SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は英語教育政策。

【雑感007】先週参加した教育社会学会の感想

先週,会員ではないのですが,日本教育社会学会第78回大会(於:法政大学)に参加しました。参加したと言っても,3日目の大型プロジェクト特別委員会報告「教育社会学は社会といかに向き合うか:全国学力・学習状況調査の二次分析プロジェクトを通して」と「教員養成政策検討フォーラム」を拝聴しただけですが。ちょっと参加しただけの部外者ではありますが,たいへんインスパイアされたので記録を残しておきます。


特に前者の特別委員会報告は,「教育社会学の知見を,教育政策や社会的議論にどのように接続していくのか」という趣旨文から始まっていて,個人的にもとても関心のあるテーマでした。この問いは,従来の教育社会学が必ずしも教育政策や社会的議論との接続を志向してこなかった(あるいは,そこに禁欲的であった)ことの裏返しとも言えるでしょうか。実際,質疑応答でもまさにこの点が論点になり,

  • 研究者(教育社会学者)は実態の記述のみを行うべきであり,教育はどうあるべきか(規範論)に立ち入るべきではない,という立場
  • いやいや,実態を明らかにする以上のこともしていくべきでしょ,研究には理念やパッションも大事だぜ,という立場
  • (それよりはやや控えめに)分析結果から合理的・論理的に導けることは教育社会学者も社会に発信していっていいのではないか,という立場,
  • そもそも何を分析して何を示すかというところに分析者の価値観は含まれているわけで,規範論と完全に切り離すことはできない,という指摘


などがありました。


以前からそうした教育社会学の慣習のようなものはなんとなく感じていて,実際,知人と話していてもたびたび話題になってきました。そうした議論が現に学会でも起きていて,研究者個人としてだけでなく,教育社会学としてどのような立場を取るかが検討されている点が興味深かったです。


さて,報告のなかでは英語教育に関する話題も出ました。少しだけそこでのやり取りと雑感を書いてみたいと思います。3人目に登壇した読売新聞の古沢由紀子さんが,ご自身の記事を紹介しつつ,全国学力テストや英語教育実施状況調査について言及する場面がありました。該当記事のリンクはこちら。


www.yomiuri.co.jp


教育社会学会でも英語教育(政策)が話題になるんだ~,と素朴に感動(?)しました。古沢さんの報告の趣旨は個人的にはわかりやすく,要するに,調査結果・データを政策の課題や社会問題の指摘にどうつなげていくか,という問題提起でした。ご自身がどのように取材をして,調査結果・データをもとにその背景や問題を記事にしていくか,また,そうしたデータと政策・社会とのインターフェイスに,教育社会学もより積極的に関わっていくべきではないか,という内容だったと思います。


個人的には,おっしゃっていたことには概ね同意なのですが,英語教育(政策)の場合,そもそも依拠するデータに問題があることが多いんだよな~,と思いながら聞いていました。データと政策や課題をどうつなぐか以前に,そのデータ自体がどこまで信頼できるのか,という問題があるわけで。あ,ほら,英語教育実施状況調査が話に出てきた,まずい! と思っていたら,登壇者のおひとりが同調査の問題点について(軽く)言及してくれました。その話と絡めつつ,「メディアは調査の精度をどのように評価しているのか」という質問を投げていました。データを使って何かを論じる前に,そもそもそのデータが本当に信頼できるものなのかを確かめるべきではないか,それがわかる人にまずは取材をすべきではないか,という指摘だったとも思います。これは,英語教育実施状況調査に限らず全国学力テストにも当てはまる問題です(例,川口, 2020)。


これに対して古沢さんは,もちろん調査の精度についても留意している。英語教育実施状況調査について問題が指摘されていることも把握している。だからこそ記事のなかでも濃淡をつけて言及するようにしている——という趣旨の回答をしていました。たしかに先ほどの記事では,英語教育実施状況調査について言及があるものの,調査結果の提示だけに留められている印象を受けます。ただ,個人的には,調査データの問題点が指摘されていて,実際,同調査については深刻な問題が査読付き論文ですでに指摘されている(寺沢・奥住・浦野,2025)ことを踏まえれば,同調査を「どう引用するか」だけではなく,「引用しない」ということも検討すべきではないかと思いました。


また,取材先として英語教育研究者に話を聞いて同調査結果を受けての英語教育の課題を記す前に,たとえば寺沢・奥住・浦野(2025)のような研究を参照し,まずはデータ自体の限界や問題点を指摘する必要があるのではないかとも思いました。というより,この論文の著者の方々にまずは取材すればいいのにという気もします(さきほどの質問の趣旨はおそらくこれと同じ)。現に,毎日新聞や朝日新聞では,同調査の問題点を指摘する記事をすでに出していて(以下にリンク),メディアのこうした取り組みはたいへん意義があることだと思います。もっとも,そうした取り組みは,英語教育の課題・問題を指摘することよりもどちらかといえば地味で,記事としては受けにくいのかもしれませんが。といっても,英語教育実施状況調査の問題点についてきちんと把握されているのであれば,ぜひその知見を生かし,調査自体の問題点を検討するような報道にもつなげていただきたいと思った次第です。


mainichi.jp

dot.asahi.com

【読書メモ043】『激動の英語教育政策は「誰が」決めたのか』(青田, 2025)第5章~第8章

以下の記事のつづき。
sudos.hatenablog.jp
sudos.hatenablog.jp

第II部「自治体の英語教育政策を問い直す」は,タイトルの通り,「自治体」に着目した分析・検討が行われている。著者も指摘するように,自治体に着目した英語教育政策研究は,これまで十分に蓄積されてきたとは言いがたい。その一方で,検討されるべき課題(というより深刻な問題)はすでに複数ある。たとえば,東京都のESAT-Jをめぐる問題(南風原・大津, 2023),英語教育実施状況調査を用いた自治体アピールをめぐる問題(寺沢・奥住・浦野, 2025)などが挙げられる。


私自身も,自治体の英語教育政策研究には関心があり,ポスト博論のテーマのひとつとして考えている。その意味でも,第II部はたいへん勉強になり,研究のアイデアを多く得ることができた。以下,章ごとにコメントを書いていく。

第5章 自治体における英語教育のポリティクス

第5章は,著者が都道府県・市区町村等の教育委員会を対象に実施した質問紙調査をもとに,「『英語教育政策を決めるのは誰か』に自治体レベルで迫」る章である(p. 121)。まず驚くべきは,同調査の回収率の高さである。計6件の質問紙調査が行われており,回収率はもっとも高いもので70%(28/40),もっとも低いものでも42%(730/1,738)である。この数値は驚異的である。地方自治体を対象に今後調査をすることがあれば,ぜひ青田さんに秘訣をご教示いただきたい。


さて,行われている分析はどれも興味深いが,ここでは紙幅が多く割かれている第4節「英語教育政策への影響力」について言及しておきたい。同節では,市区町村教育委員会の担当者を対象に,「貴殿は,貴自治体において外国語教育の施策を決める際に,以下の方々のご意見には影響力があると思われますか。それぞれについて,該当する数字1つに○をつけてください」という質問に対する回答が分析されている。その結果について,以下のように書かれている。

中央政府や都道府県教育委員会といった縦割りの影響力認知も比較的高かったものの,最も影響力認知が高い傾向が見られたのは「自治体の教育長」であり,「とてもそう思う」が64.71%,「まぁそう思う」が30.04%であり,肯定的な評価は合計で94.75%であった。(p. 135)


この分析をもとに,従来指摘されてきた教育課程行政における「縦割り制」,すなわち文科省→県教育委員会→市区町村教育委員会→学校という上意下達の構造は限定的であり,「中央政府の影響力を必要以上に高く評価すること」には慎重であるべきだと著者は指摘する(p. 142)。自治体の教育長による影響力は,印象レベルでは高いと思っていたものの,特に実証的な根拠をもっていたわけではなかった。その意味で,本書がこうした実証的知見を示してくれているのはありがたい。


