SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は英語教育政策。

【読書メモ034】公共政策としての言語政策研究 (Gazzola, 2023)

書誌情報:Gazzola, Michele. (2023). Language Policy as Public Policy.
https://doi.org/10.4324/9780429448843

10月の言語政策方法論研究会で発表担当だった文献。
記録として,報告資料をこちらに転載しておきます。

実は2年前に別の読書会でこの文献のWORKING PAPER を読んだことがあり,そのときのメモがこちら:
sudos.hatenablog.jp

当時と比べれば私自身の公共政策についての知識も増えたので,格段に論文が読みやすくなっており,自身の成長を実感する機会にもなった。日本の英語教育政策を対象に政策実施研究を展開していきたい私にとっては,あらためて重要な文献であることを再確認。

この論文でGazzola が指摘する言語政策研究の課題を端的に言えば,公共政策学の知見や手法がほとんど採用されていない点(それによる問題点については後述)。事実,今回の研究会で報告させて頂いた際にも,「公共政策学の視点から言語政策を捉えると,こういう感じになるんですね~」というコメントを言語政策を専門とする方々からいただいたくらい,マイナーな視点であると言える。

1. Introduction

  • “critical and ethnographic turns” (See Johnson, this volume) 以降,言語政策研究と公共政策学の関係が弱化したことを受け、その関係を回復させることを目的として書かれた論稿。

2. Public Policy and Language Practices

  • 「公共政策」の複数の定義の共通点
    • 公共政策の主体が「政府 (government)」である点
    • 政策形成が政策問題・課題の選定/非選定に関わる点。
      • 重要な点が「何もしない」ことも一種の政策であること。
      • 政策形成は真空から生まれるのではなく,社会的影響を多分に受ける。
    • 政策内容は,目的の選定と,それを達成するための手段から構成される。
    • 政策決定は,技術的・政治的制約の中で行われる。
  • 言語政策研究における政策と実践の区別の曖昧化
    • Spolsky による言語政策の定義
    • Spolsky (2012): language practices, beliefs, language management
    • Spolsky (2019): language advocates, self-management
    • 以下はSpolsky (2019) のなかでの説明 (p. 326)。備忘録として。
      • Language practices: […] the actual choice of language varieties and the nature of speech repertories known and used by speakers in the domain concerned.
      • Language beliefs: […] often collected as established ideologies, which assigned values to named and unnamed varieties to identifiable variations in language choice.
      • Language management: […] the way in which some individual or group or institution set out to modify the practices and beliefs of members of the community.
      • Language advocates: […] individuals or groups who lack the authority of managers but still wish to change its practices.
      • Self-management: […] the attempt of speakers to modify their own linguistic proficiency and repertoire.
  • 【コメント】今回の文献の焦点からは逸れるが,Spolsky (2019) が提唱する言語政策に関する3区分・5区分にどれほどの妥当性があるのか。研究会で本林先生が指摘されていたが,Spolsky (2019) では唐突にlanguage advocates / self-management が提示されている印象が否めない。これがもしも,language practices / belifes / management の3区分に関連する先行研究のレビューを行い,そこから得た議論の不足や限界を整理したうえで,language advocates / self-management という概念を追加する論じ方をすれば,まだ受け入れられやすくなるのではないかなぁ,というご指摘は確かにその通りだなと思った。
  • “Policy” の多義性による混乱。それに伴うLPPの独自性の示しにくさ(特に、社会言語学との違いの不明確さ)。
  • 一方、本稿の公共政策アプローチで言語政策を捉えれば、言語政策とは、言語に関する政府の決定に起因するものを指す。
    • 個人の実践は政策ではない
      • "Influencing people’s attitudes and behavior is usually the target or the outcome of public policy, but it is not part of the public policy itself." (p. 48)

-- 政策が人々の認識や行動に影響を与えることは認めるが、あくまでそれらは政策の対象 (target) あるいはアウトカムであり、公共政策それ自体には内包されない。

    • 【補足】要するに、言語政策学が実践に注目しないわけではないけれど、政策と実践は区別して論じようね、という指摘。ただ思うのは、その媒介項にある部分についての注目は忘れられていない?
  • 公共政策の観点から言語政策を捉えることで、言語に関する課題を扱う政府の行動に注目できることに加え、政策過程の各段階を示し、それらがどのように関連しているかを説明することができる。
    • 【コメント】言語政策の定義を狭めることで政策過程の各段階(e.g. 形成、実施、評価)に注目できることもそうだが、政策と実践のつながりを自覚しないまま実践のみを記述する研究は「政策研究」とは言えないよ、という主張も成り立つように思う。

3. The Policy Cycle Model

  • 政策の段階モデル
政策の段階モデル(出典:中沼 (2007),秋吉他 (2020) をもとに一部修正)
  • 政策の段階モデルをLPPで用いることの有用性・意義
    • 言語政策の形成・実施・評価に関してシステマティックに捉えることができる。
    • […] it facilitates comparative analysis. (p. 50)
      • 【コメント】ここでの「比較」とは、政策の段階同士の比較なのか、国と国、地方と地方の比較なのか、あるいはその両方なのか。
    • 言語政策の形成にかかわる多様なアクター,アイデア,組織の分析を複合的に行うことができる。
    • 実際に政策立案に関わる政策形成者に,政策過程の段階や課題を示すことができる。
  • 政策の段階モデルは,現実の政策形成過程を正確に写し出すことを目的としているわけではない。
    • 【補足】「政策評価がプログラムの終着点でもあり出発点でもある」 (p. 49) と書かれているけど、言語教育政策では必ずしも現実はそうなってないよねという点。例えば、学習指導要領の改訂をめぐる議論は、政策決定を終着点として、政策実施・政策評価に関してはあまり注目されていない印象。

3.1 Emergence of a Language Issue

it is important to study if , how, and why a certain issue becomes the subject of public debate, in order to understand the origins and the context of language policies. (p. 52)<<

3.2 Agenda-Setting

3.3 Policy Formulation and Adoption

  • 言語政策の中心にもかかわらず、現在の言語制作研究ではあまり注目されない領域の一つ。
  • プログラム理論(=変化の理論・ロジックモデル):政策のインプットとアウトカムの因果関係
    • インプット、アウトプット、アウトカムの区別。
    • 【補足】例えば住民の健康増進のための健康診断を実施するというプログラムの場合,ロジックモデルは以下の通りとなる。健康診断実施のための予算(インプット)→健康診断実施(アクティビティ)→健康診断の受診件数(アウトプット)→健康意識の向上・追加検査の回数増加(アウトカム)→健康寿命の延伸(インパクト)(参考:杉谷和哉『日本の政策はなぜ機能しないのか』p. 40)
    • 【補足】プログラム評価は大きく分けて,ニーズ評価,セオリー評価,プロセス評価,アウトカム評価,インパクト評価に分けられる。以下は杉谷 (2024) を参考にしつつ作成。Gazoola の文献では,ひとくくりに「プログラム評価」について論じているが,どの段階に目を向けるかによって方法論も大きく変わると思うので,もう少し詳細に検討できるなと感じたところ。
プログラム評価
  • 政策手法 (policy instruments)
    • 政府が公共政策をもとに、個人や集団の意識や行動を変えるための手法
    • 言語政策での例として、2つの公用語の技能証明書を有している者への優遇。
  • 指標 (indicator system)
    • インプット、アウトプット、アウトカム指標が必須。
    • 数値化に伴う現実の単純化,数値化できる限界性に関する指摘。

