SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【雑感004】いまの入試は「4技能」ではなく「総合的な英語力」?

ここ2~3年で,「総合的な英語力」という用語が(主に大学英語入試に関わる文書の中で)頻繁に用いられるようになってきた。世間の認知度も低いし,英語教育に関係する専門家の間でもほとんど話題になっていないと思うが,明らかな傾向としてそう言える。現在,「総合的な英語力」という用語が大学英語入試政策の中で表出した経緯とその動向について分析しているが(順調にいけば,夏ごろに論文が公開される予定),ここではその前段階として,「総合的な英語力」とは一体何なのか,どのような学術的知見にもとづく用語なのかについて整理しておきたい。

1. ここ2~3年で(地味に)多用されている「総合的な英語力」

大学英語入試改革のキーワードと言えば,従来までは「4技能」と言えるだろう。「これまでの入試はリーディングとリスニングの2技能に特化していた。だから日本人は話すことと書くことができないんだ。ってことで,大学入試を4技能化しよう! 英検やTOEFLなどの資格・検定試験を活用しよう! そうすれば,高校の英語教育が劇的に変わる! 日本人みんな英語がもっと話せるようになる!」というあまりにも杜撰で乱暴な論理で進められたのが2020年度の大学英語入試改革であった。「4技能」というマジックワードがもたらす推進力はいまだに健在で,それこそつい先日,鈴木寛さんのインタビュー記事 (L) でも上記と同様の論理で入試改革の必要性が訴えられていた。本記事の主旨からは逸れるので簡潔なコメントだけ残しておくとすれば,いい加減,入試を魔法の杖として扱うのはもうやめようよ…… 「地域間、学校間、生徒間の格差が目立っているのも事実だ」と認めているにもかかわらず,なぜ共通テストに4技能型の資格・検定試験を導入することが「日本人全体が英語コミュニケーション能力を高めるチャンス」(下線は引用者)と言い切れるのか,この人の思考が全く理解できない。この「日本人全体」の中には,共通テストを入試で使用しない高校生の存在や,大学へ進学しない高校生の存在が排除されているのではないか。そもそも,教育現場の実態も苦労もよく考えないまま,入試さえ変えれば高校の英語教育が劇的に良くなるというあまりにも素朴な因果推論をしていることに心底あきれる。誤解しないでいただきたいのが,別に今の入試に欠点がないと言いたいわけではない。私が言いたいのは,入試政策以外にもやらないといけないことは山ほどあるわけで,現状の問題・課題をすべて入試に押し付け,他の施策については思考停止を促すような提言はやめていただきたい,ということ。

閑話休題。タイトルにもあるように,ここ2~3年で「4技能」と並んで多用されている用語が「総合的な英語力」である。この用語が特徴的に使用されているのが「令和7年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト問題作成方針」(L) である。以下に令和6年度と令和7年度の一部を引用するので,両者を見比べてみていただきたい:

<令和6年度版>

高等学校学習指導要領では,外国語の音声や語彙,表現,文法,言語の働きなどの知識を,実際のコミュニケーションにおいて,目的や場面,状況などに応じて適切に活用できる技能を身に付けるようにすることを目標としていることを踏まえて,4技能のうち「読むこと」「聞くこと」の中でこれらの知識が活用できるかを評価する。したがって,発音,アクセント,語句整序などを単独で問う問題は作成しないこととする。(大学入試センター, 2022, p. 4, 下線は引用者)

<令和7年度版>

⾼⼤接続改⾰の中で,⾼等学校学習指導要領の趣旨を踏まえ,各⼤学の個別選抜や総合型選抜等を含む⼤学⼊学者選抜全体において,「聞くこと」「読むこと」「話すこと」「書くこと」の総合的な英語⼒を評価することが求められている。(大学入試センター, 2023, p. 7, 下線は引用者)

どちらの文書も趣旨は類似しているが,令和6年度では「4技能」が使用されていたのに対し,令和7年度では「4技能」が使用されていないことに加えて,「総合的な英語力」が新出している点に注意されたい。些細な違いに思うかもしれないが,この特徴は偶然ではなく,文書作成者の明らかな意図を感じる。というのも,令和7年度の問題作成方針では,文書全体にわたって「4技能」という用語が一切使用されていないからだ。それだけでなく,2023年末に公開された,「令和7年度試験の問題作成の方向性、試作問題等」(L) の中でも,「4技能」という用語は一度も使用されていない一方で,「総合的な英語力」は多用されている。

2. 「総合的な英語力」という用語が生まれた経緯

では,「総合的な英語力」という用語は一体どこからやって来たのか? その起源は2020年から2021年にかけて開かれた「大学入試改革のあり方に関する検討会議」にある。詳細は省くが(夏公開予定の論文を参照),当会議にて複数の委員により「英語4技能」という概念の妥当性・正当性が論点として挙げられた。具体的には,英語能力を4技能に切り分けて別々に評価・育成する方針に対して委員の半数以上が疑義を示し,そのアンチテーゼとして,委員の一人である上智大学の渡部良典教授が「総合的な英語力」「インテグレーティッドスキル」を提示したところ,他の委員にも賛同を示し,最終的に2021年7月に公開された「大学入試のあり方に関する検討会議 提言」(L) に反映された。

「大学入試のあり方に関する検討会議 提言」は以下の5章構成となっている:

第1章 大学入学者選抜のあり方と改善の方向性
第2章 記述式問題の出題のあり方
第3章 総合的な英語力の育成・評価のあり方
第4章 地理的・経済的事情、生涯のある受験生への合理的配慮等への対応
第5章 ウィズコロナ・ポストコロナ時代の大学入学者選抜

「総合的な英語力」についての説明に1章分を割いていることから,この用語の生成を当会議の成果の一つとして重視している点が読み取れる。なお,こちらの資料についても「4技能」という用語が一切使用されていない点も強調しておきたい。

ところで,ここまで定義せずに使用してきたが,「総合的な英語力」とはいったい何なのか。「大学入試のあり方に関する検討会議 提言」では次のように説明されている:

なお、「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」の各技能は、それぞれ別々に育成されるものではなく、例えば「聞いた情報を整理して自分の考えを話す」、「自分の考えを書くために必要な情報を読む」といった、技能統合的な言語活動を通して、総合的に育成・評価するべきものであり、その観点から、本提言では「総合的な英語力」という表現を使うこととする。(p. 19)

言わんとすることはわからなくもないが,これだけの説明では曖昧過ぎる。どのようなテストであれば「総合的な英語力」を評価することになるのかが全く不明である。提言の中には,共通テストの規模で「総合的な英語力」を評価することは実施上の課題が大きいことを理由に,「多くの大学・学部にとっては、資格・検定試験の活用が現実的な選択肢となる」(p. 26) という記述がある。言うまでもなく,「資格・検定試験」にも色々あるわけで,その目的もレベルもだいぶ違う。すべてを一括りにして「資格・検定試験ならば,総合的な英語力が測れる」という横暴な論理が今後展開されないことを切に願う*1

また,「総合的」とは言うものの,以下のような説明からもわかる通り,そこには従来のスピーキング・ライティングの育成・評価の推進という意味が込められている点も注意が必要である:

高等学校までの教育課程においては、総合的な英語力の育成が目標とされ、授業を実際のコミュニケーションの場面とする観点から高等学校学習指導要領で「英語で授業を行う」と告示されてから10 年以上が経過している。一方、大学入学者選抜が「読む」ことの力や文法等の知識を問うことが多いため、大学入学者選抜が近づくほどに、「話す」、「書く」を含めた総合的な英語力の育成より、「読む」ことの力や文法等の知識に関する学習に偏る傾向を生んできたのではないかとの指摘が多い。(p. 25)

結局のところ,「4技能」の論法と同じではないか…… と感じるのは私だけではないだろう。「総合的な英語力」という用語自体に罪はないであろうが,この用語が提示された当初の意味からどんどん離れて行っているようにしか見えない。