ちなみに読書会では,(少なくとも私が覚えている限り)次の二点が論点に上がった。


第一に,確か梶ヶ谷さんがフーコーの権力論と絡めながら話していたことだが,仮に「中央政府・県教育委員会→市区町村教育委員会」の影響力が数値上は限定的であったとしても,教育長自身が中央政府や県教育委員会の政策から影響を受けている可能性は否定できない。だとすれば,数値には直接表れずとも,構造上は「中央政府・県教育委員会→自治体の教育長→市区町村教育委員会」となっている可能性があり,結果的にはそれも「縦割り制」といえるのではないか,という指摘である。


第二に,これは私自身もここまで特に定義せずに用いてきたのだが,質問文に含まれる「ご意見」という用語の曖昧さである。「ご意見」という言葉を回答者がどのように捉えたのかが掴みづらく,そのため,調査結果を読者としてどのように解釈すればよいのかが今ひとつ見えにくい。もちろん,大まかな傾向を掴むために,あえて抽象度の高い用語を選定したという意図は理解できる。ただ,「ご意見」は,当事者から直接何かを言われることだけを意味するとは限らない。実際には,明示的に意見を伝えられていなくても,「この人はこう考えているだろう」「こうすることを望んでいるだろう」とその意向を推測し,それを施策の決定に反映することもありうる。悪く言えば,「忖度」のようなかたちで作用する場合もあるだろう。そう考えると,回答者が「ご意見」という言葉にどこまでの範囲を含めて回答したのかによって,この結果の意味合いも変わってくるように思う。

第6章 自治体における小学校英語教育政策

第6章は,「自治体における小学校英語教育政策」について,「現状の実施状況と,過去の拡大過程の3つの側面から分析を行う」ことを目的とする章である。


個人的には,次の二点が興味深かった。


第一に,小学校低学年で使用されている教材に関する分析である。「小学校の低学年で英語教育が実施されている場合,使用教材[の作成者]は次のうちどれですか。(複数回答可)」という質問に対して,「最も多かったのは『ALTが作成』で,60.6%の自治体がこの選択肢を選んだ」と記されている(pp. 148–149)。詳細は本書をお読みいただくとして,この分析結果は,英語教師の専門性をめぐる重要な問題を提起しているように思う。著者も指摘するように,「ALT(外国語指導助手)は基本的には日本の教員免許を保有しておらず,さらに教育について大学等で学んでいない場合も含まれることについては注意が必要である」(p. 149)。もちろん,なかには英語教育に関する高い専門性を有し,素晴らしい実践を行っているALTもいらっしゃるわけだが,ここで重視すべきは,そうした専門性が制度的に下支えされているわけではないという点である。ALTについては第7章でも論点とされているので,いったん次の論点に移る。


第二に,政策波及に関する分析である。具体的には,「自治体間で相互参照は行われているのか,行われているとすればそれらはどのような様態なのか」(p. 218)に関する分析である。もっとも,第6章のなかでは「政策波及」という用語は(おそらく)使われていない。ただ,別章の9頁や67頁で言及されている「動的相互依存モデル」(cf. 伊藤, 2006)を念頭に置いた分析であることは読み取れる。


同章では,小学校英語教育について,特に「教育内容」や「授業時間数」といった項目で,都道府県内の他の自治体を参照しているケースが半数程度(正確な数値は本書をご参照ください)確認されている。また,被参照自治体を都道府県別に集計したところ,1位が埼玉県だったとのことで,「やっぱりそうなんか」と思いつつ,実証していただいてたいへんありがたい。


個人的に考えてみたいと思ったのは,今回の分析をどこまで「政策波及」として捉えられるのか,という点である。今回の分析で問われているのは,「小学校英語の実施にあたって他の自治体の何を参照したか」ということ(例:教育内容,授業時間数,教材の使用方法)である。つまり,「小学校英語教育を実施する」ということ自体は前提としたうえで,そのナカミ,すなわち教育内容や授業時間数などを検討する際に,他の自治体の取り組みを参照するというものである。


一方で,同章の関連事項として示されている,東京都による高校入試への英語スピーキングテスト導入施策は,かなり質が異なるように思う。こちらの場合には,他自治体の取り組みを参照しながら既存の政策のナカミを決めるというよりも,ある自治体で実施された特定の政策・プログラムそのものが,他の自治体へと導入されていくというケースになる。


個人的には,「政策波及」という語はむしろ後者のような現象を指すものとして捉える方がしっくりくる。実際,本書が依拠している伊藤文献でも,「新政策」が自治体の間に広がっていく現象として説明されている。そう考えると,今回の分析は,自治体が他自治体の取り組みを「参照」していることを明らかにしている一方で,それを厳密な意味で「政策波及」に含めることができるのかについては,検討の余地があるように思う。第6章で「政策波及」という用語を直接には用いず,「波及」や「参照」という用語に限定している背景には,こうした事情があるのかもしれない(この点については,読書会の際にはここまで整理できておらず,聞くことができなかった)。

第7章 自治体におけるその他の英語教育政策の動向

第7章では,第6章の小学校英語に関する自治体政策の議論を引き継ぎつつ,自治体における「英語教育に関する他の複数の政策を幅広く取り上げ分析」(p. 162)が行われている。そのうちのひとつが,ALTの雇用形態や出身国に関する調査結果の分析である。ALT研究が,その重要性にもかかわらず決して多くないなかで,たいへん貴重なデータである。


JETプログラムの利用率が,回答のあった自治体のおよそ半数にとどまることを踏まえて,「理由としては,JETプログラム自体に何らかの欠陥があるか,自治体がJETプログラムでの雇用を希望しても希望通りにはいかないことなどが考えられる」(p. 166)という指摘も興味深い。ただし,この点については何らかの知見やデータをもとに論じられているわけではなく,サラッと書かれているような印象を受けた。もう少し踏み込んだ記述も読みたいところではあるが,本書はALTを主テーマとしているわけではないし,それだけでもかなり重たいテーマだと思うので,ここでは論点の提示にとどめたのだろう。個人的に興味のあるテーマということもあり,もう少し知りたい・考えたいという「痒さ」が残る。


これと似た印象を,都道府県・市区町村を対象にした教育振興基本計画(以下,「計画」)に関する分析に対しても感じた。


同章では,「計画」の作成方法,「計画」の策定に関わったアクター,「計画」のなかで言及されている教科・領域ごとの割合などについて分析が行われている。いずれも興味深い分析だが,それぞれが単独でもさらに深掘りできるトピックであるように思う。


たとえば,「計画」の策定に関わったアクターについては,首長や教育庁,教育委員会などの行政側の職員に加えて,地域住民,保護者,児童生徒も選択肢として含まれている。同章では,こうしたアクターごとの特性についての検討までは行われず,それぞれが「計画」の策定にかかわったと認識されている割合が示されるにとどまる。もちろん,この分析がまず全体像を把握すること自体を目的としていることは理解するが,そこからどのような議論につながるのかについて,今ひとつ道筋が見えない。それぞれのアクターの関与の割合が高ければ高いほどよい,というわけでもないだろう。誰がどの程度関与しているかを示すことと,その関与が実質的にどのようなものであり,どのように評価されるべきかを考えることとは,別の問題である。


たとえば教育経営学や教育行政学で議論が蓄積されてきたように*1,施策へのこうしたアクターの関与や参加の内実・意義については,さまざまな重要な論点がある。そもそも,なにをもって関与や参加と言えるのか。実態として,どのように・どれくらい関与・参加しているのか。形式的には関与・参加していても,実質的にはいわゆる「お飾り参加」になっているのではないかという懸念もある。そうしたアクターが関与・参加することで,意思決定や施策にいかなる影響を与えているのか。そして,こうした議論をもとに,地域住民や保護者,子どもが意思決定に関与・参加することの意義や課題について議論し,そのありようを検討することにもつながりうる。