3.4 Implementation

  • アクターの自律性に関する指摘(例として,学校の校長が挙げられている)。
  • 政策と実践の不一致に関する指摘。要するに,政策を実施するアクター次第でその政策がどう実施されるかは変わるよね,という当然と言えば当然の指摘。むしろ,当人が抱える専門性や現場知を発揮する重要性を考慮すれば,政策と実践の不一致を前提とした議論を展開する必要がある。
  • 【コメント】政策実施過程に注目した分析では,その現場の「コンテクスト」への配慮が重要だと思われるが,この論文ではその点の記述がやや薄いように感じた。具体的には,政策が対象とする「アクター」に関する記述が主で,例えば,「資源」や「環境」についての記述はない。
  • 【コメント】研究会にて,「言語政策」と「言語教育政策」の違いは何でしょう? という壮大な質問をいただいたが,そこでとりあえず回答した点が,言語教育政策(特に学校での言語教育政策)では,政策の実施者の主たるアクターが学校・教師であり,その集団・個人に一定の自律性が保障されている点だと指摘した。
    • 教育政策の主な実施機関である学校は,政策の影響下にある行政機関としての側面に加え,自律性を備え,それぞれの教育現場の状況や環境に合わせて教育活動を創造することが期待される教育専門機関としての側面も有する (浜田, 2013)。
    • さらに,教育政策の担い手である教師は,政策の客体でもあれば,主体でもあるという二面性をもつ (Ball et al., 2012)。というのも,教師は政策の受身的伝達者ではなく,目の前の子どもたちの実情を踏まえ,教育実践を主体的に調節する役割が求められるからだ (Ball et al., 2012; Thornton, 2004=2012)。

3.5 Evaluation

  • 質的・量的手法のどちらも利用できる。
    • 法律研究:政策が施工中の法律に準拠しているかどうかの事後的な形式的評価。
    • technically policy evaluation: 政策設計と実施における問題点の回顧的分析と,政策によるベネフィットとコストに関する実証分析。
      • 【コメント】前者が政策の実施過程に注目した分析である一方で,後者が政策の効果・コストパフォーマンスに注目した分析。言い換えれば,コンテクストへの配慮 vs. エビデンスの重視 とも言えるだろうか。
  • 重視すべき要素として、有効性、効率性、公平性。
    • ここでの効率性は、費用と便益の関係のことを指す。

4. Language Policy Levels and Public Policy Types

  • 公共政策学のアプローチを言語政策学に当てはめる際に,検討すべき問い
    • 分析のレベル
    • 公的な言語政策 (public language policy) と組織レベルで多言語主義を扱う他の形態との関係性,相違。
      • 対象とする領域の広さ。後者は基本的に利潤の追求が主目的。
      • 政策手法の豊かさ,法的根拠の有無。
    • macro-level (e.g., the national government’s official language policy) and the meso-level (e.g., corporate language policy)

As Grin shows (2022), the complexity […] stem […] from the fact that the incentives and constraints faced by actors at the macro- and meso- levels are not necessarily aligned, and, indeed, they might clearly diverge. (p. 62)<<

  • 【コメント】この論文では,政府↔非政府組織(企業など)の二項対立が中心だが,教育政策の場合だと,meso-level として地方行政の存在は無視できない。余談ですが,先日参加した教育行政学会のシンポジウムのテーマが「地方教育行政の広がりをどう整理するか」でした。

【読書メモ033】『日本の政策はなぜ機能しないか』(杉谷, 2024)

書誌情報:杉谷和哉 (2024)『日本の政策はなぜ機能しないか:EBPMの導入と課題』光文社

献本企画に応募したところ当選し,いただいた本。
私の専門は英語教育政策で,現在は専ら,英語科カリキュラムに関する政策実施過程に焦点を当てて研究しています。
分野は違えど,本書の内容は私にとって決して無縁ではなく,教育政策実施・評価について考えるうえでたくさんの示唆をいただきました。何なら,8月の研究会で教育政策実施に関する発表を行った際に,早速引用させていただきました。

献本のお礼もかねて(だいぶ遅くなってしまいましたが),特に印象に残った2章と5章について感想とコメントを記していきます。

第2章 日本における政策評価

政策評価をプログラム評価と業績管理/業績測定に大別すれば,日本の政策評価は後者に傾斜しており,その帰結として有効性よりも効率性を重視する向きがある——というのが2章の主張*1。この主張は,これまでの杉谷さんのセミナーや論文で繰り返し見聞きしてきた内容だったが,丁寧にわかりやすく論じられていて理解が深まった。


ただし,「政策評価」という用語の定義については,以前セミナーで聞いた内容とは若干の変更が加えられたと理解した。確か昨年のセミナーでは「業績測定 vs. 政策評価」という二項で整理し,業績測定は政策評価とは異なるものとして位置づけていたはず。一方本書では,「業績管理/業績測定 vs. プログラム評価 」という二項で整理し,その両方を「政策評価」という用語に包摂させている。つまり,業績管理/業績測定も「政策評価」に含めている。細かい指摘かもしれないが,個人的にはこの修正に至る試行錯誤の過程について気になった。推測でしかないが,公共政策学では「政策評価=プログラム評価」として捉えられることが多い一方で,(特に日本の)実際の政策では「政策評価=業績管理/業績測定」と捉えられることがあまりにも多いから,実態に即した区分に切り替えたのかなぁ,と考えたり。


さて,政策評価において効率性のみを追究することの一体何が問題なのか。杉谷さんによれば,その問題は次の2点にある (pp. 86-87)。第一に,歪んだインセンティブが働く可能性である。効率性とは,資源量と成果の比率から導出される。そのため,仮に成果に変化がなくても投入する資源量(予算)を減らせば——平たく言えば,資源量が減っても同様の成果が出せるよう現場がしゃかりきに働けば——見かけ上,効率性は向上する。第二に,有効性の軽視につながる可能性である。政策評価の基準として効率性ばかりが焦点化されることで,政策の有効性(すなわち,政策がどれほどの効果を有するのか,問題解決にどれほど寄与しているのか)に関する注目が薄まるということである。


上記の指摘は(英語)教育政策でもそのまま当てはまる。わかりやすい例が,文部科学省が中学・高校を対象に毎年実施している「英語教育実施状況調査(以下,実施調査)」である*2。明言こそしていないものの,文科省はこの調査をおそらく政策評価のような位置づけとして捉えていて(少なくとも私はそのように解釈している),杉谷さんの分類に従えば,「業績管理/業績測定」にカテゴライズされるだろう。


実施調査では,高校卒業段階でCEFR A2レベル (英検準2級) *3 相当以上を達成する高校生の割合6割以上を2027年度までに達成することを目標としている(cf. 第四次教育振興基本計画)。ちなみに,なぜ「6割」なのかというと,「第三次教育振興基本計画 (2018~2022年度)」で「5割」と設定して,2022年の時点でそれが概ね達成できたから。くっきりとした全体像があるわけでもなく,おぼろげながら「6」という数字が,いやシルエットが浮かんできたのだろう。そこには理論的な理由も,専門的・民主的な合意も何もない。ただキリの良い「6割」という目標値だけ設定し,学校現場におけるマネジメントの改善を要求する。そこで求められているのは,政策の「有効性」ではなく,「効率性」である。つまり,外部試験という出来合いのテストのスコアを英語教育の「成果」として設定し,いかにそのスコアを効率よく上げるかということのみが注目されている。学校の英語教育の目的が外部試験のスコア達成率という狭い枠組みで語られてしまうことの虚しさ然り,その結果を引用しつつ都道府県の英語教育の優劣を喧伝するメディアの愚劣さ然り,その結果を一種の「エビデンス」として政策の根拠に用いる行政の杜撰さ然り……


政策評価における効率性への偏重が,現場に疲弊をもたらすのみならず,有効性に関する議論を妨げる——という杉谷さんの指摘がグサッと刺さるような事例である。そもそも英語教育では,効果がどれほどあるか否かを語る以前に,「何のために」という議論がすっぽり抜け落ちているので,有効性や因果関係を語る上での土台にも立てていない(cf. 亘理他, 2021)。だからこそ,英検を始めとした外部試験のスコアに飛びつきやすい構図にもなっているわけだが。