3. 応用言語学,テスト研究の知見から

そもそも,提案者は「総合的な英語力」という用語にどのような意味を込めていたのか。「総合的な英語力」に関する学術的知見はどれほど蓄積しているのか。この点について,応用言語学,テスト研究の知見を概観しながら最後に整理しておきたい。

integrated skill の研究の特徴

integrated skill 関連の先行研究を概観してみたところ,印象としては,特に「ライティング」関連の研究が多い印象。すなわち,「書くために読む/聞く」とか「書くときと読む/聞くときの認知スキルの差異」とかの研究が多かった。この分野は専門ではないため,あくまで片っ端から先行研究を読んだところの印象ではあったが,Huang & Hung (2018) でも「大半のintegrated test tasks に関する研究はライティングに着目していて,スピーキングに注目した研究はほとんどない」(p. 202) とはっきり書いてくれているので,たぶん当たっているのだろう。

integrated assessment に関する用語の横溢

先の「大学入試のあり方に関する検討会議」では「総合的な英語力」「インテグレーティッド・スキル」という呼び名が使われている一方で,応用言語学ではどちらかといえば,"integrated task" や "integrated assessment" という用語の方を多く目にする印象。しかしYu (2013) によれば,ほぼ同一内容を指すにもかかわらずこれ以外にも複数の呼び名があり,用語の横溢が混乱を招いているらしい。細かい用語の違いから挙げれば,"integrated skills" と表記する文献もあれば,"integrated competence" と表記する文献もあったなぁと。 あるいは,integrative test なのか integrated assessment なのか。この点については,Yu (2013) で検討されている。昔から存在するのは integrative test で,彼によれば,「言語技能の一要素に注目していないテスト (not discrete-point test)」「さまざまなスキルを組み合わせることが求められるテスト」(p. 112) という定義で,その例としてクローズテスト (cloze test) が挙げられている。クローズテストとは,一部が空欄になった文章を穴埋めすることが求められるテストで,なぜそれが "integrative test" なのかと言えば,"both linguistic knowledge and the ability to predict meaning from a written text" だから——とのこと。なるほど,複数の認知スキルが統合されることが求められていれば,integrated test と呼べるということであろう。一方で,言語技能の「統合 (integrated-ness)」には,上記のようなミクロな認知スキルの「統合」以外に,リーディング・リスニング・ライティング・スピーキングのようなマクロな言語技能の「統合」を意味することもあり,integrated assessment は後者の場合に用いられるのが主流のようだ (Yu, 2013, p. 113)。この区分に従えば,「大学入試のあり方に関する検討会議」で提唱された「総合的な英語力」は,後者の integrated assessment に近い概念であると言えるだろう。

ただし,両者の定義は研究者間でも違いがあり,それぞれの用語がどちらの意味で使用されているのか曖昧なこともあれば混同されている場合もあることに加え,両者の位置づけについても不明瞭な点が多い(ex. integrated assessment をintegrative test と同義として扱うか,あるいは,下位概念として扱うか等)。integrated assessment の合意可能性が求められる所以である。

上記は skill / competence,test / assessment をめぐる言ってしまえば細かな違いだが,そもそもの名称がまったく異なる呼び名が複数ある点もこの分野の合意可能性を阻害している。Yu (2013) は"integrated assessment" と同義の用語の例として,"discourse synthesis, summary writing or summarization, integrated writing, writing from source(s), reading-writing task, writing-from-readings, and reading-responsible writing task (just to name a few)" (p. 113) を挙げている。

integrated assessment の意義と課題

Language Asessment Quarterly でIntegrated Writing Assessment が特集された際に,Cumming (2013) はその総括として,integrated writing assessment を行うに当たる5つの有用性 (promises) と5つの危険性 (peril) を提示している (p. 2)。

5つの有用性

  • 現実的でやりがいのある読み書き活動を提供する
  • 受験生が具体的な内容についてライティング活動を行う
  • 従来の技能分離型に関連する試験方法または練習の効果に対抗する
  • 構築–統合モデル (construction-intengration model) あるいはマルチリテラシーモデルに沿って言語能力を評価する
  • 指導や自己評価のための診断的価値を提供する

※ 1つ目については真正性 (authenticity) とも言い換えられるであろう

5つの危険性

  • 作文能力と資料理を理解する能力の測定を混同する
  • 評価と診断を混同する
  • 定義が曖昧で,それゆえに採点が困難な分野を含む
  • 実力を発揮するためにはある一定以上の能力が必要であり,異なる能力レベル間で系統立てて比較できない
  • ライティングのソースにした文章と,受験者自身が生成した文章の区別の困難さ

※ 4つ目について補足しておくと,要するに「書くために読む」という活動をする際に,そもそも「読む」能力が一定水準以上に達していないと「書く」までたどり着くことができないわけで,そのテスト結果の善し悪しで果たして「書く能力がある/ない」と言えるのか,一体何を評価していると言えるのか,という指摘。


「大学入試のあり方に関する検討会議」で「総合的な英語力」が推進された理由は,議事録を見た限りでは真正性の追求が大きい。確かに大学での英語を使った講義や,社会人として英語を使用する場面を想定してみると,4技能をそれぞれで分離して使用するよりも,「書くために読む」や「話すために聞く」といった言語技能の統合の場面が連想されることは私だけではないだろう。しかし,Comming も警告するように,その定義がきわめて曖昧であることは否定できず,定義が曖昧であればそのテストの妥当性や信頼性にも不安を禁じ得ない。単なる診断テストとして日ごろの指導・学習に活かすために行うならまだしも,果たしてそれを入試というハイステークス場で実施するに耐えるだけのテスト設計が可能なのだろうか。個々の教員が教室レベルで評価を行うならまだしも,果たしてそれを共通テストほどの大規模なテストで評価するだけの知見とリソースが用意されているのだろうか(もっといえば,そのコストに見合うだけの価値がそこにあるのだろうか)。


中途半端な形で終わってしまいましたが,つづきは論文で書く予定なので,興味のある方はそちらをお読みいただければ幸いです。
本投稿と夏公開予定の論文を通じて,2024年度新課程の大学英語入試に関する方針について,一考を促す材料を提供したいと思います。

*1:願ってはいるものの,実際のところは…… という話についても夏公開予定の論文で言及する予定です

【読書メモ032】海外の15歳の生徒がどのように英語を学んでいるか (OECD PISA Project, 2024)

読書会で読んだ文献。記録として,読書メモを転載しておく。

書誌情報:OECD PISA Project (2024). How 15-Year-Olds Learn English: Case Studies from Finland, Greece, Israel, the Netherlands and Portugal
https://www.oecd.org/greece/how-15-year-olds-learn-english-a3fcacd5-en.htm

2025年から国際学力調査PISAに「英語力調査」が追加される(ちなみに日本は不参加の予定)。本調査はその実施に向けた事前調査として,フィンランドギリシャイスラエル・オランダ・ポルトガルを対象に,「15歳の生徒がどのように英語を学んでいるか」というRQの解明を事例研究を通じて試みている。詳しくは以下の通り:

In 2025, the OECD’s Programme for International Student Assessment will include an optional Foreign Language Assessment generating international comparable data on students’ English language proficiency. To support the analysis, and with co-financing from the European Commission, the OECD has conducted case studies exploring how 15-year-olds learn English in five countries: Finland, Greece, Israel, the Netherlands and Portugal. (p. 5)