以上のようなことを念頭に置いたとき,本書が定位する「計画」の策定への「関与」をどのように解釈すればよいのだろうか。同章の分析は,「『計画』の策定にかかわった方すべてに◯をつけてください」(下線は引用者)という質問文に教育委員会の担当者が回答したデータにもとづいている。注意すべきは,ここでの「かかわった」という用語の曖昧さである。実際に策定のための議論に「参加」したという意味合いで捉えることもできれば,回答者によっては,もっと緩く,策定にあたってそのアクターのニーズや意見を意識したり参照したりした,という意味合いまで含めて捉えることもあるかもしれない。そうだとすれば,同じ「かかわった」という回答であっても,そこで想定されている関与の内実はかなり異なることになる。


個人的には,ここでの「かかわる」の定義をより精緻化したうえで,(英語)教育に関する施策の策定にあたっての地域住民や保護者,児童生徒の関与・参加の実態や意義について分析・検討していく方向性もあるのではないかと思った(もちろんその場合,研究方法がかなり異なってくるが)。そうすることで,誰がどの程度関与・参加しているのかという実態の(数値上の)記述にとどまらず,関与・参加の内実や意思決定・議論への影響,そこで生じる困難や課題を明らかにすることにもつながりうる。さらに,誰が・どのように関与・参加することが望ましいのかという,意思決定過程のあり方を考えるうえでの示唆にもつなげることができるかもしれない。もっとも,第3章の読書メモでも検討したように,本書はそうした立場を志向していない可能性もある。

第8章 自治体における英語教育政策の具体例

第8章では,自治体における英語教育政策について,自治体独自の英語教材を例として,施策(=独自教材の作成)の形成・決定と,実施・評価という二つの側面から分析が行われている。


前者については,教材作成にいかなるアクター(例:教育委員会事務局,教員,ALTなど)が関与しているか,後者については,回答者(各自治体の担当者)が政策の実施状況をどのように捉えているか,また,その効果をどのように評価しているかについて,質問紙調査および聞き取り調査の結果をもとに分析が行われている。


いずれも重要な論点である。詳細は本書をお読みいただくとして,ここでは「評価」に絞ってコメントを残しておきたい。


政策評価とは,「政策の進捗状況や課題等を,有効性,効率性といった一定の価値基準を通じて体系的に分析・検証する取組」を指す(西出, 2020)。言うまでもなく,そこではまず,その政策がどのような課題を解決し,何を実現しようとしているのかが設定されていることが前提となる。そうした政策目的に照らして,実施された施策がその課題の改善や目標の達成にどの程度帰結したのか/しなかったのかを検証するのが政策評価である。


しかし,著者の分析が示す自治体の英語教育政策の「効果」の指標を見ると,少なくとも本書で示された事例については(といいつつ,毎度思っていることではあるのだが),政策目的に照らして設定されたというよりも,「後付け」に近い印象を受ける。例として,資格試験の取得率,各種アンケート調査で「〇〇」と答える人の割合,「XXの実施率」などが政策の効果として設定されていることが報告されている。そもそもの課題・目的に照らして政策評価の指標を設定しているというよりも,自治体の取り組みを何らかのかたちでアピールするために,手近な指標を後付けしたという構図に近いのではないか。
※ 念のため補足しておけば,これは本書に対する批判ではなく,自治体英語教育政策における指標設定のいい加減さに対する批判である。もうひとつ補足しておくと,これはあくまで私が抱いた印象の話で,本書のなかではそうした批判が明示されているわけではない。


続けて,著者は次のケースについて言及している。

加えて,興味深い指標として,北川 (2015) は自治体の英語教育政策を分析し,「『英語特区』の効果もあり,学区外からの通学園者が増え,園児児童生徒数の減少が止まりました」(p. 9) と述べており,人口増加を指標の1つと捉える例もあるようである。(p. 202)


北川 (2015) の記事はこちらからアクセスできる:
https://view-next.benesse.jp/view/bkn-board/article04452/


たしかに興味深い事例ではあるが,いろいろと注意が必要である。


第一に,記事を読めばわかるように,「英語特区→園児児童生徒数の増加」という因果関係は,単に園児児童生徒数の推移から導き出されたものであり,統計的因果推論の手続きは一切踏まれていない。はっきり言ってしまえば,「英語特区の効果によって園児児童生徒数の減少が止まった」という説明は,北川氏による推測の域を出ない。もっとも,この点については著者も当然把握していると思われるが,本書で明示的な批判が書かれているわけではない(個人的には,ここはもう少し批判的に言及してもよかったのではないかという気がする)。


第二に,「英語特区→園児児童生徒数の増加」という因果関係が仮に真であったとしても,それを「英語教育政策」の「評価」という文脈で論じることには違和感がある。英語教育政策として考えるのであれば,通常,児童生徒数の増加そのものが政策目的・目標になるわけではない。英語教育政策にとっては,あくまで副次的効果にすぎないのではないか。


もっとも,英語教育と児童生徒数の増加を結びつけること自体を批判しているわけではない。たとえば,児童生徒数の維持・増加をひとつの目的とする地方創生や学校魅力化に関する政策の一施策として「英語特区」を位置付け,「児童生徒数の増加」を成果指標として評価することは十分理解できる。しかし,繰り返しになるが,それを「英語教育政策」の効果として位置付けることには抵抗がある。政策目的から見れば,英語教育政策とは別の領域に属する成果だと考えられるからである。


「英語特区→園児児童生徒数の増加」について,英語教育政策の立場から言えることは,自治体の地方創生戦略のなかで英語教育(政策)がどのように活用されているか,というくらいの話ではないかと思う。つまり,英語教育そのものの改善を目的とした政策として評価するというよりも,英語教育施策が学校魅力化や地域振興といった別の政策目的のために活用されている事例として捉える方がしっくりくる。それはそれで重要なテーマだし,個人的にもとても関心がある。


以上の理由から,特に「XXの実施率」や「児童生徒数の増加」といった数値を英語教育政策の効果や成果として位置づけることには違和感がある。それらが英語教育政策の目的や,その達成に向けて投入された資源・実施された施策とどのようにつながっているのかが示されなければ,同政策のアウトプットやアウトカムとして位置付けることは難しい。そうしたつながりがないまま数値だけが示されるのであれば,個人的には,自治体による独自の英語教育施策の「成果アピール」くらいにしか受け取れない。


このように,私は政策評価を狭義に捉えたいというスタンスなので,著者が指摘する「どの指標が優れていてどの指標が劣っているのかを弁別することは事実上困難であり,弁別それ自体にあまり意味がない」(p. 202)という点については,むしろ逆の立場を取りたい。どのような指標を,どのような政策目的との対応関係のもとで設定するのか,そしてその指標が政策の効果をどこまで適切に捉えているのかを吟味することには,とても大きな意味があると考えている。

おわりに

以上,3回にわたって『激動の英語教育政策は「誰が」決めたのか』を検討してきました。

読書会からはだいぶ日が経ってしまいましたが,当時の議論を振り返りつつ本ブログを執筆するなかで,本書をつうじて英語教育政策研究について多くの示唆や研究のヒントを得られたことは間違いありません。読書会に参加していただいた方々,また本書の著者であり,読書会のメンバーにもなっていただいた青田さんに心より感謝申し上げます。


なお,本ブログは一部,読書会での議論を参考に書いていますが,すべて私自身の解釈と理解にもとづくものであり,その内容の責任は私にあります。なかには的外れな指摘もあるかもしれませんので,その点については,ぜひコメント欄や何かの機会にご指摘いただければありがたいです。


初回の読書メモでも述べましたが,英語教育政策研究が下火のなか,こうして「英語教育政策」をタイトルの前面に掲げた博論書籍が出版されたことは,同じ専門領域を志す者としてたいへん励みになります。本書はこれから先,大学の授業での講読や読書会等でも広く参照されていくことだと思います。同じく英語教育政策を専門とする者として,その際の議論が少しでも盛り上がるよう,本ブログが何らかの参考になれば幸いです。