第5章 政策の合理化はなぜ難しいのか


教育政策実施(特に英語科カリキュラムに関する政策実施)に関心がある私にとって,もっとも興味深く読んだ章。特に,「理論と実践の乖離」(pp. 162-166) がたいへん勉強になった。政策実施・評価に関する研究が不足している点を指摘する文献はいくつか見てきたが(e.g. 伊藤, 2020; 真山, 2023),政策の「文脈的近接性」や「ウィキッド・プロブレム*4」,「政策と価値」の話に絡めて議論している点は杉谷さんらしさを感じた。公共政策に限らず,教育政策,言語政策でも,政策の実施や評価に関する注目は(特に日本では)低い。その必要性をこれから訴えていきたい私としては,この章の「価値」に関する議論・論じ方はたいへん参考になった。「何を優先すべきか,どのポイントを重視して政策を決定すべきか」,そしてその背景として,「私たちの社会がどのような価値観を大事にするのか」という点について,エビデンスは示唆を与えても答えを与えてはくれない。そこに「政治」の存在意義がある。


章の後半は,政策の意思決定過程に関する内容。ここでも議論の根底にあるのは,「価値」をめぐる問題。問題の捉え方が人それぞれで,問題同士が相互に関連しているウィキッド・プロブレムたる政策課題に対処するためには,「価値」をすり合わせるための手続きが不可欠であり,だからこそエビデンス一辺倒ではなく,政治の役割に注目する必要がある。特に教育政策では,ウィキッド・プロブレムの一特徴である「問題の捉え方が社会の構成員ならびにステークホルダー間で異なっている」という点が「教育政策の形成に関わる構成員・ステークホルダー」に加えて,教育政策の影響を受けつつも一定の自律性を有する「学校教育における構成員(主に教師)」が存在する点が他の政策分野以上に「価値」のすり合わせを困難にさせている(そもそも,すり合わせる必要があるのかという点も含めて)。その意味で,教育政策では政策意思決定過程のみならず,政策実施過程でも「価値」に関する議論が切り離せない。


政治の役割については,第6章の最後でも改めて検討されている。政治を成り立たせるためには当然のことながら有権者の参加・参画が不可欠であり,そのような議論になると得てして,「『教育をキチンとやりましょう』というような話に落ち着くことが多いように思います」(p. 194) という指摘は本当にそうだなぁと。なぜかこういう話になると,ふだんの近視眼的な視点はどこかに行って,逆に超長期的な視点しか持たなくなる。もちろん,市民性教育・主権者教育の重要性は否定の仕様がないものの,杉谷さんが指摘する「既存の仕組みをどれだけ賢く使うか」(p. 194) という視点も忘れたくない。


*1:念のため補足しておくと,プログラム評価とは「社会科学の諸手法を動員して,ある社会的介入の効果を確かめる方法」(p. 38) 。業績管理/業績測定とは,「個々人や組織,部署の業績=パフォーマンスにしたがってマネジメントを行うこと」(p. 44) を意味し,NPM(新公共管理)や米国の「行政革命」といった論調を源流とする。

*2:なお,英語教育実施状況調査は,データの代表性や測定の妥当性に関して著しい問題を有する。詳しくは, 宮城の高3、英語力なぜ全国最低? 見えてきた意外な答え | 毎日新聞 などを参照のこと。

*3:最近ではほとんど言及されなくなってきたが,そもそもCEFR のA2レベルと英検準2級という対応付けが妥当なのかという点についても検討の余地がある。2010年代後半ではかなり問題視されていたのに,ここ数年はもう無批判に受け入れられている印象。

*4:念のため補足しておけば,ウィキッド・プロブレムとは以下の4つの特徴のことを指す:①問題の捉え方が社会の構成員ならびにステークホルダー間で異なっている/②問題同士が相互に関連している/③対処するための知識が不足している/④不確実性が高い。詳細は当書のp. 166 付近を参照

2025年新課程の大学英語入試の政策過程を分析した論文が出ました

2025年新課程入試に向けて2021年から2024年にかけて展開された,大学英語入試に関する政策過程を分析した論文が今月出版されました。

書誌情報

須藤爽 (2024)「大学英語入試の政策過程分析:2025年新課程入試に着目して」『関東甲信越英語教育学会誌』38, 99–112.

⦅英語で引用する場合⦆
Sudo, S. (2024). Policy process for university English entrance exam in Japan: With a special focus on university entrance exam reform in 2025. KATE Journal, 38, 99–112.


非公式ではありますが(内容は同じです)、こちらからDLできます。
www.academia.edu

J-STAGE で公開されるのは来年(2025年)の9月ごろです。

アブスト

※ DeepL で和訳したものに若干の手直しを加えました

 本稿の目的は、日本における大学英語入試改革の近年の政策過程を明らかにすることである。2022年の高校学習指導要領改訂に続き、2025年には大学入試が刷新される。文部科学省は2020年から2021年にかけて有識者会議を設置し、大学入試改革の方向性を議論した。本稿では、政策文書や会議の議事録を分析することで、2020年代以降の政策審議プロセスを検証する。その結果は以下の通りである。第一に、複数の委員が教育改革の手段として入試改革を検討することに懐疑的な姿勢を示し、その結果、2010年代に比べて政策文書において「ウォッシュバック」言説が注目されなくなった。第二に、2010年代には一部の政策立案者が、大学入試共通テストに英語4技能型の資格・検定試験(英検、GTEC、TOEFLなど)を導入することを提唱した4技能推進運動が、2020-2021年の政策会議では批判に直面した。この批判は、一部の政策立案者が、独立した4技能よりも「総合的な英語力」の評価を重視したことに一因がある。しかし、「総合的な英語力」という言葉は、その後の委員会でも一部の政策立案者によって濫用され、4技能型の資格・検定試験の利用を促進するための政治的スローガンと化している。

なお,「総合的な英語力」については前のブログで少し解説したので,興味のある方はそちらもご覧ください。
sudos.hatenablog.jp

着想を得た文献

本稿は,2024年6月に出版された(ちなみに投稿したのは2023年5月)以下の共著論文に着想を得ています。

Terasawa, T., Sudo, S., Kajigaya, T., Aoyama, R., & Kubota, R. (2024). Slogans as a policy distractor: a case of ‘washback’ discourse in English language testing reforms in Japan. Current Issues in Language Planning, 1–24. https://doi.org/10.1080/14664208.2024.2355016

この共著論文は,2010年代後半の大学英語入試改革の政策過程を試験の「ウォッシュバック(波及効果)」言説に焦点を当てて分析したものです。「ウォッシュバック」とは,主に言語テスト研究で用いられる学術用語で,試験・テストが学習者や指導者に及ぼす影響のことを意味します。

2010年代後半の大学入学共通テストへの資格・検定試験導入をめぐる政策過程では,「ウォッシュバック」研究に関する学術的知見が参照されないどころか,政策推進者の都合の良いように曲解された。その結果,「ウォッシュバック」は見せかけの学問的権威としてスローガン化し,その政策の問題点に関する議論や,他の重要な政策課題からの注意を逸らすディストラクターとして機能し政策過程を混乱させた——これがこの論文の主張です。

Terasawa et al. (2024) は2010年代後半の政策過程を分析しているのに対し,須藤 (2024) は2020年代前半の政策過程を分析しています。その意味で,続編としても読めるかと個人的には思っています。2020年代前半の大学英語入試に関する政策の傾向として,2010年代に比べればウォッシュバック言説の勢いは沈静化したものの,新たなスローガンとして「総合的な英語力」が用いられつつあり,結局2010年代後半と同じような起きていることについて,議事録分析をもとに明らかにしています。

今後の大学英語入試のあり方を検討する一助となれば幸いです。

【雑感004】いまの入試は「4技能」ではなく「総合的な英語力」?