以下,コメント。

  • 調査課題を「各国で英語がどのように学ばれ教えられているかについての知見がほとんど無い」(p.11) とし,そのために5か国を対象として調査している。その際,各国の3校を対象に事例研究を行った――と書かれているが,その3校の選定基準や根拠について明確な説明が記されていない。
    • 校長などの管理職,英語教師,生徒を対象にインタビュー調査を実施。調査対象に「生徒」まで含めている点は興味深い(それが分析に活かされているかは別として)。
    • 一方で,方法論的には,「国」を対象とする調査というより,「学校」を対象とする調査に向いていると思う。その学校の文化や風土,それを土台とする学級経営・授業の連関を調査することには向いているが,それだけでは「国」や「政策」との結びつきまでを包摂できるわけではない。
  • 関連して,そのような事例校を対象として得たデータを果たして「国」全体に拡大して捉えていいのか,疑問に思う記述もいくつかあった。
    • 念のため断っておくと,文書内では「この知見は国全体の傾向を代表することを目的としていない(("The findings do not purport nationally representative and should not be unterpreted as such" (p. 15)))」と書かれており,ここでの知見の限定性については警告されている。だが,分析ではけっこうその点を無視している印象を受けた。
    • 例えば,p. 131 のオランダ,フィンランドについて「外国語科目の選択として英語が大半を占めているという現状が,英語帝国主義を助長する恐れがあることを指摘する教師・生徒はいなかった」という指摘は,比較研究としては妥当な分析ではないし,そもそも単発のインタビューしか実施していないわけで,それを根拠にしても…… という感じ。
    • あるいは,p. 133 のTable 8.2 (下表参照)。紫と薄紫で彩られていてスタイリッシュな表に見えるが,一方で,表している内容はかなり怪しい。紫色の部分が「2校かそれ以上の学校で当てはまる項目」,薄紫が「1校で当てはまる項目」を表している。いやいや,どう考えても計量的な分析に足るほどの調査数じゃないでしょ…… この分析から,例えば「ポルトガルはlow-perfoming students に手厚くサポートする」というような国の特徴を導き出すことは強引すぎるのではないか。
OECD PISA Project (2024), p. 133
    • あるいは,p. 134 の「イスラエルは能力別の少人数クラスが実現されている」という指摘(ご丁寧に”in the schools visited” と書かれている)。これらをポルトガルイスラエル全体の傾向として捉えていいのか。
    • むしろ,p. 134 にある「オランダでは明確な individualising learning to meet each learner’s needsがある」のようなマクロな教育観や政策について記し,国ごとの比較を行ったうえで,それに沿って各実践をミクロに見ていく――というデザインの方が「言語政策」の議論にはつながりやすいと思う。各国の事例校を(理論的な裏付けがない状態で)1~3校選んで調査し,その知見をもとに各国間の比較を行うという手法は,さすがに無理筋ではないか。OECD PISA Projectよ,何をしているのだ?
    • 一方で,もしかしたら本調査は「質問紙作成のための予備調査」としての位置づけの可能性があるのではないか――という指摘が読書会の中であった。もしそうであれば,今回のような調査設計でもまぁ良いのかもしれないが……(だとしても,上記で言及した分析の粗さは正当化されないが)
  • “policy” という語の多義性と階層性が気になりました (p. 12):

four policy domains: 1) government and school policies; 2) students and learning; 3) teachers’ training and profile; and 4) teaching practices

    • OECD (2021) のスクショも添付しておきます。


    • 国レベルの政策と学校レベルの政策(・実践)が区別されていない印象。国がどのような政策を形成するかという点と,その影響を受けつつ学校がどのような政策・施策を形成・実践するかは別問題ではないか。
  • フィンランドでは英語が必修ではないものの,1990年代以降,事実上の必修科目となっている (p. 38; 130-131) という現状は,かつての日本を想起させる点でも興味深いと思いました。

【読書メモ031】三浦 (2021)「『教員間の協働』の計量分析」

下記文献を大学院の演習で発表する機会があった。記録として,発表資料の中の考察をこちらに転載しておく。
先に断っておくと,やや辛口のレビューにはなってしまったものの,本論文を起点としてさまざまなことを考えることに繋がり,たいへん勉強になる論文だった。

書誌情報

第5章2節;
三浦智子 (2021)「『教員間の協働』の計量分析」秋田喜代美・藤江康彦(編)『これからの教師教育研究―20の事例にみる教師研究方法論』(pp. 277-289) 東京図書


以下,本章の「はじめに」より引用

私の研究分野は教育行政学・教育経営学といった学問領域になりますが,具体的には,学校組織の経営や,学校を支える制度・政策,保護者・地域住民との連携といったことに注目し,学校における日々の活動や教育委員会による実際の取り組みを観察・分析しながら,学校教育のよりよい環境整備のあり方について追及したいと考えています。本節では,著者の論文(三浦, 2014)の内容を紹介しながら執筆の過程を振り返ることを通して,「教員間の協働」を対象とした計量分析を行うことの意義や可能性,研究上の課題について考えます。(p. 277)

参照論文:三浦 智子 (2014)「教員間の協働の促進要因に関する計量分析」『日本教行政学会年報』40, 126-143. https://doi.org/10.24491/jeas.40.0_126

論点 (1) 量的研究にできること/できないこと

 三浦 (2014) では被説明変数として「教員間の協働」を置き,その説明変数を計量調査によって明らかにすることを目的としている。以下,「一般化可能性」「解像度」の観点から,本論文のレビューを試みたい。


量的研究の長所として一般化,すなわち,多数のケースを検討することで母集団の値が推測できる点がよく指摘される。しかし,量的研究であれば必ずしも一般化が可能というわけではない。このことは,三浦 (2021) の「計量分析が可能とするのは,仮説を『法則』として定立することではなく,経験的に一般化できるか否かという視点に立ちつつ,多くの個別ケースを観察することに過ぎない」「一般化され得る正当なものであるかどうかについては,別途,理論的な裏付けが行われる必要があります」(p. 284, 下線は引用者) という指摘からも同様の趣旨が読み取れる。ただし,ここでの「経験的に一般化できるか否かという視点」「理論的な裏付け」という説明が具体的に何を意味するのかわかりにくい。特に前者の「経験」とは「経験則」のようなものだろうか。だとしたら,量的研究で得られた知見が一般化可能かどうかは,個人の認識に合うか/合わないかという問題になり,きわめて属人的になりやすい。


一方で,「理論的な裏付け」については端的に回答可能である。それは対象者の抽出法(選び方)である。最も理想的な抽出法はランダム抽出(無作為抽出)である。具体的には,(1)母集団を名簿などをもとに確定し,(2)その母集団から調査対象者を乱数などを用いてランダムに選び出す作業を意味する。では,なぜランダムサンプリングをすることが必要なのか。通俗的な理解は,ランダムに選ばないと偏りが出るから――となるだろう*1 。例えば,母集団を全国の大学生とする調査をつくば駅の改札口前で実施すれば,多くは筑波大学の学生だろうから偏りが生じる。当然のことながら,そのサンプルに基づく結果を日本の大学生全体に一般化することはできない。


本研究は関東地区の小学校(全5108校)の内の20% を無作為抽出し,1024校の小学校を対象に質問紙調査を行っている(回収率は30.76% である)。そのため調査対象者を見る限りでは,本研究の母集団は「関東地区の小学校」と言える。しかし,分析結果や結論を見ると,関東地区に限定せず「日本の小学校」に向けた示唆や提言が見られる。その意味で,本研究は「日本の小学校」への一般化が志向されているように思われる*2。もしそうであれば,関東地区の小学校が日本の小学校を代表する根拠についての記述が欲しいところだが,特にそういった説明は見られない。さらに,今回のサンプリングが日本の小学校全体と比べてどのような特性を有しているのかについての記述も見られない(例えば,サンプルの学校規模が全国平均と比べて大きいのか少ないのか)。果たしてここでの知見を「日本の小学校」に当てはめていいのかどうか,疑問の余地がある。


次に,統計分析を行う上で必要な操作化・指標化に伴う解像度の低下について述べていく。筒井 (2021)が指摘するように,「『解像度』という観点からいえば,基本的に質的データの方がそれが高い(きめ細かい)ことのほうが多い」(p. 93)。以下,具体的に説明していく。


本研究での鍵概念である「教員間の協働」は,(1)指導方法・内容に関する教員間の相互支援,(2)教材研究・単元開発に関する教員間の相互支援,(3)教員間の授業見学の頻度――の3変数が用いられている。これらの変数が「教員間の協働」と関連があることは経験的に肯定できるものの,特に根拠があるわけではない。また,本論文ではこれら3つの変数の主成分得点を用いているが,これらの変数をなぜ足し合わせていいのかについての理論的説明がなされているわけではない。マストではないが,信頼性分析(クロンバッハのα) についての記述を追加してもよかったのではないか(あるいは戦略的に記していないのか)。