私自身も近い将来,自分の博論の成果を本というかたちで発信し,英語教育政策研究に貢献できればと思っています(そのためにもまずは博論!)。

*1:例として,地域住民参加については木下(2021),保護者参加については仲田 (2010),生徒参加については古田 (2021)

JASELE2026:学会での「質問のしかた」のむずかしさ・こわさ

8/22,23に全国英語教育学会(於:岡山大学)に参加しました。私自身は,発表もできたし,自分の研究に関連する発表も多く聞けて大満足だったのですが,ひやっとする場面もありました。具体的には,以下のポストで記されている寺沢先生の発表後の質疑応答での出来事です。

当日,その発表会場は満員で,立ち見の方も何人もいました。
(バスを間違えて小旅行してから)遅れてきた私は部屋に入れず,後ろのドアから覗くかたちで拝聴していました。その「大御所先生」との一件も実際にみていました。質問や助言をすること自体は——たとえそれが的外れだとしても——当然いいとして,そこに「指導」のようなスタンスが表れていたように私には感じました。寺沢先生が,その批判が当たらない理由を誠実に説明しても馬耳東風で,話がまったくかみ合わず,ヒートアップした挙句の「意味がない」発言です。


実はその「大御所先生」,同じ部屋(「言語政策・教育制度」)の次の発表者にも質問をしていました。もっとも,その際は「意味がない」のような明らかなハラスメント発言はありませんでしたが,「指導」のようなスタンスだったとは思います。

どちらの質問(というより指摘・批判)も,その発表の趣旨とはあまり関係のない(そもそもパラダイムが異なる)ご自身の専門に無理やり引き寄せたようなものに感じました。少なくとも,その部屋のテーマである「言語政策・教育制度」やその近接領域との関係は私には全くわからず,発表のナカミに関心があるというよりも,とにかく何か一家言申したいという感じに映りました(もちろん,これはあくまで私が抱いた印象ではあります)。お二人どちらの発表も個人的にすごく関心があったため,そのようなやり取りに質疑応答の時間が費やされたことが残念でした。


かくいう私も,お昼休憩を挟んだのちに,同じ部屋で午後の発表を控えていました。少し不安だったので,お昼ご飯を食べながら,もし同じような質問が来たらどう対応しようかと脳内シミュレーションしていました。結果的にはお越しにならず,取り越し苦労に終わりましたが。ちなみに私の場合,お二人のようにうまくその場で対応できる自信がなかったので,できるだけの回答をして,それでも八方塞がりだったら,「ご意見ありがとうございます。今後の参考にします」で切り抜けようかと考えていました。ただ,そのかわし方だと,自分はその場をスルーできるけれども,オーディエンスに生じうる誤解を正すことはできないわけで,そういった意味でもなるべく最終手段にしたいところではありました。


たらればではありますが,もし学会発表の経験が浅い大学生・大学院生が今回のような目に遭えば,スルーすることも難しいかもしれません。トラウマになる可能性もありますし,重要な研究の芽をつぶす可能性もあります。



そんなこんなで,今回の出来事から「質問のしかた」のむずかしさ・こわさを改めて考えさせられました。以下,脱線しますが,今回の一件を機に考えたことをまとめてみます。

学会で質問をするとき,私自身は少なくとも次の二つの区分を意識しながら質問をしています。

  1. 発表内容をより理解するための質問(どちらかといえば,質問者に利がある質問)
  2. 発表者の研究をよりよくするための質問・助言(どちらかといえば,発表者に利がある質問)


私個人としては,自分が発表した際に,2の質問をいただけたほうがありがたいと考えています。それもあって,自分が質問するときにも,なるべく2の質問ができるといいなぁと思っているのですが,当然のことながら,それには発表内容をある程度理解できていることが大前提なので,「無理はしない」ようにしています。また,わかったつもりで2の質問をしても,それが的外れである可能性は当然あります。たかが15~20分の発表を聞くだけでは限界があります。そのため,割と自信があって2の質問をするときにも,「ただの自分の勘違いかもしれない」という不安は常にありますし,あるべきだとも思っています。2の質問は,もしかしたら発表者の今後の研究を前進させられるかもしれない一方で,一定の批判性,場合によっては攻撃性を含むものであり,それを過度に押し付けることはハラスメントに転じる可能性があります。


もう一点,別のタイプの質問として,「オーディエンスに与えうる誤解を正すための質問(というより指摘)」もあるかと思います。言うまでもなく,学会は発表者と質問者の二者間だけで行われるものではなく,その周囲にはオーディエンスがいます。発表内容に明らかな間違いや倫理的な問題があるとき,それを誰も指摘しないことは発表者のみならず,それを聞いている人の今後の研究にも悪影響を及ぼしかねません。私自身,明らかな間違いや倫理的な問題に気付いても,この種の質問・指摘をできたことはあまりなく,いつも人任せにはなっていますが,必要な場面がきたら勇気を出したいと思っています(もちろん,その時にも半真理のスタンスは忘れないようにしたいですが)


それから,これは避けたいタイプですが,「自分(質問者)の賢さをアピールするための質問」もあるよね,という話を学会後のおしゃべりで聞きました。これは線引きがむずかしいかもしれませんが,発表者の研究をよりよくすることを第一義とするというよりも,その研究の何かしらの欠点や粗を指摘すること自体が前面に出ているような質問です。実際には,重箱の隅をつつくような指摘であったり,発表者の中心的な論点からはズレていたりするのに,その質問内容の「こまかさ」ゆえに,オーディエンスには「なんかこの人すごそう」という印象を与えるような質問です。もちろん,質問者本人が実際にそうした意図をもっているかどうかはわかりませんし,どう捉えるかは発表者次第なので微妙なところではあると思います。


今回の「大御所先生」の一件に関しては,自分本位な質問・指摘であったことに加えて,発表者が批判の当たらない理由を説明してもなお,自らのパラダイムからの批判を強く押し通そうとし,挙句の果てには発表者の研究に「意味がない」と発言した点で,明らかに倫理的な問題があったと思います。これには,司会者の不在や,学会において「アンチハラスメント」に関する規範が十分に共有されていないこと(cf. 下の山本さんのポスト)など,個人の問題だけでには還元できない構造的な要因もあるように思います*1。こうした状況の改善に向けて,院生の立場ではありますが,その場に居合わせた者として声を上げておくことにも意味があるのではないかと思い,本ブログを書きました。

なお,私の発表の際にいただいた質問はどれも建設的で,今後の研究につながるヒントをたくさん得ることができました。どうもありがとうございました。
ということで,そろそろ研究に集中します。

*1:もっとも,JASELE の発表件数の多さ,部屋の多さを考慮すれば,司会を設けることはコスト的に難しいのかもしれません(だいぶ珍しいとは思いますが)。であるなら,司会を立てないことのリスクを踏まえて,防止策の検討に努めるべきだと思います

8/21「英語教育政策研究ワークショップ」(@岡山)に参加します

8/21(金)に岡山駅前で行われる「英語教育政策研究ワークショップ」に参加します。8/22, 23 に行われる全国英語教育学会(於:岡山大学)の前日開催です。

「(私は)何のために英語教育政策を研究するのか:研究者の問題関⼼・⽴場・分野の違いから考える」というタイトルで,私も少しだけしゃべる予定です。がっつり研究の話をするというより,どちらかといえば交流を目的とした会ということなので,学会で発表するほどの内容ではないけれど,最近関心をもっている話題を10分程度で気楽に話してみたいと思います。ざっくりいえば,英語教育政策研究の親学問の複数性ゆえに,研究者のポジショナリティをどう位置づけるかに最近苦慮しています——という悩みを投げてみたいと思います。