ここ2~3年で,「総合的な英語力」という用語が(主に大学英語入試に関わる文書の中で)頻繁に用いられるようになってきた。世間の認知度も低いし,英語教育に関係する専門家の間でもほとんど話題になっていないと思うが,明らかな傾向としてそう言える。現在,「総合的な英語力」という用語が大学英語入試政策の中で表出した経緯とその動向について分析しているが(順調にいけば,夏ごろに論文が公開される予定),ここではその前段階として,「総合的な英語力」とは一体何なのか,どのような学術的知見にもとづく用語なのかについて整理しておきたい。

1. ここ2~3年で(地味に)多用されている「総合的な英語力」

大学英語入試改革のキーワードと言えば,従来までは「4技能」と言えるだろう。「これまでの入試はリーディングとリスニングの2技能に特化していた。だから日本人は話すことと書くことができないんだ。ってことで,大学入試を4技能化しよう! 英検やTOEFLなどの資格・検定試験を活用しよう! そうすれば,高校の英語教育が劇的に変わる! 日本人みんな英語がもっと話せるようになる!」というあまりにも杜撰で乱暴な論理で進められたのが2020年度の大学英語入試改革であった。「4技能」というマジックワードがもたらす推進力はいまだに健在で,それこそつい先日,鈴木寛さんのインタビュー記事 (L) でも上記と同様の論理で入試改革の必要性が訴えられていた。本記事の主旨からは逸れるので簡潔なコメントだけ残しておくとすれば,いい加減,入試を魔法の杖として扱うのはもうやめようよ…… 「地域間、学校間、生徒間の格差が目立っているのも事実だ」と認めているにもかかわらず,なぜ共通テストに4技能型の資格・検定試験を導入することが「日本人全体が英語コミュニケーション能力を高めるチャンス」(下線は引用者)と言い切れるのか,この人の思考が全く理解できない。この「日本人全体」の中には,共通テストを入試で使用しない高校生の存在や,大学へ進学しない高校生の存在が排除されているのではないか。そもそも,教育現場の実態も苦労もよく考えないまま,入試さえ変えれば高校の英語教育が劇的に良くなるというあまりにも素朴な因果推論をしていることに心底あきれる。誤解しないでいただきたいのが,別に今の入試に欠点がないと言いたいわけではない。私が言いたいのは,入試政策以外にもやらないといけないことは山ほどあるわけで,現状の問題・課題をすべて入試に押し付け,他の施策については思考停止を促すような提言はやめていただきたい,ということ。

閑話休題。タイトルにもあるように,ここ2~3年で「4技能」と並んで多用されている用語が「総合的な英語力」である。この用語が特徴的に使用されているのが「令和7年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト問題作成方針」(L) である。以下に令和6年度と令和7年度の一部を引用するので,両者を見比べてみていただきたい:

<令和6年度版>

高等学校学習指導要領では,外国語の音声や語彙,表現,文法,言語の働きなどの知識を,実際のコミュニケーションにおいて,目的や場面,状況などに応じて適切に活用できる技能を身に付けるようにすることを目標としていることを踏まえて,4技能のうち「読むこと」「聞くこと」の中でこれらの知識が活用できるかを評価する。したがって,発音,アクセント,語句整序などを単独で問う問題は作成しないこととする。(大学入試センター, 2022, p. 4, 下線は引用者)

<令和7年度版>

⾼⼤接続改⾰の中で,⾼等学校学習指導要領の趣旨を踏まえ,各⼤学の個別選抜や総合型選抜等を含む⼤学⼊学者選抜全体において,「聞くこと」「読むこと」「話すこと」「書くこと」の総合的な英語⼒を評価することが求められている。(大学入試センター, 2023, p. 7, 下線は引用者)

どちらの文書も趣旨は類似しているが,令和6年度では「4技能」が使用されていたのに対し,令和7年度では「4技能」が使用されていないことに加えて,「総合的な英語力」が新出している点に注目していただきたい。些細な違いに思うかもしれないが,この特徴は偶然ではなく,文書作成者の明らかな意図を感じる。というのも,令和7年度の問題作成方針では,文書全体にわたって「4技能」という用語が一切使用されていないからだ。それだけでなく,2023年末に公開された,「令和7年度試験の問題作成の方向性、試作問題等」(L) の中でも,「4技能」という用語は一度も使用されていない一方で,「総合的な英語力」は多用されている。

2. 「総合的な英語力」という用語が生まれた経緯

では,「総合的な英語力」という用語は一体どこからやって来たのか? その起源は2020年から2021年にかけて開かれた「大学入試改革のあり方に関する検討会議」にある。詳細は省くが(夏公開予定の論文を参照),当会議にて複数の委員により「英語4技能」という概念の妥当性・正当性が論点として挙げられた。具体的には,英語能力を4技能に切り分けて別々に評価・育成する方針に対して委員の半数以上が疑義を示し,そのアンチテーゼとして,委員の一人である上智大学の渡部良典教授が「総合的な英語力」「インテグレーティッドスキル」を提示したところ,他の委員にも賛同を示し,最終的に2021年7月に公開された「大学入試のあり方に関する検討会議 提言」(L) に反映された。

「大学入試のあり方に関する検討会議 提言」は以下の5章構成となっている:

第1章 大学入学者選抜のあり方と改善の方向性
第2章 記述式問題の出題のあり方
第3章 総合的な英語力の育成・評価のあり方
第4章 地理的・経済的事情、生涯のある受験生への合理的配慮等への対応
第5章 ウィズコロナ・ポストコロナ時代の大学入学者選抜

「総合的な英語力」についての説明に1章分を割いていることから,この用語の生成を当会議の成果の一つとして重視している点が読み取れる。なお,こちらの資料についても「4技能」という用語が一切使用されていない点も強調しておきたい。

ところで,ここまで定義せずに使用してきたが,「総合的な英語力」とはいったい何なのか。「大学入試のあり方に関する検討会議 提言」では次のように説明されている:

なお、「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」の各技能は、それぞれ別々に育成されるものではなく、例えば「聞いた情報を整理して自分の考えを話す」、「自分の考えを書くために必要な情報を読む」といった、技能統合的な言語活動を通して、総合的に育成・評価するべきものであり、その観点から、本提言では「総合的な英語力」という表現を使うこととする。(p. 19)

言わんとすることはわからなくもないが,これだけの説明では曖昧過ぎる。どのようなテストであれば「総合的な英語力」を評価することになるのかが全く不明である。提言の中には,共通テストの規模で「総合的な英語力」を評価することは実施上の課題が大きいことを理由に,「多くの大学・学部にとっては、資格・検定試験の活用が現実的な選択肢となる」(p. 26) という記述がある。言うまでもなく,「資格・検定試験」にも色々あるわけで,その目的もレベルもだいぶ違う。すべてを一括りにして「資格・検定試験ならば,総合的な英語力が測れる」という横暴な論理が今後展開されないことを切に願う*1

また,「総合的」とは言うものの,以下のような説明からもわかる通り,そこには従来のスピーキング・ライティングの育成・評価の推進という意味が込められている点も注意が必要である:

高等学校までの教育課程においては、総合的な英語力の育成が目標とされ、授業を実際のコミュニケーションの場面とする観点から高等学校学習指導要領で「英語で授業を行う」と告示されてから10 年以上が経過している。一方、大学入学者選抜が「読む」ことの力や文法等の知識を問うことが多いため、大学入学者選抜が近づくほどに、「話す」、「書く」を含めた総合的な英語力の育成より、「読む」ことの力や文法等の知識に関する学習に偏る傾向を生んできたのではないかとの指摘が多い。(p. 25)

結局のところ,「4技能」の論法と同じではないか…… と感じるのは私だけではないだろう。「総合的な英語力」という用語自体に罪はないであろうが,この用語が提示された当初の意味からどんどん離れて行っているようにしか見えない。