加えて,校長に関する質問が人事上の質問(校長職務経験年数,勤務校在任年数)に限定されており,「2.2. 校長のリーダーシップへの遡及の限界」という節で説明があった割には,分析にその点が考慮されていないように感じる。最後に,本論文でも最後に触れられているように,この調査が「校長の認識」に基づく回答である点にも注意が必要である。分析結果からは,保護者の参画が教師間の協働に有意な影響をもたらす様子は観察されなかったものの,あくまでこの回答は「校長がイメージした保護者の教育関心の高さ」であって,その意味で「保護者の教育関心の高さ」の解像度が高いわけではない点に留意が必要である(もちろんその解像度の低さを犠牲にすることで数量化が可能となり,それによって重要な知見が得られるという点も強調しておきたいが)。

論点 (2) 「教員間の協働」や「学校風土」とは一体何なのか

論点(1) で述べた「解像度」の問題とも関連するが,そもそも「教員間の協働」とは何なのか。本論文の<注3>では,「『教員間の協働』の定義は多岐にわたる」(p. 141) と記し,Lavie (2006) による定義を参照したうえで,「④再構成的言説(経営の変革を志向した専門職共同体,組織的な学習指導)」の意味で「教員間の協働」を用いると記されている。素朴な感想ではあるが,これは注ではなく本論に含めるべきではないだろうか。「教員間の協働」は本論文の鍵概念である上に,三浦自身も述べるようにその定義が多岐にわたるのであれば,本論における概念の明確な定義は不可欠であろう。


このことに関連して,私の理解力の問題かもしれないが,「教員間の協働(あるいは高い信頼関係・社会関係資本といった学校組織風土)がいかなる環境の下で醸成・維持されるのかといった点は殆ど解明されていない」(p. 128) という記述は,その指摘を否定こそしないものの,理解が追いつかない。「教員間の協働」のみならず,「学校組織風土」や「学校風土」についてもその定義が多岐にわたるため,何を言っているのかよくわからない。


Wang & Degol (2016) では,「学校風土 (school climate)」の理論や生徒に与える影響,測定方法と分析方法についての先行研究がレビューされている。彼らの分析によれば,学校風土は多次元的 (multidimentional) な概念であるにもかかわらず,その多次元性を考慮した分析を行っている先行研究は少ない。また,「学校風土」の定義が研究者間で異なるうえに,明確な説明が記されていない先行研究も少なくないため,合意可能性がかなり怪しい。これらの問題をふまえ,彼らは,「学校風土」という概念の明確な定義と,それに基づく精緻な研究デザインの構築を提唱している。具体的には,先行研究のレビューをもとに,学校風土を academic climate, community, safety, institutional environment の4つのドメインに分類している。この分類に従えば,三浦 (2014) が言及する「教員間の協働」は community に分類されるであろう。Wang & Degol が指摘するように,「学校風土」について言及する際は,その概念の複雑性や多次元性に注意する必要がある。換言すれば,「学校風土」という用語が指す範囲を明確にしたうえで,その効果や意義について論じることが求められる。先の記述は,おそらく読者の理解を助けるために追加した記述だと思われるが,「学校風土」の多義性ゆえにかえって誤解を招きやすい説明となっている。

論点 (3) 研究をどのように政策的示唆に結びつけるか:研究者はどこまで足を踏み入れるべきか

「政策的示唆」という言葉を聞くと,どうしてもParkhurst (2016) による警告を思い出してしまう*3。 具体的には,「研究者と政策立案者の棲み分けをハッキリ意識しよう」(p. 25) という指摘。彼曰く,研究者にできることは質の高いエビデンスを生み出すことのみで,実際にどういった政策を実施するかは政策立案者の判断による。その意味で,エビデンスは政策立案者に情報を「伝える」のみで,道筋を「示す」わけではない。例えば,もし仮に「少人数制学級は生徒の学力に正の影響を与える」というエビデンスがあるとしても,少人数制学級を実際に施策として実施するかは教員数や研修にかかるコストがどれくらいかかるか,それに見合う便益が得られるか,社会からのニーズに応えられているか——などの政治的判断をもとに実施するか否かが決定される。そもそも,どんなに良質なエビデンスであろうと,その研究内容がアジェンダと何の関係も無いのであれば、情報を「伝える」存在ですらない。この厳しい警告を読んで以降,「政策的示唆」という文言について良くも悪くも身構えてしまうようになった。


本論文の結果についても同様のことが言える。調査の結果,教員集団の規模が大きい学校ほど,教員間の協働関係が行われやすいという結果が得られたわけだが,このエビデンスを基に,「小学校の教員数を拡充すべきだ!」というのはあまりに安易だし,非現実的である。このことは,「地域特性や少子化の影響により,小規模校の増加傾向は否めない」(p. 140) というように論文中でもその限界についての説明が付されている。そのうえで,「学校の内部過程において教員間の協働を促進できない学校に対し,教育委員会の指導助言はこれを補うものとして機能することが期待される」(p. 140) というように,教育委員会による指導助言の有効性については,政策的示唆のひとつとして記述しているように読み取れる。小学校教員数の拡充と比べれば,ずいぶんと控えめな政策的提言であり,その分反発も起きにくいが,インパクトは小さい。大胆な政策的示唆は現実に即していないことが多く一蹴されやすい一方,コストパフォーマンスの問題やその施策の実現可能性を考慮すると,控えめな政策的示唆しか書けないというジレンマがここにある(もちろん,ものによっては,あえてコストパフォーマンスを述べることで,提案したい政策の正当化がはかられる場合もあるだろうが)。

*1:より詳細な説明については,筒井淳也 (2023)『数字のセンスを磨く』pp. 196-197 が参考になる

*2:これには,「一般化」という言葉が有する曖昧さも関係しているだろう。質的研究への批判,あるいは,量的研究への強みとして「一般化可能性」がたびたび言及されるものの,その言葉が独り歩きしていることが多く,どのような母集団を想定した「一般化」であるかが説明されていないことが少なくない

*3:この文献については,本ブログでも以前検討した: sudos.hatenablog.jp

【雑感002】子どもの声や意思決定の参画:権利論と教育論に着目して

過日,「子どもの声や意思決定の参画」について大学院の演習で学ぶ機会があった。以下,備忘録として記録を残しつつ,それに関連して,今後の個人的な研究テーマについても検討してみたい。

「子どもの権利」と「意思表明権」

まず,子どもの権利条約第12条について触れておきたい。以下は外務省による訳 (L)。

第12条

  1. 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
  2. このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。


端的に言えば,「自己の意見を表明する」と「聴取される機会」の2点が記されている。つまり,子どもの権利のひとつとして,子どもによる意思表明権は含まれる—―と聞いて,すとんと胸に落ちる日本人は一体どれくらいいるのだろうか。


視点を変えて言えば,「子どもの権利とは具体的になに?」と質問されたときに,即興で何を思いつくだろうか。暴力から守られることや差別をされないといった(不適切な言い方かもしれないが)「わかりやすい権利」はすぐに思いつく。しかし,12条の意思表明権まで明確に答えられる自信は,少なくとも半年前の自分にはない。だって,児童・生徒時代に自分の意見を表明する機会や,それが尊重される経験をしたことがないもの…… と個人的な感想を書いたものの,これが私に限った話でないことは,例えばセーブ・ザ・チルドレン (2023) による調査 (L) からも読み取れる。当調査によれば,「子どもの権利としてふさわしいものを選んでください」という質問で,「すべての子どもは、大人と同じように1人の人間であり人権を持っている」を選択した教員は88.2% であったのに対して,「子どもは自分と関わりあるすべての事について意見を表明でき,その意見は正当に重視される」を選択した教員は64.1% であったと報告されている。つまり,教職課程を修了し,日々教育活動に励む教員でさえ,3割以上が子どもの権利として意思表明権を認識していないということになる。世間一般の認識はこれよりも低いことが予想される。


このように日本では,意思表明権が子どもの権利の一つとして認識されにくい向きがある。「子どもの意見を大切にしよう」「子どもの意見に耳を傾けよう」という声を聞くことはたびたびあっても,それを権利論として捉えるよりも,規範論,つまり,何となくそうあるべき—―という態度で捉える者が多いのではないだろうか。


