ。
  • 今日では、JET プログラムやALT 制は、「日米関係の改善」というよりも、「日本の英語教育の質向上」という面が注目されるため、「WASP 中心に偏った採用」「資格の有無に関係のない採用」に違和感をもつ人がきわめて多いが、そもそもの目的が対米貿易黒字の削減であって、その際設計した制度が経路依存で今日まで続いている——と考えれば、うまく整理できる。JET プログラムやALT の制度について、その制度設計や意義に批判が集まることが多いが、その歴史性を考慮せずにやみくもに現状の制度に異議を唱えても、建設的な議論とはならないだろう*4

*1:本調査はALTの母集団全体を対象としたものではないためこの結果を日本全体の教育状況に一般化することはできない。とはいえ、本調査ほどの規模でALT の実態について調査した研究は他になく、おおよその実態を知るうえでは有益な調査であると言える。

*2:Levis et al. (2016) によると、ネイティブに教わろうとノンネイティブに教わろうと、発音の向上の度合いに差はなかったことが報告されている(「発音はネイティブに教わりたい!」と言う学習者は多かったらしいが)。本調査はあくまで一部の「発音」に限った効果面での話だが、ALTがもたらす学習効果を検討する材料とはなるだろう

*3:「中道的機会平等論」「革新的平等論」という名称は本書のものではなく、私が勝手につけたものです

*4:念のため言っておきますが、現状の制度に不満がないわけではありません