3. 応用言語学,テスト研究の知見から

そもそも,提案者は「総合的な英語力」という用語にどのような意味を込めていたのか。「総合的な英語力」に関する学術的知見はどれほど蓄積しているのか。この点について,応用言語学,テスト研究の知見を概観しながら最後に整理しておきたい。

integrated skill の研究の特徴

integrated skill 関連の先行研究を概観してみたところ,印象としては,特に「ライティング」関連の研究が多い印象。すなわち,「書くために読む/聞く」とか「書くときと読む/聞くときの認知スキルの差異」とかの研究が多かった。この分野は専門ではないため,あくまで片っ端から先行研究を読んだところの印象ではあったが,Huang & Hung (2018) でも「大半のintegrated test tasks に関する研究はライティングに着目していて,スピーキングに注目した研究はほとんどない」(p. 202) とはっきり書いてくれているので,たぶん当たっているのだろう。

integrated assessment に関する用語の横溢

先の「大学入試のあり方に関する検討会議」では「総合的な英語力」「インテグレーティッド・スキル」という呼び名が使われている一方で,応用言語学ではどちらかといえば,"integrated task" や "integrated assessment" という用語の方を多く目にする印象。しかしYu (2013) によれば,ほぼ同一内容を指すにもかかわらずこれ以外にも複数の呼び名があり,用語の横溢が混乱を招いているらしい。細かい用語の違いから挙げれば,"integrated skills" と表記する文献もあれば,"integrated competence" と表記する文献もあったなぁと。 あるいは,integrative test なのか integrated assessment なのか。この点については,Yu (2013) で検討されている。昔から存在するのは integrative test で,彼によれば,「言語技能の一要素に注目していないテスト (not discrete-point test)」「さまざまなスキルを組み合わせることが求められるテスト」(p. 112) という定義で,その例としてクローズテスト (cloze test) が挙げられている。クローズテストとは,一部が空欄になった文章を穴埋めすることが求められるテストで,なぜそれが "integrative test" なのかと言えば,"both linguistic knowledge and the ability to predict meaning from a written text" だから——とのこと。なるほど,複数の認知スキルが統合されることが求められていれば,integrated test と呼べるということであろう。一方で,言語技能の「統合 (integrated-ness)」には,上記のようなミクロな認知スキルの「統合」以外に,リーディング・リスニング・ライティング・スピーキングのようなマクロな言語技能の「統合」を意味することもあり,integrated assessment は後者の場合に用いられるのが主流のようだ (Yu, 2013, p. 113)。この区分に従えば,「大学入試のあり方に関する検討会議」で提唱された「総合的な英語力」は,後者の integrated assessment に近い概念であると言えるだろう。

ただし,両者の定義は研究者間でも違いがあり,それぞれの用語がどちらの意味で使用されているのか曖昧なこともあれば混同されている場合もあることに加え,両者の位置づけについても不明瞭な点が多い(ex. integrated assessment をintegrative test と同義として扱うか,あるいは,下位概念として扱うか等)。integrated assessment の合意可能性が求められる所以である。

上記は skill / competence,test / assessment をめぐる言ってしまえば細かな違いだが,そもそもの名称がまったく異なる呼び名が複数ある点もこの分野の合意可能性を阻害している。Yu (2013) は"integrated assessment" と同義の用語の例として,"discourse synthesis, summary writing or summarization, integrated writing, writing from source(s), reading-writing task, writing-from-readings, and reading-responsible writing task (just to name a few)" (p. 113) を挙げている。

integrated assessment の意義と課題

Language Asessment Quarterly でIntegrated Writing Assessment が特集された際に,Cumming (2013) はその総括として,integrated writing assessment を行うに当たる5つの有用性 (promises) と5つの危険性 (peril) を提示している (p. 2)。

5つの有用性

  • 現実的でやりがいのある読み書き活動を提供する
  • 受験生が具体的な内容についてライティング活動を行う
  • 従来の技能分離型に関連する試験方法または練習の効果に対抗する
  • 構築–統合モデル (construction-intengration model) あるいはマルチリテラシーモデルに沿って言語能力を評価する
  • 指導や自己評価のための診断的価値を提供する

※ 1つ目については真正性 (authenticity) とも言い換えられるであろう

5つの危険性

  • 作文能力と資料理を理解する能力の測定を混同する
  • 評価と診断を混同する
  • 定義が曖昧で,それゆえに採点が困難な分野を含む
  • 実力を発揮するためにはある一定以上の能力が必要であり,異なる能力レベル間で系統立てて比較できない
  • ライティングのソースにした文章と,受験者自身が生成した文章の区別の困難さ

※ 4つ目について補足しておくと,要するに「書くために読む」という活動をする際に,そもそも「読む」能力が一定水準以上に達していないと「書く」までたどり着くことができないわけで,そのテスト結果の善し悪しで果たして「書く能力がある/ない」と言えるのか,一体何を評価していると言えるのか,という指摘。


「大学入試のあり方に関する検討会議」で「総合的な英語力」が推進された理由は,議事録を見た限りでは真正性の追求が大きい。確かに大学での英語を使った講義や,社会人として英語を使用する場面を想定してみると,4技能をそれぞれで分離して使用するよりも,「書くために読む」や「話すために聞く」といった言語技能の統合の場面が連想されることは私だけではないだろう。しかし,Comming も警告するように,その定義がきわめて曖昧であることは否定できず,定義が曖昧であればそのテストの妥当性や信頼性にも不安を禁じ得ない。単なる診断テストとして日ごろの指導・学習に活かすために行うならまだしも,果たしてそれを入試というハイステークス場で実施するに耐えるだけのテスト設計が可能なのだろうか。個々の教員が教室レベルで評価を行うならまだしも,果たしてそれを共通テストほどの大規模なテストで評価するだけの知見とリソースが用意されているのだろうか(もっといえば,そのコストに見合うだけの価値がそこにあるのだろうか)。


中途半端な形で終わってしまいましたが,つづきは論文で書く予定なので,興味のある方はそちらをお読みいただければ幸いです。
本投稿と夏公開予定の論文を通じて,2024年度新課程の大学英語入試に関する方針について,一考を促す材料を提供したいと思います。

*1:願ってはいるものの,実際のところは…… という話についても夏公開予定の論文で言及する予定です

【読書メモ032】海外の15歳の生徒がどのように英語を学んでいるか (OECD PISA Project, 2024)

読書会で読んだ文献。記録として,読書メモを転載しておく。

書誌情報:OECD PISA Project (2024). How 15-Year-Olds Learn English: Case Studies from Finland, Greece, Israel, the Netherlands and Portugal
https://www.oecd.org/greece/how-15-year-olds-learn-english-a3fcacd5-en.htm

2025年から国際学力調査PISAに「英語力調査」が追加される(ちなみに日本は不参加の予定)。本調査はその実施に向けた事前調査として,フィンランドギリシャイスラエル・オランダ・ポルトガルを対象に,「15歳の生徒がどのように英語を学んでいるか」というRQの解明を事例研究を通じて試みている。詳しくは以下の通り:

In 2025, the OECD’s Programme for International Student Assessment will include an optional Foreign Language Assessment generating international comparable data on students’ English language proficiency. To support the analysis, and with co-financing from the European Commission, the OECD has conducted case studies exploring how 15-year-olds learn English in five countries: Finland, Greece, Israel, the Netherlands and Portugal. (p. 5)