以上は「子どもの声/参画」の「権利論」についての話。正直言って,半年前の私はここで理解が止まっていた。というより,「子どもの声/参画」=「権利論」という偏見が強かったせいか,論文を読んでも頭の中に入ってこなかった。しかし,以下の区分けを意識するようになってから,この分野についての見通しがだいぶ良くなったように思う。


  1. 権利論としての子どもの声/参画
  2. 教育論としての子どもの声/参画
  3. 学校・政策改善のための子どもの声/参画


権利論としての子どもの声/参画

1 については先述した通りで,子どもの声/参画を子どもが一人の人間として有する権利として捉えることを指す。「子どもはだんだんと人間になるのではなく,すでに人間なのだ」というヤヌシュ・コルチャックの言葉が連想される。基本的人権は,当然のことながら年齢や条件に関係なく,すべての人間に保障される。その中には,先述した子どもの意思表明権も含まれる。


注意すべきは,どれほど子どもの意思表明権が尊重されようと,子どもが教育を受ける対象であるという事実は変わらないという点だ。つまり,子どもは主権者であると同時に,大人によって教育される存在・守られる存在でもあるという二面性に目を向ける必要がある。後者のみに力点が置かれるとパターナリズムに陥る可能性がある。かといって,子どもにすべてを委ねればいいというわけでもない。子どもの発達・成長には大人による支援が不可欠であるからだ。「権利論としての子どもの声/参画」について検討する際は,この二つの立場のせめぎ合いを念頭に置く必要がある。
テクニカルな言い方をすれば,子どもの権利条約における12条「意思表明権」と3条「子どもの最善の利益」のパランシング・アプローチの問題と言い換えられる。この点について,Lundy (2007) は次のように述べる:

[...] while children's best interests must be a primary consideration, their right to have their views given due weight cannnot be abandoned on the basis that the adults in their lives know what is best for them. Children's rights theorists have reflected for some time about the legitimate limits to children's autonomy, conclusing that it should only be restricted where the child's preferred course of action denies the child the right to an 'open future' (Feinberg, 1980), intereferes with their development interests (Eekelaar, 1986) or restricts their life choices in an irreparable way (Freeman, 1996). (p. 938, 下線は引用者)


子どもの「開かれた未来」への権利が剥奪される場合,子どもの発達の利益が妨害される場合,または,子どもの人生の選択が回復不能な形で制限される場合に限り,子どもの自律が制限されるべきだと述べられている。頷けはするものの,否定の仕様が無いというか。結局のところ,ケースバイケースで考えないといけない—―という感じ。例えば,大学進学を望まない子どもに対して,将来の選択肢を狭めないために進学を強制するべきなのか。英語が大嫌い(だけど数学が大得意)な生徒に対して,進学の可能性や将来の可能性のことを考えて,その学習を強制させるべきなのか。当時は嫌々やらされても,後々振り返ってみたら,強制されてでもやっておいて良かった—―となる可能性もある。一方で,「教育によって『将来』の幸せを保障するだけでなく,子供が長時間生活する施設として,子供が『今,幸せであること』を保障すること」(遠藤, 2022, p. 43)の重要性についても忘れてはならない。

教育論としての子どもの声/参画

2 については,主権者教育,シティズンシップ教育,民主主義教育,市民生教育という言葉で表されることも多い。この点については,以下の文献がたいへん勉強になった:


荒井文昭・大津尚志・古田雄一・宮下世与兵衛・柳澤良明 (2023)『世界に学ぶ主権者教育の最前線―生徒参加が拓く民主主義の学び』学時出版 (L)


主権者教育に関して改めて思うことは,主権者教育や民主主義教育の責任を社会科教育だけに押し付けたくはない—―という点。教科内容との関連からどうしても社会科に期待が集まることはわかるが,ひとつの教科のみで実践を行っても意図した効果は得られないだろう。渡部 (2019) の説明を借りれば,現代社会の複雑化,社会問題の複雑化により,「分析するにしても解決を試みるにしても,一教科としての社会科,そして人文・社会諸科学の専門家としての社会科教師の力だけでは対応できないまでに複雑化している」(p. 57)。他の教科との連携もそうだし,やはり学校全体のカリキュラムとの連関も考えたい。主権者教育が学校文化や生徒の実情と相まってカリキュラムとしてどのように落とし込まれ,それが各教科のレベルでどのように設計・実施されるか。日本ではあまり連想されにくいが,例えば先の文献の第2章ではシカゴ学区のサービスラーニングの実践として,次のような事例が報告されている (pp. 61-62)。

【英語】人種差別の歴史や移民の権利,障害者の権利といったテーマを取り上げた文学作品を読み,関連団体での活動や啓発活動を通じてそうした問題に取り組む。
【芸術】地域の英雄の物語を残すための作品を制作する。
【芸術】学校内や社会の問題について広く世に訴えかける作品を制作する。
【理科】環境問題について学び,地球温暖化水質汚染の調査や啓発活動に取り組む。
【理科】生態系について学習し,コミュニティ・ガーデンをつくる。
【社会科】移民関連の政策や問題を学習し,関連団体と連携して活動を行う。
【社会科】選挙についての学習の一環で,投票を呼び掛ける活動を計画し実践する。
【外国語】必要な単語を学習したのち,介護施設で高齢者に聞き取りをし,記録に残す。


私の専門的には【外国語】が気になる。上記はかなり簡略化された説明なのでその実情については詳しくはわからないが(もう少し知りたい),外国語・英語を通じた主権者教育の可能性については,日本でももっと検討されてよい。


日本の英語教育でも,主権者教育に関連する内容は多少なりとも行われていると言える。というより,戦後の日本の英語教育では,人格育成・国際理解といった技能面以外の要素に焦点が当てられていた(寺沢, 2014)。当時と比べれば,今日ではそのようなヒューマニスティックな英語教育論は薄まり,どちらかと言えば英語の技能面・実用面に重きが置かれている(cf. 江利川, 2023)。ただ,中学の教科書では昔と変わらずキング牧師のスピーチが引用され続けているし,高校の教科書についても環境問題やジェンダー問題などの英文が好まれる当たり,英語教育の実用面に完全に舵を切っているわけではないし,むしろ実用面の一本化に対する抵抗の向きもあるのだろう。


英語教育では,「主権者教育」という位置づけで語られることは少ないものの,「グローバル人材/グローバル市民の育成」や「グローバル・シティズンシップ教育」と結び付けて語られることはきわめて多い。ただ,そのような文言が教育学者によって想定される「主権者教育」の一つと言えるかどうかはかなり怪しく,得てして政策・施策を推進するためのスローガンやバズワードとして消費されることが多く,実質的な意味を伴っていない場合が多い (cf. Kubota & Takeda, 2021)。


上記のような教科目的論について検討する際は,もちろん各教科ごとに議論を展開することも重要ではあるが,生徒の目線から見ればあくまで各教科はワンオブゼムに過ぎない—―という点を忘れたくない。市民性教育に関して言えば,それは「社会科だけでなく,さまざまな教科で取り組むことができる」(古田, 2023, p. 61)わけで,社会科だけに責任を押し付けず,他の教科を通じた実践も考えたい。その際,各教科の個人プレーに委ねるのではなく,やはり学校全体での取り組みの視点が重要になってくる。小学校を除けば,教師が日常的にみえる世界は自分の担当教科がメインだろうが,生徒はそれらを総体として経験するということを忘れてはならない。


少し長くなったので,`「3. 学校・政策改善のための子どもの声/参画」についてはあらためて後日検討してみたい。

【読書メモ030】『高校入試に英語スピーキングテスト?』(大津・南風原, 2023)


読書会で読んだ文献。2023年度より都立高校入学者選抜にて実施された,中学校英語スピーキングテスト (ESAT-J) についての動向や問題点について整理されている。他の方から指摘されてなるほどと思ったが,本書は研究論文集というよりも,社会運動実践の文献に近い。たとえば第3章の波及効果についての説明は,(おそらく)あえて先行研究による学術的な話をメインにするのではなく,英語教育やテスト理論に明るくない読者にもわかるように内容が配慮されていることが窺える。