なお,翌日の全国英語教育学会でも,「大学英語入試改革からみる政策会議の構造と機能」という題目で発表します。

論文が出ました:「高校英語教育を対象とした『政策実施過程研究』についての一考察 : 公共政策・教育政策・英語教育の学術的議論を手がかりに」

気づくのが遅くなりましたが,2026年5月末に拙稿が公開されていたようです。

須藤爽(2026)「高校英語教育を対象とした『政策実施過程研究』についての一考察 : 公共政策・教育政策・英語教育の学術的議論を手がかりに」『学習院大学英米学会誌』2025巻,79–100. http://hdl.handle.net/10959/0002003388

政策実施について,これまで調べたり考えたりしてきたことを,ひとつの論文として整理しました(研究ノートに近い性格のものです)。紆余曲折あり,博士論文では政策実施を主テーマに位置づけることにはならなそうですが,これまでの研究成果をまとめる良い機会になりました。

画像に記載されているとおり,2025年度末をもって学習院大学教授の冨田祐一先生がご退官されました。学部・修士課程を通じて指導教員としてたいへんお世話になり,博士課程で別の大学院に進学してからも,折に触れてご相談に乗っていただいています。

ご本人のご希望もあり,本号は退職記念号という位置づけではないとうかがっていますが,学部・修士課程でのご指導を振り返り,あらためて先生のご論考も拝読しながら,本稿を執筆しました。

今後の研究を通して少しでも恩返しができるよう,引き続き精進いたします。

【読書メモ042】『激動の英語教育政策は「誰が」決めたのか』(青田, 2025)第3~4章

以下の読書メモのつづき:
sudos.hatenablog.jp

第3章,4章は私の専門とも密接にかかわる領域ということもあり,あまりこの分野に詳しくない方が読んでもわかるように,また自分の考えをきちんと整理するために,箇条書きではなく文章で書くことにしました。

第3章 事例分析Ⅱ:センター試験へのリスニングテスト導入

水野 (2008) vs. 青田 (2025)——英語教育政策への「怒り」の有無

第3章に限らない話だが,青田 (2025) は重要文献として(特に,青田本が乗り越えるべき文献という位置づけとして),水野 (2008) と江利川 (2009) を挙げている:

  • 水野稚 (2008)「経団連と『英語が使える日本人』」『英語教育』57 (1), 65–67.
  • 江利川春雄 (2009)『英語教育のポリティクス:競争から協同へ』三友社出版


これらの文献をはじめとする英語教育政策の従来の特徴として,青田 (2025) は,「エリートによるトップダウンを暗黙の前提として」いて,「原因と結果とが直接的かつ直線的に結びつけられ,途中過程やそこに関わる他のアクターの動向が等閑視されている」点を指摘し,その視点の相対化を第3章の狙いとして掲げている (pp. 80–81)。


正直に告白すると,私は英語教育政策を専門としているものの,これまで水野 (2008) をきちんと読んだことがなかった。もっとも,引用文献として目にすることは何回かあったが,論文ではなく雑誌「英語教育」の記事ということもあり,それほど影響力ある論考だと思っていなかったこと,入手するのがやや面倒だったこともあり(いや,図書館に行って探せばいいだけの話ではあるのだが),読むまでには至らなかった。加えて,水野さんが英語教育政策について書いた論文・書籍は無いと思われるため,英語教育政策にそれほど関心が高くない研究者なのではないかと推察していた(軽く調べた限り,現在は研究者というよりも教育事業でご活躍されている方のようです)。しかし,青田本の中で,「水野 (2008) は,江利川 (2009) に引用されるなど反響があり,その後の英語教育政策研究を方向づけた論考であったとも言える」(p. 80, 下線は引用者) ほどに重視されていたため,これは読まないといけない,と思い読んでみることにした。


読んでみたところ,たった3ページとはいえ,とても力強い文体で書かれた,メッセージ性のある論考だと感じた。冒頭は次のような問いかけから始まる:

現在,日本の英語教育の指針となっている「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」(2002) は,一体誰がつくったのだろうか。答えはもちろん文部科学省——だろうか。政策発表元はもちろん文部科学省である。しかし,その政策内容のほとんどすべてが,日本経済団体連合会,いわゆる経団連の英語教育に対する要望や提案の「丸呑み」であることを知らない方もいるのではないか。(p. 65)


この問いかけにつづくかたちで,2000年代の経団連の提言が英語教育政策に及ぼした影響について論じられている。その主張を端的に言えば,英語教育への財界の浸食に対する牽制とまとめられるだろう。私の感想も交えて説明すれば,この論考は,経済政策の一環として英語教育政策が語られがちな論調に一石を投じ,読者とその危機感を共有することで一定の歯止めをかけることを目的としたものであるように思う。いわゆる運動論的な性格が強い。ただし,読書会で他の方から指摘されたことだが,財界による英語教育政策への影響について具体的な事例とともに文章化した論考は当時希少であり,その意味で学術的価値も高いと言えるだろう。「その後の英語教育政策研究を方向づけた」とまで言えるかはまだよくわからないが,重要文献のひとつであることは間違いないだろう。


さて,青田 (2025, 3章) は,センター試験へのリスニングテスト導入に経団連の提言が大きく影響したとする水野 (2008) の反駁を試みている。もっとも,青田 (2025) も,財界による影響の大きさ自体を否定しているわけではない。簡単に要約すると,リスニングテスト導入にかかわったアクターの多元性に目を向ければ,財界以外にも同政策を支持する集団は少なからず存在しており,さまざまな駆け引きや創意工夫をもとに実現された——だからこそ,「財界主導」あるいは「行政主導」の帰結として同政策の実現を語ることは,現実を単純視しすぎている——という主張である。


私としては,この主張には納得できる。たしかに青田本の指摘を受ければ,水野 (2008) は「経団連提言➝文科省政策」の図式をやや単純に描きすぎている印象が否めない(これには紙幅の関係もあるだろう)。一方で,「メッセージ性」という観点では,水野論考と比べると,青田本がやや「物足りない」印象を受けてしまう。もっと雑に言ってしまうと,水野 (2008) からは英語教育政策に対する「怒り」を感じる一方で,青田 (2025) からは何らの表情も読み取れない。怒ってもいないし,笑ってもいない。表情がない理由は,センター試験へのリスニングテスト導入が「良い」政策であったのか,「悪い」政策であったのかという政策内容に対する評価が一切書かれていないからである。そしてそれは,おそらく青田 (2025) による作戦であろう。具体的には,著者自身は政策内容に対する価値評価の言及を避けて,政策過程をニュートラルに書くことにとどめることで,価値判断を読者に委ねるという作戦である(あくまで私の理解なので眉唾ですが)。その試みはおそらく成功しており,現に青田本からは水野 (2008) のような「怒り」はみられない。怒るか笑うかは読者次第で,そのための情報提供を(なるべく)中立的に行うことを主目的にしているようにみえる。この違いもあり,水野 (2008) のような,英語教育政策への財界の浸食に警戒せよ——というような強いメッセージ性を青田 (2025) から看取することはできない。できないというより,それを意図していないのであろう。後述するように,これは第3章のみならず第4章にも共通するスタンスである。こうした研究のスタンスの取り方も含めて,非常に興味深く拝読した章だった。

第4章 事例分析Ⅲ:大学・高等学校入試への英語スピーキングストの導入

私自身,これまで大学英語入試改革について精力的に研究してきたこともあり,第4章は感慨深く拝読した。われわれの共著論文 (Terasawa et al., 2024) も引用していただいて感謝。また,ESAT-J に関する先行研究が不足しているなかで,民間試験導入と関連付けながらその取り組みを論じることを試みる意欲的かつ挑戦的な論考だと感じた。

英語民間試験導入の「失敗」とESAT-J導入の「成功」

第4章では,入学試験へのスピーキング試験導入をめぐる2つの施策の比較が行われている。ひとつが2010年代後半に議論された大学入学共通テストへの民間試験導入,もうひとつが2022年度から実施されている東京都中学校英語スピーキング試験 (ESAT-J) の導入である。同書では,導入に頓挫した前者を「失敗」,導入が実現した後者を「成功」と位置づけ,その比較を通じて導入の成功/失敗の要因の分析が行われている。