以下,コメント。

  • 調査課題を「各国で英語がどのように学ばれ教えられているかについての知見がほとんど無い」(p.11) とし,そのために5か国を対象として調査している。その際,各国の3校を対象に事例研究を行った――と書かれているが,その3校の選定基準や根拠について明確な説明が記されていない。
    • 校長などの管理職,英語教師,生徒を対象にインタビュー調査を実施。調査対象に「生徒」まで含めている点は興味深い(それが分析に活かされているかは別として)。
    • 一方で,方法論的には,「国」を対象とする調査というより,「学校」を対象とする調査に向いていると思う。その学校の文化や風土,それを土台とする学級経営・授業の連関を調査することには向いているが,それだけでは「国」や「政策」との結びつきまでを包摂できるわけではない。
  • 関連して,そのような事例校を対象として得たデータを果たして「国」全体に拡大して捉えていいのか,疑問に思う記述もいくつかあった。
    • 念のため断っておくと,文書内では「この知見は国全体の傾向を代表することを目的としていない(("The findings do not purport nationally representative and should not be unterpreted as such" (p. 15)))」と書かれており,ここでの知見の限定性については警告されている。だが,分析ではけっこうその点を無視している印象を受けた。
    • 例えば,p. 131 のオランダ,フィンランドについて「外国語科目の選択として英語が大半を占めているという現状が,英語帝国主義を助長する恐れがあることを指摘する教師・生徒はいなかった」という指摘は,比較研究としては妥当な分析ではないし,そもそも単発のインタビューしか実施していないわけで,それを根拠にしても…… という感じ。
    • あるいは,p. 133 のTable 8.2 (下表参照)。紫と薄紫で彩られていてスタイリッシュな表に見えるが,一方で,表している内容はかなり怪しい。紫色の部分が「2校かそれ以上の学校で当てはまる項目」,薄紫が「1校で当てはまる項目」を表している。いやいや,どう考えても計量的な分析に足るほどの調査数じゃないでしょ…… この分析から,例えば「ポルトガルはlow-perfoming students に手厚くサポートする」というような国の特徴を導き出すことは強引すぎるのではないか。
OECD PISA Project (2024), p. 133
    • あるいは,p. 134 の「イスラエルは能力別の少人数クラスが実現されている」という指摘(ご丁寧に”in the schools visited” と書かれている)。これらをポルトガルイスラエル全体の傾向として捉えていいのか。
    • むしろ,p. 134 にある「オランダでは明確な individualising learning to meet each learner’s needsがある」のようなマクロな教育観や政策について記し,国ごとの比較を行ったうえで,それに沿って各実践をミクロに見ていく――というデザインの方が「言語政策」の議論にはつながりやすいと思う。各国の事例校を(理論的な裏付けがない状態で)1~3校選んで調査し,その知見をもとに各国間の比較を行うという手法は,さすがに無理筋ではないか。OECD PISA Projectよ,何をしているのだ?
    • 一方で,もしかしたら本調査は「質問紙作成のための予備調査」としての位置づけの可能性があるのではないか――という指摘が読書会の中であった。もしそうであれば,今回のような調査設計でもまぁ良いのかもしれないが……(だとしても,上記で言及した分析の粗さは正当化されないが)
  • “policy” という語の多義性と階層性が気になりました (p. 12):

four policy domains: 1) government and school policies; 2) students and learning; 3) teachers’ training and profile; and 4) teaching practices

    • OECD (2021) のスクショも添付しておきます。


    • 国レベルの政策と学校レベルの政策(・実践)が区別されていない印象。国がどのような政策を形成するかという点と,その影響を受けつつ学校がどのような政策・施策を形成・実践するかは別問題ではないか。
  • フィンランドでは英語が必修ではないものの,1990年代以降,事実上の必修科目となっている (p. 38; 130-131) という現状は,かつての日本を想起させる点でも興味深いと思いました。

【読書メモ031】三浦 (2021)「『教員間の協働』の計量分析」

下記文献を大学院の演習で発表する機会があった。記録として,発表資料の中の考察をこちらに転載しておく。
先に断っておくと,やや辛口のレビューにはなってしまったものの,本論文を起点としてさまざまなことを考えることに繋がり,たいへん勉強になる論文だった。

書誌情報

第5章2節;
三浦智子 (2021)「『教員間の協働』の計量分析」秋田喜代美・藤江康彦(編)『これからの教師教育研究―20の事例にみる教師研究方法論』(pp. 277-289) 東京図書


以下,本章の「はじめに」より引用

私の研究分野は教育行政学・教育経営学といった学問領域になりますが,具体的には,学校組織の経営や,学校を支える制度・政策,保護者・地域住民との連携といったことに注目し,学校における日々の活動や教育委員会による実際の取り組みを観察・分析しながら,学校教育のよりよい環境整備のあり方について追及したいと考えています。本節では,著者の論文(三浦, 2014)の内容を紹介しながら執筆の過程を振り返ることを通して,「教員間の協働」を対象とした計量分析を行うことの意義や可能性,研究上の課題について考えます。(p. 277)

参照論文:三浦 智子 (2014)「教員間の協働の促進要因に関する計量分析」『日本教行政学会年報』40, 126-143. https://doi.org/10.24491/jeas.40.0_126

論点 (1) 量的研究にできること/できないこと

 三浦 (2014) では被説明変数として「教員間の協働」を置き,その説明変数を計量調査によって明らかにすることを目的としている。以下,「一般化可能性」「解像度」の観点から,本論文のレビューを試みたい。


量的研究の長所として一般化,すなわち,多数のケースを検討することで母集団の値が推測できる点がよく指摘される。しかし,量的研究であれば必ずしも一般化が可能というわけではない。このことは,三浦 (2021) の「計量分析が可能とするのは,仮説を『法則』として定立することではなく,経験的に一般化できるか否かという視点に立ちつつ,多くの個別ケースを観察することに過ぎない」「一般化され得る正当なものであるかどうかについては,別途,理論的な裏付けが行われる必要があります」(p. 284, 下線は引用者) という指摘からも同様の趣旨が読み取れる。ただし,ここでの「経験的に一般化できるか否かという視点」「理論的な裏付け」という説明が具体的に何を意味するのかわかりにくい。特に前者の「経験」とは「経験則」のようなものだろうか。だとしたら,量的研究で得られた知見が一般化可能かどうかは,個人の認識に合うか/合わないかという問題になり,きわめて属人的になりやすい。


一方で,「理論的な裏付け」については端的に回答可能である。それは対象者の抽出法(選び方)である。最も理想的な抽出法はランダム抽出(無作為抽出)である。具体的には,(1)母集団を名簿などをもとに確定し,(2)その母集団から調査対象者を乱数などを用いてランダムに選び出す作業を意味する。では,なぜランダムサンプリングをすることが必要なのか。通俗的な理解は,ランダムに選ばないと偏りが出るから――となるだろう*1 。例えば,母集団を全国の大学生とする調査をつくば駅の改札口前で実施すれば,多くは筑波大学の学生だろうから偏りが生じる。当然のことながら,そのサンプルに基づく結果を日本の大学生全体に一般化することはできない。


本研究は関東地区の小学校(全5108校)の内の20% を無作為抽出し,1024校の小学校を対象に質問紙調査を行っている(回収率は30.76% である)。そのため調査対象者を見る限りでは,本研究の母集団は「関東地区の小学校」と言える。しかし,分析結果や結論を見ると,関東地区に限定せず「日本の小学校」に向けた示唆や提言が見られる。その意味で,本研究は「日本の小学校」への一般化が志向されているように思われる*2。もしそうであれば,関東地区の小学校が日本の小学校を代表する根拠についての記述が欲しいところだが,特にそういった説明は見られない。さらに,今回のサンプリングが日本の小学校全体と比べてどのような特性を有しているのかについての記述も見られない(例えば,サンプルの学校規模が全国平均と比べて大きいのか少ないのか)。果たしてここでの知見を「日本の小学校」に当てはめていいのかどうか,疑問の余地がある。


次に,統計分析を行う上で必要な操作化・指標化に伴う解像度の低下について述べていく。筒井 (2021)が指摘するように,「『解像度』という観点からいえば,基本的に質的データの方がそれが高い(きめ細かい)ことのほうが多い」(p. 93)。以下,具体的に説明していく。


本研究での鍵概念である「教員間の協働」は,(1)指導方法・内容に関する教員間の相互支援,(2)教材研究・単元開発に関する教員間の相互支援,(3)教員間の授業見学の頻度――の3変数が用いられている。これらの変数が「教員間の協働」と関連があることは経験的に肯定できるものの,特に根拠があるわけではない。また,本論文ではこれら3つの変数の主成分得点を用いているが,これらの変数をなぜ足し合わせていいのかについての理論的説明がなされているわけではない。マストではないが,信頼性分析(クロンバッハのα) についての記述を追加してもよかったのではないか(あるいは戦略的に記していないのか)。