以下,本書の内容をもとに考えたことのメモ。

1章

p. 12 学習指導要領の逸脱について

  • 「ESAT-Jは、中学校学習指導要領に基づき、東京都が定めた出題方針により、出題内容を決めています」(L) と東京都教育委員会が述べている一方で,学習指導要領がどのような文法事項を扱うかを制限するわけではない――という浜教育長の回答。
  • 学習指導要領の最低基準という性質を逆手に取った方便のように思えた。教育現場では「最低基準」として位置付けられる学習指導要領が,入試では「出題範囲」として定められるという位置づけの違い。本来,後者であるはずの位置づけが,浜教育長の回答では前者の性質が念頭に置かれている。
  • 高校入試ではこのように教科内容面についての批判が集まりやすい一方で,大学入試(主に共通テストを想定して)では,学習指導要領や学習指導要領解説における教科内容面に注目されることはほとんどなく,どちらかと言えば教育目標や改訂内容に主眼が置かれている印象。例として,「やり取り」や「統合的な言語活動」。
  • 検定教科書と比較して貧弱な検閲体制。
  • 今回の問題点からはやや脱線するが,「学習指導要領との一致/不一致」についての判断が恣意的になりやすい。捉え方次第でどうにか押し通せてしまう。例えば,TEAPやGTEC,TOEIC などについて「各資格・検定試験が掲げる目的は、以下のようにそれぞれ多様であるが、いずれも学習指導要領が想定している言語の使用場面の範囲から外れるものではない」(p. 11) という文科省の見解 (L)。4技能の試験であれば,あるいは,CEFRに準拠していれば,学習指導要領に準拠することになるのか。学習指導要領の一部の項目に注目し,他の項目は除外しているにもかかわらず「準拠」とか「整合性を高める」という言葉を安易に使うことの危険性。

3章

p. 35 ESAT-J 事業の費用対効果

  • 本来,入試改革は他の施策と比較してコストがそこまで高くない点が特徴。しかしESAT-Jは事情が異なる。来年度以降契約するブリティッシュカウンシルが提示した額は6年間合計額209億5882万円。価格点は100点満点中0.6点にもかかわらず通過 (L)。
  • この金額があれば,例えば東京都の教員の留学に関する奨学金制度の充実や,クラスサイスの減少も進められるはず。
  • この金額を払ってまでして,スピーキング試験を行うことにどれほどの意義があるのか? そもそも,スピーキング力を測ることでしか,スピーキング力を把握することはできないのか? この点は,他の方法を実施する際のコストの点からも比較検討される必要がある。

p. 35「入試を変えれば教育が変わる」という言説についての最近の動向(大学入試も含めて)

  • 大学入試では,2025年の新課程の共通テストから,波及効果に関連する文言が削除。ただし,文科省による他の資料では,依然として民間試験の活用が波及効果を根拠に推進されている。

p. 45 テストの品質,公正性・公平性の向上と,事業者の利潤のトレードオフ

  • 「専門家が,都教委と事業者の間に立って,事業者の業務を管理し,テストの具体的な運営方針に関する調整を行うことが望まれます」(p. 47)
  • (上記に関連して)第三者評価についての議論
  • 「大学入試のあり方に関する検討会議」(2020~2021年)にて,イギリスのOfqual を引き合いに出しつつ,日本における民間試験活用の際の第三者評価機関の必要性について複数の委員より指摘された。その後,「大学入学者選抜における総合的な英語力評価を推進するためのワーキンググループ」(2021年~;大学入学者選抜協議会の部会)の第3回でも議題として取り上げられた (L)。配布資料の中に,全国検定振興機構のパンフレットが含まれている。それによると,総括評価,試験問題評価,会場運営評価の3つに評価が大別されている。
  • Ofqual は,イギリス国内のテスト業者の財政基盤や業務の実行能力などの評価をすることが目的。一方で,日本の入試の文脈で求められる第三者評価は,国内だけでなく海外で作成されるテストの観察・監督も含まれる。その意味で,他国の第三者評価の仕組みをそのまま直輸入できるわけではない。それに,個人的に最も評価してほしいポイントは,入試の公平性・公正性をめぐる問題なのだが,その役割を全国検定振興機構が担えるのか甚だ疑問。HPを見た限り,個々の検定試験に焦点を当てた評価であって,入試に活用した際の諸問題までは捕捉しきれていない印象。

p. 48「生徒の声」について

  • 子どもの意見表明・参画の機会について,ここ数年で(というか主に今年)法整備は急激に進展。例えば,2022年6月に公布,2023年4月に施行されたこども基本法では,憲法および子どもの権利条約に基づき,「こども施策を総合的に推進することを目的とする」ことが第1条に盛り込まれている(ちなみに「子どもの権利条約」に日本が批准したのは1994年)。また,2022年12月には『生徒指導提要』が12年ぶりに改訂され,子どもの権利条約やこども基本法に則り児童・生徒の権利の保障が明記。
  • このように子どもの意見表明・参画に関する法制化の動きは進みつつある一方で,実態がそれに伴っているわけではないし,複数の課題も抱えている(ex. 子どもの参画の形骸化/「子どもの声」の「子ども」とは誰か?)。その詳細については割愛するとして,ESAT-J 関連で思うのは,上記の文脈では,子どもは,権利の主体・政策決定の主体者としての面が重視されている一方で,「子ども=評価の対象」としての面も避けられないという点。入試はこの点がダイレクトに響いてくる。他の施策以上に権力関係を意識せざるをえないため,子どもが意見を形成しにくいうえに,その声が聴かれにくい。
  • ちなみに,「大学入試のあり方に関する検討会議」の第10回では,大学生・高校生が計2名招致されヒアリングを受けている (L)。先進的な取り組みだとは思うが,全28回の内,子ども・若者を招集したのはこの1回のみ。内容を見ても,形だけの参画になっている印象。

JSCS2023(7月8日)で発表します

http://jscs.b.la9.jp/meeting/document/34/34th_program_2023_jis.pdf

7月8日(土)に日本カリキュラム学会(@大阪教育大学)で発表します。 教育学系の学会発表は実は今回が初です(「英語教育」の学会は別とすれば)。 以下、提出した発表要旨とちょっとした付け足しです。

タイトル

大学入学共通テスト英語試験の過去と未来

―2025年新課程入試と学習指導要領の整合性に着目して―

1. はじめに

 2022年より施行された高等学校の新学習指導要領に対応して、2025年から大学入試に新課程が反映される。本発表では大学入学共通テスト(以下、共通テスト)英語試験に注目し、(1)共通テスト英語試験が2021年の実施以降どのような評価を受けたか、(2)その評価が新課程入試の試作問題にどう反映されているかについて論じる。

2. 新学習指導要領と共通テスト英語試験

 2017,2018年に告示された新学習指導要領では、すべての教科で資質・能力が3つの柱で整理され、「主体的で対話的で深い学び」の視点から授業の創意工夫や教材改善を引き出すことが意図されている。外国語科では聞くこと、読むこと、話すこと[やり取り]、話すこと[発表]、書くことの「4技能5領域」に基づき目標が設定され、その指導を通して3つの資質・能力を育成することが目指されている。加えて、旧指導要領と比べ「活動」「伝え合う」に相当する文言が増加している点も新課程全体の方針と一致する。また、「論理」という用語が外国語科だけで計55回使用されている点も特筆に値する(旧指導要領では0回)。

 この指導要領改訂に追随する形で、2021年の大学入試改革は推進された(荒井, 2020)。その一環として、大学入試センター試験の廃止、並びに大学入学共通テストが2021年より実施された。2020年の旧試験と2021年の新試験を比較すると、英語試験には次のような変更が生じた。すなわち、(1)リーディングとリスニングの得点比率が4対1から1対1に変更、(2)発音・アクセント問題、語句整序問題の削除、(3)リーディング問題の総語数の大幅な増加(約2800語→約3900語)(朝日新聞, 2021)。(1)については「高等学校学習指導要領に示す4技能のバランスの良い育成」との対応、 (2)については「実際のコミュニケーション」の場面を想定して、音声・文法に関する「知識が活用できるか評価する」ことが目的であると記されている(大学入試センター, 2020, p. 4)。つまり、2021年以降の共通テスト英語試験は2018年の新指導要領をベースに作問された。ただし、新指導要領が施行されるのは2022年の高校1年生からであり、2021年に共通テストを受験する高校生は新課程の対象ではない。