さまざまな事情から「成功/失敗」というフレーミングを行ったと推察されるが,なかなか議論が分かれるポイントであると思う。以下,2つの観点から私見を述べたい。


第一に,「成功/失敗」は価値判断を含む語なので,特にESAT-Jを猛烈に反対している方々にとっては,余計な誤解を与えかねないワードチョイスであると思われる。先の第3章の検討でも指摘した通り,青田 (2025) のスタンスは第4章においても「中立」寄りである。つまり,同章はESAT-J を支持・擁護するものでも,批判・非難するものでもない。ESAT-J に対する評価はすべて鍵括弧付の「成功」,「よくできた」(p. 117) で形容されており,著者自身の政策に対する評価は必要最小限にとどめられている。このスタンスにこだわるのであれば,たとえば,「実現↔非実現」,「実施↔廃止」といったワードチョイスも候補として挙がるだろう。ただし,明快さや先行研究とのつながり(この点については次段落で後述)を意識して,「成功/失敗」という用語を使用したと考えられる。これから同書を手に取る読者には,この「成功/失敗」というフレームは政策の良し悪しを語るものではない——という留保付きで読むことをお勧めする。


第二に,「成功/失敗」というフレームは,公共政策研究における政策の「成功/失敗」に関する議論との接続が意識されている (p. 111)。しかし,細かい指摘ではあるが,この先行研究の引用の仕方はややミスマッチであるように思う。青田本では政策の失敗研究として,Hogwood and Gunn (1984) と伊藤 (2020) を参考文献として提示している。前者は読んだことがないのでわからないが,後者は修士課程の際に著者ご本人の授業のなかで検討したため馴染みがある。



伊藤 (2020) のタイトルから明らかなように,同書は政策の「実施」ないし「帰結」に焦点を当てたものである。つまり,ここでの政策の「成功/失敗」とは,政策結果の「成功/失敗」のことを指す。政策が決定されても,それが意図通りに展開されるとは限らない。だからこそ,政策決定後の段階に着目し,実施過程の分析や政策評価を通じて当該政策の成否を検証する必要がある——こうした問題意識をもとに,広告景観規制という事例に着目して行われた研究である。一方,青田本の政策の「成功/失敗」は,政策の実現/非実現,つまり政策決定時点のことを指しているように思う。この点の接続については,もう少し説明が欲しいところである。

民間試験導入とESAT-J の比較

先に断っておくと,難しい論点である。それだけに,こうした論考を提示すること自体,かなりの勇気がいることだと思う。その困難や葛藤に思いを馳せつつ,私見を述べるとすれば,民間試験導入とESAT-Jの「比較」は無理があるように思えた。たしかに両施策は,「入学試験へのスピーキングテスト導入」という構図は一致しているものの,無視できない異なる要素が多すぎる印象を受ける。具体的には,国と自治体(東京)という規模の違い・政策決定のプロセスの違い,大学入試(の共通テスト)と高校入試という違い。また,もっと細かい話をすれば,民間試験導入は英語入試改革として括れるものではなく,高大接続改革という大きな流れの中で推進されたという政策的文脈の違いもあるだろう。


政策過程の違いについては,教育行政学者の青木栄一氏が雑誌「英語教育」に寄稿した論考の以下の記述が参考になる:

都教委はスピーキングテストについては一貫して「報告事項」で処理してきた。教育委員会は審議会ではなく自らで方針を決められる「執行機関」である。相応の月額報酬を得る教育委員たちが「報告事項」でかまわないと判断したわけだから,教育委員会は1つの施策に逐一介入しないのだろう。実際,教育委員会はスピーキングテストの導入決定主体ではない。議事録からは都教委事務局が「決定」したことが推測されるが,詳細はわからない。ここから政治的対立を最小化する任命制教育委員会の妙味を感じる。(青木, 2022, p. 45)


こうした違いを踏まえれば,両者の比較は不可能ではないにせよ,複雑なものにならざるをえない。異なる要素が多すぎる分,両者を比較し,その「成功/失敗」にいかなる要因が働いたかを特定することは困難を極めるからだ。コントロールしなくてはならない要素が多すぎる。一方で,青田本のpp. 111–115 で展開されている比較は,言い方が難しいのだが,「きれいに整理されすぎている」印象を受けた。上記の違いを踏まえれば,その比較はなんというか,もっとドロドロしたものになるのではないだろうか(抽象的ですみません)。また,「成功/失敗」というフレームにやや引っ張られてしまっているような印象も受けた。たとえば,「③試験や採点の質」について,青田本では次のような比較が記されている:

「③試験や採点の質」に関しては,東京都教育委員会の関係者少なくとも2名がフィリピンの採点センターを視察し,セキュリティや採点体制などを直接確認したとされる。共通テスト政策では,事業者に対するこのような視察は管見の限り確認されていない。また,共通テスト政策で批判されている点と異なり,サンプル問題や過去問が東京都のウェブサイトで公開されている点からも,ESAT-Jは批判を受けにくい設計であったと言える。(pp. 114–115)


この指摘自体には特に異論はなくその通りだと思う。一方で,たとえば大津・南風原 (2023, 2章) が強く訴えているように,ESAT-Jでも試験や採点の質についての問題が指摘されていることに加え,特に,不受験者の得点決定の非合理さについては,ESAT-J が強く批判されているポイントのひとつであろう。また,「⑧試験場管理・監督の厳格性への疑問」についても,その問題点が大津・南風原 (2023, 1章) で指摘されているが,青田本では言及されていない。「きれいに整理されすぎている」とさきほど言及したのは,こうした錯綜した部分が捨象されてしまっている印象を受けたためである。115頁の「共通テスト政策の問題点と東京都の取り組み」の表は,たしかにわかりやすいと思う一方で,すべてを○×に振り分けられるほどに単純なのか——という違和感も同時に持ってしまう。中には,○でも×でもない△があってもいいと思うし,何なら,共通テスト政策のある面についてはむしろ○で,東京都の取り組みのある面は×といった評価もあり得るのではないだろうか。この点は,青田さんならではの中立的な立場を活かして,「きれい」ではなく「きたない」比較(良い意味で)の分析も読んでみたかったと個人的には思う。


もっとも,批判ばかり言っていては建設的ではない。読書会で議論された代替案としては,両者を「比較」するというよりも,それぞれの事例を個々に整理する方が無難ではないかという案が出た。こうした代替案の検討含め,第4章の議論のおかげで,新たな論点を考えたり,自分の考えを整理できる機会を得ることができた点は間違いない。

その他

英語教育での統計的因果推論

重箱の隅をつつくような指摘だが,「英語教育の分野でも統計的因果推論がよく知られるが(後略)」(p. 103) という指摘は,むしろ逆だと考えていた。英語教育の分野にもよるのかもしれないが,計量分析は広く行われている一方で,サンプル代表性や反実仮想を視野に入れた研究はきわめて少ないと思われる。特にSLA研究における,科学的効果と政策的効果の非区別の問題。だからこそ,(狭義の)エビデンスがなかなか蓄積されないわけで,そうした問題意識をもとにあの黄色い本(亘理ほか, 2021)が出版されたのかと思う。もっとも,「行われている」ではなく「知られている」なので,上記の点を意識してのワードチョイスだと思われるが,個人的には,果たして知られてすらいるのだろうか…… という疑念をぬぐえない。

高校生のための学びの基礎診断

「(前略)「高校生のための学びの基礎診断」は,あまり批判されることなく予定通り2019年から実施されている」(p. 117) について,これも重箱の隅をつつくような指摘で恐縮だが,いくつか付言したい。もっとも,この一文に対する批判というより,これから同書を手に取る読者には同基礎診断に対する補足として以下の点を押さえておいてほしいという意味合いである。