加えて,校長に関する質問が人事上の質問(校長職務経験年数,勤務校在任年数)に限定されており,「2.2. 校長のリーダーシップへの遡及の限界」という節で説明があった割には,分析にその点が考慮されていないように感じる。最後に,本論文でも最後に触れられているように,この調査が「校長の認識」に基づく回答である点にも注意が必要である。分析結果からは,保護者の参画が教師間の協働に有意な影響をもたらす様子は観察されなかったものの,あくまでこの回答は「校長がイメージした保護者の教育関心の高さ」であって,その意味で「保護者の教育関心の高さ」の解像度が高いわけではない点に留意が必要である(もちろんその解像度の低さを犠牲にすることで数量化が可能となり,それによって重要な知見が得られるという点も強調しておきたいが)。

論点 (2) 「教員間の協働」や「学校風土」とは一体何なのか

論点(1) で述べた「解像度」の問題とも関連するが,そもそも「教員間の協働」とは何なのか。本論文の<注3>では,「『教員間の協働』の定義は多岐にわたる」(p. 141) と記し,Lavie (2006) による定義を参照したうえで,「④再構成的言説(経営の変革を志向した専門職共同体,組織的な学習指導)」の意味で「教員間の協働」を用いると記されている。素朴な感想ではあるが,これは注ではなく本論に含めるべきではないだろうか。「教員間の協働」は本論文の鍵概念である上に,三浦自身も述べるようにその定義が多岐にわたるのであれば,本論における概念の明確な定義は不可欠であろう。


このことに関連して,私の理解力の問題かもしれないが,「教員間の協働(あるいは高い信頼関係・社会関係資本といった学校組織風土)がいかなる環境の下で醸成・維持されるのかといった点は殆ど解明されていない」(p. 128) という記述は,その指摘を否定こそしないものの,理解が追いつかない。「教員間の協働」のみならず,「学校組織風土」や「学校風土」についてもその定義が多岐にわたるため,何を言っているのかよくわからない。


Wang & Degol (2016) では,「学校風土 (school climate)」の理論や生徒に与える影響,測定方法と分析方法についての先行研究がレビューされている。彼らの分析によれば,学校風土は多次元的 (multidimentional) な概念であるにもかかわらず,その多次元性を考慮した分析を行っている先行研究は少ない。また,「学校風土」の定義が研究者間で異なるうえに,明確な説明が記されていない先行研究も少なくないため,合意可能性がかなり怪しい。これらの問題をふまえ,彼らは,「学校風土」という概念の明確な定義と,それに基づく精緻な研究デザインの構築を提唱している。具体的には,先行研究のレビューをもとに,学校風土を academic climate, community, safety, institutional environment の4つのドメインに分類している。この分類に従えば,三浦 (2014) が言及する「教員間の協働」は community に分類されるであろう。Wang & Degol が指摘するように,「学校風土」について言及する際は,その概念の複雑性や多次元性に注意する必要がある。換言すれば,「学校風土」という用語が指す範囲を明確にしたうえで,その効果や意義について論じることが求められる。先の記述は,おそらく読者の理解を助けるために追加した記述だと思われるが,「学校風土」の多義性ゆえにかえって誤解を招きやすい説明となっている。

論点 (3) 研究をどのように政策的示唆に結びつけるか:研究者はどこまで足を踏み入れるべきか

「政策的示唆」という言葉を聞くと,どうしてもParkhurst (2016) による警告を思い出してしまう*3。 具体的には,「研究者と政策立案者の棲み分けをハッキリ意識しよう」(p. 25) という指摘。彼曰く,研究者にできることは質の高いエビデンスを生み出すことのみで,実際にどういった政策を実施するかは政策立案者の判断による。その意味で,エビデンスは政策立案者に情報を「伝える」のみで,道筋を「示す」わけではない。例えば,もし仮に「少人数制学級は生徒の学力に正の影響を与える」というエビデンスがあるとしても,少人数制学級を実際に施策として実施するかは教員数や研修にかかるコストがどれくらいかかるか,それに見合う便益が得られるか,社会からのニーズに応えられているか——などの政治的判断をもとに実施するか否かが決定される。そもそも,どんなに良質なエビデンスであろうと,その研究内容がアジェンダと何の関係も無いのであれば、情報を「伝える」存在ですらない。この厳しい警告を読んで以降,「政策的示唆」という文言について良くも悪くも身構えてしまうようになった。


本論文の結果についても同様のことが言える。調査の結果,教員集団の規模が大きい学校ほど,教員間の協働関係が行われやすいという結果が得られたわけだが,このエビデンスを基に,「小学校の教員数を拡充すべきだ!」というのはあまりに安易だし,非現実的である。このことは,「地域特性や少子化の影響により,小規模校の増加傾向は否めない」(p. 140) というように論文中でもその限界についての説明が付されている。そのうえで,「学校の内部過程において教員間の協働を促進できない学校に対し,教育委員会の指導助言はこれを補うものとして機能することが期待される」(p. 140) というように,教育委員会による指導助言の有効性については,政策的示唆のひとつとして記述しているように読み取れる。小学校教員数の拡充と比べれば,ずいぶんと控えめな政策的提言であり,その分反発も起きにくいが,インパクトは小さい。大胆な政策的示唆は現実に即していないことが多く一蹴されやすい一方,コストパフォーマンスの問題やその施策の実現可能性を考慮すると,控えめな政策的示唆しか書けないというジレンマがここにある(もちろん,ものによっては,あえてコストパフォーマンスを述べることで,提案したい政策の正当化がはかられる場合もあるだろうが)。

*1:より詳細な説明については,筒井淳也 (2023)『数字のセンスを磨く』pp. 196-197 が参考になる

*2:これには,「一般化」という言葉が有する曖昧さも関係しているだろう。質的研究への批判,あるいは,量的研究への強みとして「一般化可能性」がたびたび言及されるものの,その言葉が独り歩きしていることが多く,どのような母集団を想定した「一般化」であるかが説明されていないことが少なくない

*3:この文献については,本ブログでも以前検討した: sudos.hatenablog.jp

【雑感002】子どもの声や意思決定の参画:権利論と教育論に着目して

過日,「子どもの声や意思決定の参画」について大学院の演習で学ぶ機会があった。以下,備忘録として記録を残しつつ,それに関連して,今後の個人的な研究テーマについても検討してみたい。

「子どもの権利」と「意思表明権」

まず,子どもの権利条約第12条について触れておきたい。以下は外務省による訳 (L)。

第12条

  1. 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
  2. このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。


端的に言えば,「自己の意見を表明する」と「聴取される機会」の2点が記されている。つまり,子どもの権利のひとつとして,子どもによる意思表明権は含まれる—―と聞いて,すとんと胸に落ちる日本人は一体どれくらいいるのだろうか。


視点を変えて言えば,「子どもの権利とは具体的になに?」と質問されたときに,即興で何を思いつくだろうか。暴力から守られることや差別をされないといった(不適切な言い方かもしれないが)「わかりやすい権利」はすぐに思いつく。しかし,12条の意思表明権まで明確に答えられる自信は,少なくとも半年前の自分にはない。だって,児童・生徒時代に自分の意見を表明する機会や,それが尊重される経験をしたことがないもの…… と個人的な感想を書いたものの,これが私に限った話でないことは,例えばセーブ・ザ・チルドレン (2023) による調査 (L) からも読み取れる。当調査によれば,「子どもの権利としてふさわしいものを選んでください」という質問で,「すべての子どもは、大人と同じように1人の人間であり人権を持っている」を選択した教員は88.2% であったのに対して,「子どもは自分と関わりあるすべての事について意見を表明でき,その意見は正当に重視される」を選択した教員は64.1% であったと報告されている。つまり,教職課程を修了し,日々教育活動に励む教員でさえ,3割以上が子どもの権利として意思表明権を認識していないということになる。世間一般の認識はこれよりも低いことが予想される。