3. 大学入学共通テスト英語試験への評価

 以下では2021年より実施された共通テスト英語試験に対する評価について、 (1)2020年1月から2021年6月にかけて文科省が実施した「大学入試改革のあり方に関する検討会議」(全28回)の発表資料・議事録、(2)大学入試センターが公開している「大学入学共通テスト問題評価・分析委員会報告書」を基に整理していく。便宜上、(1)を「検討会議」、(2)を「報告書」と表記する。

3.1. 「英語4技能」をめぐる議論

 共通テスト英語試験は英語外部試験との併用を前提として作成され(南風原, 2018)、その関係でリーディングとリスニングの2技能に特化した試験となっている(大塚, 2020)。この点について、報告書や検討会議では共通テスト英語試験の4技能化を求める声が複数あった。しかし検討会議では、それに伴う実施コストや技術的問題についても指摘され、最終提言では「出題内容としては『読む』、『聞く』に関する能力を中心としつつ、『話す』、『書く』を含めたコミュニケーション力を支える基盤となる知識等も評価する」(大学入試センター, 2021, p. 26)方針が示された。 

 第18回の検討会議では渡部委員が英語4技能を切り分けて評価・育成することの問題点を指摘した上で、4技能を別々で捉えるのではなく「読んで,聴いて,それを理解したものを発表する」ような「総合的な能力,インテグレーティッドスキル」が重要であると発言した。この指摘を受け、第27回の検討会議では提言の内容について川嶋委員から「『英語4技能』というような表現を使っておりましたが,渡部委員等の御意見も踏まえ,この提言の中では『総合的な英語力』というふうな表現にしております」という説明がされた。事実、最終提言の中でも「4技能」という用語は一切使われていない一方で、「総合的な英語力」という用語は計35回使用されている。結果的に、新学習指導要領で重視されている「統合的な言語活動」に近い内容が提言として示されたと言える。

3.2. 多様な場面・状況を想定した問題作成

 高等学校教科担当教員による報告書の中ではリスニング問題について「より多様な場面, 状況設定」を要望する声が記されており、その一例として「賛成者, 反対者を問う設問」の中で「中立的な立場の設定を設けること」を提案している。これと似た指摘が検討会議でも為された。例えば、第22回に渡部委員が「英語の講義に対して生徒が英語で質問している場面を設定した課題」の設置を提案している。2021, 2022年の共通テスト英語試験のリスニング問題では教室場面での講義内容の理解や、複数話者によるやり取りの内容理解を問う問題は出題されたものの、渡部委員が指摘するような教室内での教師と生徒のやり取りを想定した問題は出題されていない。

4. 2025年の新課程入試の試作問題

 2025年新課程入試に向けた共通テストの問題作成方針・試作問題は2022年11月に大学入試センターによって公開された。試作問題の概要では、「『リーディング』形式と『リスニング』形式の試験問題を通して」「概要や要点, 詳細, 話し手や書き手の意図などを的確に理解する力」や4技能5領域を「統合した言語活動」をふまえて作問する方針が示されている。ただし、「4技能」という用語は資料の中では一切使われていない。

 以下、試作問題の分析を述べる。英語の試作問題ではリーディングが2問、リスニングが1問、計3問が作成された。リーディング問題の第A問では「授業中における生徒のスマートフォン使用の是非」をテーマに5人の主張がそれぞれ記されており(賛成派・反対派・中立派)、その内容理解が問われている。そのうえで、自分がエッセイを書くための準備を想定して、アウトラインや論拠の整理を問う問題が出題されている。第B問では「環境に配慮したファッション」をテーマとした文章を推敲する場面が想定されている。設問の中には文章の論理関係をもとに、適切な接続表現を選択する問題も含まれている。リスニング問題の第C問では「幸福観」に関する講義を聞き、その内容を踏まえて学生同士がディスカッションする場面が想定されている。以上のように、新共通テストでは4技能5領域の統合、特に「やり取り」を重視した問題構成となっていることが窺える。加えて第B問を中心として、論理把握やアカデミックライティングの知識・技能を直接に問う問題が出題されている点も旧試験と大きく異なる点である。2025年の新共通テストでは、読むこと・聞くことを中心としつつも、4技能5領域の統合、論理把握の重視など、新課程との整合性が従来以上に高まることが予想される。

参考文献

朝日新聞 (2021)「使える英語力、量で吟味 大学共通テスト、出題様変わり」2021年1月26日

荒井克弘 (2020)「高大接続改革の現在」中村高康(編)『大学入試がわかる本―改革を議論するための基礎知識』(pp. 249-274) 岩波書店

大塚雄作 (2020)「共通試験の課題と今後への期待―英語民間試験導入施策の頓挫を中心に」『名古屋高等教育研究』20, 153-194.

大学入試センター (2021)「大学入試のあり方に関する検討会議 提言」https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/103/toushin/mext_00862.html

南風原朝和(編)(2018)『検証 迷走する英語入試—スピーキング試験と民間委託』岩波書店

付け足し

以下、書きたかったけど字数オーバーで書けなかったこと

  • 2021年の大学入試改革の際は、教育改革の一手段として大学入試改革が推進されていた(小針, 2020)。例えば、2010年代に議論された大学入試への民間試験導入案は、「大学入試にスピーキング試験を導入すれば、高校でのコミュニカティブな活動が推進され、高校生のスピーキング力が向上する」という入試の波及効果を根拠として、改革が推進された(須藤, 2022)。検討会議でも上記の理由から英語4技能試験の実現を望む声は多数寄せられた(例えば、第8回参照)。一方で、共通テストの目的が肥大化している点を指摘する意見も複数挙げられた(例えば、第11回佐藤氏、第15回川嶋委員)。このことが影響してか、最終提言では、共通テストと学習指導要領の親和性を高める重要性を指摘した上で、共通テストの波及効果について「入試改革に過度に期待することは適切ではないが、高等学校以下の教育に望ましい影響やメッセージを与え得る大学入学者選抜に改善することは重要である」(p. 4, 下線は引用者)と控えめな記述が為されている。加えて、新課程が反映される2025年の共通テスト問題作成方針では、従来記されていた「授業改善のメッセージ性も考慮し」という文言が消えている点も特筆に値する(南風原, 2023)。
  • 以上をもとに、センター試験・共通テスト英語試験と学習指導要領の関係性についての変遷を振り返ると次のようになる。まず、2000年代のセンター試験では、倉本 (2020) も指摘するように、センター試験に対する公的な評価は高く、その「高評価の根拠は学習指導要領に忠実に従った出題が行われ『難問奇問を排除した』こと」にあった (p. 38)。しかし、2013年の教育再生実行本部の提言において、大学入試にTOEFLを導入する方針が示されたことを皮切りに、大学入試改革に対する注目が集まった(江利川, 2018; 倉本, 2020)。その後2010年代は、センター試験マークシート方式が及ぼす「高校以下の教育への負の波及効果に対する批判」(倉本, 2020, p. 38)に注目が集まった。加えて、大塚 (2020) が指摘するように、PISAや全国学力テストのような日常生活に英語試験に関して言えば、4技能を重視する学習指導要領と2技能特化型のセンター試験の乖離に注目が集まり、この点についても高校以下の教育への負の波及効果に対する批判が為され、その打開策として大学入試における4技能型の民間試験の活用が推進された(阿部, 2017; 須藤, 2022; 南風原, 2018)。その際、民間試験導入の推進派によって謳われたスローガンが「入試を変えれば教育が変わる」という言説である。つまり、センター試験・共通テストにおける英語試験は、2010年代に学習指導要領との不一致による負の波及効果が批判された結果、その整合性を高めるという発想を超えて、2010年代後半では教育改革を起こすためのツールとして用いられた。その目論見が大失敗に終わり、世間・有識者からの猛批判を浴びたうえで取り組まれる2025年の新課程入試では、教育改革のツールとしての側面は弱まり、学習指導要領との整合性を最優先に設計されることが議事録・試作問題から読み取れる。いわば、「入試によって」教育を変えるのではなく、「入試とともに」あるいは「入試を通じて」新学習指導要領を定着させよう——という控えめな態度が窺える(あくまで英語試験に限定した話だが)。一件落着にも思えるが、そう単純な話ではない。今後の展開として、つぎのケースが考えられる。
    • 新課程入試は、リーディング・リスニングを中心としつつ4技能5領域の統合的な言語技能を測定することを目指してはいるものの、あくまで4技能テストが技術的・費用的問題から実施できないことによる妥協の産物であるため、入試批判は今後も続く。どこぞの日本人の英語力の低さを示すデータを持ってきて、「やっぱり入試にスピーキング試験を導入しないとダメだ! 何も変わらない!」という声が挙げられ、共通テスト英語試験の4技能化が叫ばれる。
    • 批判の矛先が入試批判から教師批判に力点が移る。高校生の英語力が上がらないのは、英語教員が文法訳読の授業ばかりしているからだ、英語教員が英語を話すことができないからだ。英語教員の英検準1級取得率を高めるべきだ——みたいな。