まず,「あまり批判されることなく」という点は同意である。たしかに,共通テスト政策に比べて,同基礎診断に対する批判的論及は明らかに少ない。しかし,一部の研究者を中心に,強い問題意識が訴えられている点は押さえておくべきであろう。たとえば,高等教育政策を専門とする荒井克弘氏による論考で繰り返し言及されているとおり,同基礎診断は高大接続改革の一環として,特に高校教育の質保証をはかることを目的として展開された経緯を有する(例,荒井, 2025)。しかし,今日ではその経緯は忘却され,テストの目的や難易度,方法はすべて各学校に委ねられている。結果として,高校教育の質を確保するための施策は宙吊りにされている。「高大接続の柱のひとつがほとんど意味のない施策に変わり果てた」(p. 95)——荒井の同施策に対するこうした言葉は,「怒り」を通り越してもはや「呆れ」のようなものを読み取れる。青田本とは直接関係のない話題であるが,こうした経緯を踏まえながら「高校生のための学びの基礎診断」およびそのパッケージのなかで実施されている英語試験のありようを検討する必要性は共有しておきたい。

【読書メモ041】Agency in language planning and policy (Liddicoat & Taylor-Leech, 2021)

第37回言語教育政策オンライン読書会で以下の文献の報告を担当しました。
記録として,報告資料を転記しておきます。

対象文献:Liddicoat, A. J., & Taylor-Leech, K. (2021). Agency in language planning and policy. Current Issues in Language Planning, 22(1–2), 1–18. https://doi.org/10.1080/14664208.2020.1791533

要約

イントロ

  • agency の定義の多様さ
    • 社会学的な定義として,個人がコンテクストに単に反応するのではなく,コンテクストに影響を与える能力。
    • 1980, 90年代以降から,エージェンシーと社会構造の関係性に着目し,個別的あるいは集団的な実践が,その背景にある社会構造をいかに再生産するか,あるいは抵抗するかというテーマの研究が興隆。
  • LPPでも,政策的環境 (policy environment) におけるさまざまなアクターによる政策の解釈や翻訳が注目されている。
    • Spolsky (2009) :言語政策の「意思決定」への注目の必要性を喚起。「誰が」「どのように」「どこで」決めたか。
    • その流れの中でエージェンシーにも注目されているが,理論的な検討は不足している。
    • 【コメント】LPP の文脈でBall et al. (2012) が引用されているが,同書は言語政策というより教育政策の本なので,違和感がある。

LPP研究の注目の変化とエージェンシーへの注目 (Ricento, 2000)

  • 初期(1960s):脱植民地化や独立国家の発展のプロセス。個人のエージェンシーよりも言語計画を担う政府機関 (agencies) や省庁に照射。
  • 批判的観点の重視(1980s~1990s):言語問題そのものだけでなく,その背景にあるイデオロギーや政治経済的関心,不平等や格差への注目。言語に関する抑圧からの抵抗という文脈で,エージェンシー概念が徐々に注目され始める。
  • ポストモダン,言語権への注目(1980s中期〜):LPPをより複雑で重層的なものとして捉える視点
    • ミクロ・メゾ・マクロの層
    • LPP as text / LPP as discourse / LPP as practice ➝「政策」の定義の拡大(➝論点1)
    • 学校,生徒,教師などの多様なアクターへの注目
  • エージェンシーは,ミクロ・メゾに限らず,マクロの層でも発揮される。
    • 一方で,最終的に公開される政策文書からは,政策形成に関わったアクターの多声性は見えにくい。
    • 【メモ】同特集号掲載のPoudel et al. (2021):ネパールの教育言語政策。多言語主義(国家)vs. EMI推進(教育現場)の板挟みに置かれる地方レベルの政策立案者のエージェンシーの行使を分析。
    • 【メモ】同様の傾向が Van Raemdonck et al. (2024) でも指摘されている(ただし,エージェンシーという言葉は使われていない):Furthermore, when we consider the role of arbiters, most studies have focused on teachers’ pivotal role. At the same time, arbiters on either the macro to a meso-level, such as policymakers or principals, tend to be overlooked despite their influential role in shaping LP.
    • 【コメント】だからこそ,審議まとめや最終提言のみならず,議事録に注目することが必要という指摘にもつながると思う。一方で,マクロ・メゾ・ミクロにおける行為主体をエージェンシー概念で一括りに捉える必要はあるのだろうか(→論点2)

エージェンシーの理論的検討

  • 過去・現在・未来に連なる時間的次元を視野に含めること (Emirbayer & Mische, 1998)
    • 【メモ】Eteläpelto et al. (2013) の整理によれば,アンソニー・ギデンズの構造化理論では,エージェンシーは「現在の状況における個人の意図的で合理的な選択と行動」に限定されていた (Giddens, 1984)。これに対し,Emirbayer & Mische (1998) は時間的な次元の欠如を課題と見立て,エージェンシーの範囲を現在だけでなく過去と未来にも拡張し,「行為者による時間的に構築された関与 (temporally constructed engagement by actors)」と定義した。
    • 【メモ】関連して,教師教育研究の観点からエージェンシー概念の理論的検討を行った文献が曾根 (2025)。
  • 反復 (iteration) ≒過去
    • すでに保有している認知枠組みによる影響。
    • エージェンシーの発揮は,必ずしも変革を意味するわけではなく,従来の実践の継続という場合もある。
    • 【コメント】p. 5, 下から8行目の part experiences は past experiences の誤植でしょうか。
  • 投影 (projectivity) ≒未来
  • 実践的評価 (practical-evaluation)≒現在

  • エージェンシーを発揮するアクター
    • Zhao and Baldauf (2012):権力を持つ人々/専門知識を持つ人々/影響力を持つ人々/関心を持つ人々
    • Ball et al. (2011):学校現場における役割の複数性・流動性
  • エージェンシーの発揮は,(合理性や倫理性に制限された)完全な自由意思のみに由来するものではなく,外部要因にも制約される,社会文化的な行動能力 (capacity to act) である (Ahearn, 2001, p. 112)
  • 【コメント】エージェンシーをcapacity to act と定義してよいのかについても,検討すべきではないか。たとえば,Priestley et al. (2015) では,エージェンシー概念を (1) agency as variable, (2) agency as capacity, (3) agency as phenomenon に区別している (p. 20)。
  • しかし,LPP文献の多くは,社会現象と切り離して,エージェンシーに着目している。structure and agency のバランスが重要である (Johnson & Ricento, 2013, p. 13)
  • 【コメント】細かい指摘かもしれないが,Johnson & Ricento (2013) は,critical LPP scholarship におけるエージェンシー概念への注目の低さを問題視し,structure and agency のバランスが必要だと主張している。
  • 認識論
    • 実在論 (realism)
    • 批判的実在論 (critical realism)
    • 社会構成主義 (constructionist perspective)
    • 【メモ】読書会での他の方からのコメントに,認識論についての説明の不足を指摘する意見があった。エージェンシーを個人の属性として内在するものとして捉えるのか,社会的に達成されるものとして捉えるのか。この捉え方の違いは認識論に関係する一方で,同文献ではあまりこの点については論じられていない。

論点1:policy の定義の理解,および自身の研究での使い方について

以前の読書会でもディスカッショントピックとされてきた点だが,言語「政策 (policy)」の定義についてまず検討しておきたい。Liddicoat & Taylor-Leech (2021) (以下,「同論文」と呼ぶ)は,「イントロ」でSpolsky (2009) の ’[l]anguage policy is all about choices’ を引いていることからも明らかなように,「政策」を広義の意味で用いている。もっとも,同論文では「政策」に関する明確な定義は見当たらない。しかし,たとえばLiddicoat (2020b) では,”planning” と “policy” について次のように説明されている:

Where "planning" refers to decision-making processes and "policy" refers to decisions, principles or guiding ideas that result from some explicit or implicit decision-making process.