【読書メモ029】カリキュラムの教育経営学の構築とその課題(天笠, 2019)

読書会で下記文献を読んだ。いろいろと勉強になったので記録を残しておく。要約ではなく、コメントがほとんど。

書誌情報:天笠茂(2019)「カリキュラムの教育経営学の構築とその課題」『日本教経営学会紀要』, 61, 2-12. https://doi.org/10.24493/jasea.61.0_2


カリキュラムの教育経営学は, 教育目標, 教育内容, 授業, 学習評価, 教材・教具, リソースなどをカリキュラムの構成要素として一連の過程を動態的に捉え, “教育内容, 教育方法, マネジメントの一体的な把握” という教育経営学的思惟と手法をもって課題に迫る学問ということになる。(p. 3, 下線は引用者)

    • 教育内容、教育方法の分析に加え、マネジメントすなわち学校組織体制を考慮に入れた分析の必要性を主張。
  • 学習指導要領研究の研究課題 (p. 4)
    • 1. 学習指導要領の総則と各教科等の関係
    • 2. 各教科等における目標と内容の関係
    • 3. 各教科等の学年間及び学年種別間の関係
    • 4. 学習指導要領改訂のプロセス
    • 5. 各教科の教科書の編成・検定・採択と学習指導要領の関係・関わり方
    • 6. 学習指導要領改訂の政策評価はどのように行われているか
  • 【コメント】学習指導要領研究については、教育経営学だと学習指導要領のホリスティックな内容が扱われる一方で、例えば英語教育だと、外国語科・英語科に閉じた議論になりがち。その意味で、1 の視点は重要。
  • 【コメント】5 にあるように、学習指導要領研究に関連して、教科書に関する研究も必要。子安 (2021) が指摘するように、学習指導要領は日常の教育活動で意識されにくいが、指導要領をもとに作成された検定教科書は現場にダイレクトな影響をもたらす。一方で、検定教科書が必ずしも新学習指導要領を反映するわけではないという点に注意する必要がある。例えば英語教育だと、Fact Book のようなタスク寄りの教科書も検定を通過している。また、国語教育にしても、新課程では「論理国語」で論理的・実用的な文章を、「文学国語」で小説や古文・漢文などの文学的な文章を学習する——という括りがあるものの、「論理国語」の教科書で小説を掲載した教科書が検定を通過したことはちょっとしたニュースにもなった(参考記事)。このことからわかるように、検定教科書は学習指導要領や学習指導要領解説のみで編集・作成されるわけではなく、別の要素が強く関係していることが予想される。特に想定されるのが、現場の教員からの要請。そりゃあ、教科書会社からすれば、新指導要領との親和性のみならず、「売り上げ」も重要ですからね。
  • 【コメント】6 については、少なくとも英語教育の界隈では、まともな政策評価は全く行われていないと言っていいだろう。一応それっぽいものとして、文科省による「英語教育実施状況調査」はあるものの、制度設計がきわめて杜撰(詳しくは、寺沢さんの記事を参照してください)。問題点をかいつまんで言えば、(1) CEFRの生徒取得数について「取得した生徒の数+(取得はしていないが)目標レベルに相当すると**教員が見なした**生徒の数」の合算となっており教員(教科主任)の主観性がかなり反映される/(2) 調査の基準が曖昧。「A1相当資格を保持する (or 教員がそう見なした)生徒」と言っても、どの時点でその基準に達していることが条件なのか不明確。だから、例えば、5月に調査に回答するとして、「この生徒は今はA1相当は保持していないけど、11月ごろには保持するポテンシャルはあると思うからカウントしちゃおう!」みたいな恣意性が発揮されやすい/(3) 英語能力の正確な実態調査を目的とするならば、全数調査ではなく抽出調査を採用すべき 。中学生を対象とした調査だと、取得生徒数の割合のトップ層はさいたま市の86.6%、福井県の86.4% の一方で、最下位層は島根県の34.1%、鳥取県の34.6%。その差、およそ50%(笑)。常識的に考えて、この差はありえないやろーーと考えるのが自然ではないだろうか(ちなみに、全国学力テストの英語試験の最上位県と最下位県の差はおよそ10%程度)。これらの数値が(1) をある程度傍証していると言える。
  • カリキュラムが編成されてもその通りに授業が実施されるわけではなく、両者はしばしば乖離する。だからこそ、教育経営学研究でも、教育行政、カリキュラム・教育課程のみに射程を絞るのではなく、「授業」を研究対象とすることが求められる。ところが、「教育経営学の歩みを振り返ったとき、法制度や教育行政などに研究的関心の多くを注ぎ発展させてきた歴史がある。それに対して、授業などの教育活動に向かう問題意識や研究関心の熟成を含め、具体的な取組みは後れを取りがちであったことも否定できない」。(p. 5)
  • 【コメント】「改訂された学習指導要領は、文部科学省から教育委員会を経由して学校・教室までどのように伝わっていくのか」(p. 6) というテーマ。学校・教室レベルの視点で言えば、政府の統制 vs. 現場の自律性。授業まで踏み込むとなると「教科」にまで踏み込まざるを得ず、この点について教育経営研究・学校経営研究ではあまり開拓されていない印象。
  • 【コメント】「(前略)学校や教師への情報伝達については一筋縄ではいかないところがあり, 実態を明らかにすることをはじめ その普及・定着のメカニズムの解明が問われている」(p. 7) について、先日のCELES2023 でも質問をいただいたが、ここで言う「定着」をどう定義するか——という問題。例えば金子 (1995) だと、「新しい学習指導要領に基づいて、とくにそれの改善方針や改善された事項等を、各学校が新しい教育課程に、いかに反映させ、取り上げているかについての一般的傾向」(p. 5) と定義している。けっこうマクロな視点での定義。一方で、本論文で対象とするカリキュラムマネジメントとか、授業レベルでの定着過程を分析対象とするならば、この定義では当てはまりが悪く、よりミクロな視点で定義を設定する必要がある。あと、「定着」を判断する材料として、「期間」という要素も必要では? という指摘を読書会でいただいた。たしかに、新指導要領告示の直後は張り切ってその内容を反映しても、それが持続するかどうかは不明だし。
  • 【コメント】「学術的研究と教育実践をどのようにつないでいくか」(p. 8) という問題。筆者は、「基礎的研究と応用的研究とに分化・発展させていくことがあげられる」(p. 8) と述べている。言いたいことはわからなくもないが、正直なところ、よく理解できなかった。そもそも、「基礎的研究」と「応用的研究」の定義がよくわからない。言いたいことは、研究と実践をつなげる中間領域を構築しよう! ということだと思うが、あまりにもザックリしすぎている気がする。まず、「基礎的研究」を「研究」たらしめる基準は何なのか。当然のことながら、すべての研究が「基礎的研究」として優れているわけではないわけで、その辺の線引きをどう行うか。加えて「応用的研究」について、どこで応用するのか——という視点も必要ではないだろうか。論文中ではもっぱら「授業実践」に傾注しているように思えたが、「基礎的研究」を使用する場面は学校現場のみならず、政策形成レベルにも当てはまる。
  • 【コメント】カリキュラムマネジメントと教育経営課程の違いについて、あらためて大野 (2019) を読み直す必要を感じた。