ここでの「政策」は,政府主体によるものにとどまらず,非政府(機関・個人)レベルでの決定や実践も含まれる。Liddicoat (2020b) は,それらの「政策」をマクロ・メゾ・ミクロのレベルで捉えたとき,それぞれの政策的位置づけ (policy positionings) の複雑さ・相互作用・対立が浮き彫りになると指摘する。


こうした「政策」の広義の解釈は言語政策研究ではむしろ「一般的」なものであり,事実,同論文で引用されている他の論文でも同様の定義を確認できる。たとえば,Bonacina-Pugh (2012) は,言語政策を,(1) declared LP, (2) perceived LP, (3) practiced LP に分類し,言語政策を単なる公式文書や言説としてではなく,日々の会話の中に現れる「実践される言語政策(practiced language policy)」を包括するものとして定位することを提案している。また,学校教育における政策と実践に着目したBall et al. (2012) でも,「政策」を法令や国家戦略に限定せず,文脈によって媒介され,組織的に具体化される動態的なプロセス (discursive process) として定義している。具体的には,「政策」には,国家レベルで策定されるものもあれば,学校や地方当局によって生み出されるものもある。あるいは,明確な始点を持たないまま,実践の中で「流行 (fashionable)」のアプローチとして伝播するものもあるとされる。こうした複数の政策が相互に連関することで,「政策の集合体 (policy ensembles)」としてまとまるとBall らは指摘する (Chapter. 1)。


一方で,以前のLP読書会でも検討したGazzola (2023) が指摘するように,こうした「政策」の多義性・曖昧性が,政策と実践の境界を見えにくくさせ,結果として言語政策研究としてのディシプリンを確立させにくくしている(とりわけ,社会言語学との棲み分けを困難にさせている)面は否めない。また,先のBonacina-Pugh (2012) の三分類を引きつつ,Van Raemdonck et al. (2024) は,「LP研究の多くがpracticed LPに注目してきた一方で,perceived and declared LP への関心は相対的に下がっている」と指摘している (p. 290)。こうした問題の背景には,「政策」の複数性への注目が重視されてきた一方で,それらを「集合体」としてみるあまり,(1) 政府レベルの政策を解釈・翻訳した結果としての「政策」と(2) 現場レベルで生成される「政策」––の2つが区別されず,混在してしまっていることが原因としてあるのではないかと仮説的に考えている。この点の対策についてもディスカッショントピックになると思う。たとえば,Khan et al. (2025) では,macro- and micro-level policies / policy implementation and reinterpretation といった用語を用いることで,この点の錯綜を軽減させている印象を受ける。

論点2:ミクロ・メゾ・マクロという区分け/それぞれの層のエージェンシー

ミクロ・メゾ・マクロに関して,三つの点から論点を提示したい。


第一に,これらの区分けの合意可能性の低さについて。これらの区分けは,政策過程の全体像を捉えるのに便利であると思う一方で,まわりの方々からの指摘もあって,最近はあまり使わないように注意している。一つ目の理由として,これらの用語をあえて使わなくても,事象を説明できることが多い。二つ目の理由として,こちらがより重要だと思うが,それぞれの定義・境界はそれほど明確に定められておらず,合意可能性は高くないと思われる。このことはLiddicoat (2020b) でも指摘されていて,たとえばマクロレベルの対象は,日本やフランスのような中央集権制だと中央政府である一方で,アメリカやオーストラリアのような連邦制だと地方や州になりうる(もっとも教育政策の場合,そう話は単純でないようにも思う)。となると,メゾレベルの対象も判然としない。教育政策を例にすれば,メゾレベルに地方自治体や教育委員会を措定する者もいれば,学校を措定する者もいるだろう。ミクロレベルについても,個人と集団のどちらに着目するのかという説明は必要であろう。


第二に,macro-micro relation およびstructure and agencyについて。同論文でも指摘されているように,LPP研究がstructure and agency を主要なトピックとしてきたことは確かである一方で,特に「政策研究」という観点において,それぞれの連関を描写する試みに成功してきたとは言い難い。具体的には,LPP研究の多くがミクロレベルのアクターの行動を過度に重視してきた結果,政策実施における個人の能力を過度に見積もる傾向がある (Johnson, 2023; Khan et al., 2025)。その典型がMenken & García (2010) である(後ほど補足)。同書は,言語教育政策研究において,学校現場における教師の主体性 (educators as policymakers) に光を当てた重要文献として広く引用されている一方で,個人的には,「政策実施研究」とはカテゴライズしにくいと感じている。その理由はいくつかあるが,特に,国家政策に対する教師の解釈や意味づけというよりも,国家政策と教師自身の「ポリシー」との対立や葛藤に分析の比重が置かれている印象を受けたためである 。結果として,政策による影響や帰結は不可視化されやすく,政策研究としての示唆を得ることが難しいことに加え,ともすればその論じ方は「政策は無力である」というメッセージと受け取られかねないと考える。こうしたstructure and agency の偏り・非接続については,既に一部の研究者により指摘されており,おおむね,構造・政策の力と個人の行動を「二項対立」的に捉えるのではなく,「弁証法」的に捉えよう,それらの「バランス」を重視しよう——という結論に収斂していると思われる (Johnson, 2023; Khan et al., 2025)。これは,論点1で取り上げた「政策」をどう定義するかとも関連するテーマであると思われる。


第三に,各階層とエージェンシーの関係について。同論文の「マクロレベルのエージェンシー」という着眼点は重要であると思う一方で,それぞれの階層の「エージェンシー」を同質のものとして捉えてよいのかについては疑問が残る。何らかの主体的な関与であればすべて「エージェンシー」に包含されるほどに,定義が広すぎる印象を受ける。特に,マクロレベルとミクロレベルを比較すれば,想定されるアクターや,アクターが置かれている状況は相当に異なる。また,エージェンシーの発揮が何を意図しているのかという点も異なる。言語教育政策に限定すれば,ミクロレベルにおけるエージェンシーの発揮は,主に教育現場における被教育者たちに向けられていると言ってよいだろう。その実態は,教育現場に応じて多様でありうる。一方で,マクロレベルにおけるエージェンシーの発揮は,主に社会制度的な構築物に向けられていると思われる。たとえば,何らかの政策やプログラムである。こうした違いからも,それぞれのレベルの「エージェンシー」を明らかにする作業は,それぞれで異なる方法論を必要とするものであるため,個人的には一括りにして論じたくないと思った。

補足

Menken and Garcia (2010) に対する他の文献での批判-

  • Khan et al. (2025) p. 3 。もっとも,Menken & García (2010) を直接に批判しているわけではありませんが,同文献を紹介した直後に,「LPP研究の一つの課題はpolicy power と actions of individual actorsのバランスだ。」「エージェンシー・構造に関する言語政策研究において,個人のエージェンシーがシステムに対する単なる抵抗として単純化されがち」と述べられています。https://doi.org/10.1080/14790718.2025.2557435
  • Bouchard & Glasgow (2019, Intro) のp. 9 で,Johnson (2013) を引用しながら次のように述べられています。https://doi.org/10.4324/9780429455834

Johnson (2013, p. 223) not only warns against the tendency to favor agency over structure but also notices "an inchoate tension between critical approaches that emphasize the inherent power of policies (e.g. Tollefson, 1991) and other approaches that focus on the power of educators and other language policy actors (e.g. Menken & García, 2010)." [...] a prioritization of agency over structure sidesteps the very historical and structural constraints upon agency in time and space (Sealey, 2000).

読書会で教えてもらった "negative agency"(あとで読む)

  • Glasgow, G. P. (2014). Teaching English in English, ‘in principle’: The national foreign language curriculum for Japanese senior high schools. International Journal of Pedagogies and Learning, 9(2), 152-161.

This response may result in ‘negative’ agency or resistance, unless policymakers invest more deeply in the realisation of their goals through closer engagement with teachers and the contexts within which they work. (p. 159)

引用文献 (同文献に記載されている文献は除く)

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