このように日本では,意思表明権が子どもの権利の一つとして認識されにくい向きがある。「子どもの意見を大切にしよう」「子どもの意見に耳を傾けよう」という声を聞くことはたびたびあっても,それを権利論として捉えるよりも,規範論,つまり,何となくそうあるべき—―という態度で捉える者が多いのではないだろうか。


以上は「子どもの声/参画」の「権利論」についての話。正直言って,半年前の私はここで理解が止まっていた。というより,「子どもの声/参画」=「権利論」という偏見が強かったせいか,論文を読んでも頭の中に入ってこなかった。しかし,以下の区分けを意識するようになってから,この分野についての見通しがだいぶ良くなったように思う。


  1. 権利論としての子どもの声/参画
  2. 教育論としての子どもの声/参画
  3. 学校・政策改善のための子どもの声/参画


権利論としての子どもの声/参画

1 については先述した通りで,子どもの声/参画を子どもが一人の人間として有する権利として捉えることを指す。「子どもはだんだんと人間になるのではなく,すでに人間なのだ」というヤヌシュ・コルチャックの言葉が連想される。基本的人権は,当然のことながら年齢や条件に関係なく,すべての人間に保障される。その中には,先述した子どもの意思表明権も含まれる。


注意すべきは,どれほど子どもの意思表明権が尊重されようと,子どもが教育を受ける対象であるという事実は変わらないという点だ。つまり,子どもは主権者であると同時に,大人によって教育される存在・守られる存在でもあるという二面性に目を向ける必要がある。後者のみに力点が置かれるとパターナリズムに陥る可能性がある。かといって,子どもにすべてを委ねればいいというわけでもない。子どもの発達・成長には大人による支援が不可欠であるからだ。「権利論としての子どもの声/参画」について検討する際は,この二つの立場のせめぎ合いを念頭に置く必要がある。
テクニカルな言い方をすれば,子どもの権利条約における12条「意思表明権」と3条「子どもの最善の利益」のパランシング・アプローチの問題と言い換えられる。この点について,Lundy (2007) は次のように述べる:

[...] while children's best interests must be a primary consideration, their right to have their views given due weight cannnot be abandoned on the basis that the adults in their lives know what is best for them. Children's rights theorists have reflected for some time about the legitimate limits to children's autonomy, conclusing that it should only be restricted where the child's preferred course of action denies the child the right to an 'open future' (Feinberg, 1980), intereferes with their development interests (Eekelaar, 1986) or restricts their life choices in an irreparable way (Freeman, 1996). (p. 938, 下線は引用者)


子どもの「開かれた未来」への権利が剥奪される場合,子どもの発達の利益が妨害される場合,または,子どもの人生の選択が回復不能な形で制限される場合に限り,子どもの自律が制限されるべきだと述べられている。頷けはするものの,否定の仕様が無いというか。結局のところ,ケースバイケースで考えないといけない—―という感じ。例えば,大学進学を望まない子どもに対して,将来の選択肢を狭めないために進学を強制するべきなのか。英語が大嫌い(だけど数学が大得意)な生徒に対して,進学の可能性や将来の可能性のことを考えて,その学習を強制させるべきなのか。当時は嫌々やらされても,後々振り返ってみたら,強制されてでもやっておいて良かった—―となる可能性もある。一方で,「教育によって『将来』の幸せを保障するだけでなく,子供が長時間生活する施設として,子供が『今,幸せであること』を保障すること」(遠藤, 2022, p. 43)の重要性についても忘れてはならない。

教育論としての子どもの声/参画

2 については,主権者教育,シティズンシップ教育,民主主義教育,市民生教育という言葉で表されることも多い。この点については,以下の文献がたいへん勉強になった:


荒井文昭・大津尚志・古田雄一・宮下世与兵衛・柳澤良明 (2023)『世界に学ぶ主権者教育の最前線―生徒参加が拓く民主主義の学び』学時出版 (L)


主権者教育に関して改めて思うことは,主権者教育や民主主義教育の責任を社会科教育だけに押し付けたくはない—―という点。教科内容との関連からどうしても社会科に期待が集まることはわかるが,ひとつの教科のみで実践を行っても意図した効果は得られないだろう。渡部 (2019) の説明を借りれば,現代社会の複雑化,社会問題の複雑化により,「分析するにしても解決を試みるにしても,一教科としての社会科,そして人文・社会諸科学の専門家としての社会科教師の力だけでは対応できないまでに複雑化している」(p. 57)。他の教科との連携もそうだし,やはり学校全体のカリキュラムとの連関も考えたい。主権者教育が学校文化や生徒の実情と相まってカリキュラムとしてどのように落とし込まれ,それが各教科のレベルでどのように設計・実施されるか。日本ではあまり連想されにくいが,例えば先の文献の第2章ではシカゴ学区のサービスラーニングの実践として,次のような事例が報告されている (pp. 61-62)。

【英語】人種差別の歴史や移民の権利,障害者の権利といったテーマを取り上げた文学作品を読み,関連団体での活動や啓発活動を通じてそうした問題に取り組む。
【芸術】地域の英雄の物語を残すための作品を制作する。
【芸術】学校内や社会の問題について広く世に訴えかける作品を制作する。
【理科】環境問題について学び,地球温暖化水質汚染の調査や啓発活動に取り組む。
【理科】生態系について学習し,コミュニティ・ガーデンをつくる。
【社会科】移民関連の政策や問題を学習し,関連団体と連携して活動を行う。
【社会科】選挙についての学習の一環で,投票を呼び掛ける活動を計画し実践する。
【外国語】必要な単語を学習したのち,介護施設で高齢者に聞き取りをし,記録に残す。


私の専門的には【外国語】が気になる。上記はかなり簡略化された説明なのでその実情については詳しくはわからないが(もう少し知りたい),外国語・英語を通じた主権者教育の可能性については,日本でももっと検討されてよい。


日本の英語教育でも,主権者教育に関連する内容は多少なりとも行われていると言える。というより,戦後の日本の英語教育では,人格育成・国際理解といった技能面以外の要素に焦点が当てられていた(寺沢, 2014)。当時と比べれば,今日ではそのようなヒューマニスティックな英語教育論は薄まり,どちらかと言えば英語の技能面・実用面に重きが置かれている(cf. 江利川, 2023)。ただ,中学の教科書では昔と変わらずキング牧師のスピーチが引用され続けているし,高校の教科書についても環境問題やジェンダー問題などの英文が好まれる当たり,英語教育の実用面に完全に舵を切っているわけではないし,むしろ実用面の一本化に対する抵抗の向きもあるのだろう。


英語教育では,「主権者教育」という位置づけで語られることは少ないものの,「グローバル人材/グローバル市民の育成」や「グローバル・シティズンシップ教育」と結び付けて語られることはきわめて多い。ただ,そのような文言が教育学者によって想定される「主権者教育」の一つと言えるかどうかはかなり怪しく,得てして政策・施策を推進するためのスローガンやバズワードとして消費されることが多く,実質的な意味を伴っていない場合が多い (cf. Kubota & Takeda, 2021)。


上記のような教科目的論について検討する際は,もちろん各教科ごとに議論を展開することも重要ではあるが,生徒の目線から見ればあくまで各教科はワンオブゼムに過ぎない—―という点を忘れたくない。市民性教育に関して言えば,それは「社会科だけでなく,さまざまな教科で取り組むことができる」(古田, 2023, p. 61)わけで,社会科だけに責任を押し付けず,他の教科を通じた実践も考えたい。その際,各教科の個人プレーに委ねるのではなく,やはり学校全体での取り組みの視点が重要になってくる。小学校を除けば,教師が日常的にみえる世界は自分の担当教科がメインだろうが,生徒はそれらを総体として経験するということを忘れてはならない。


少し長くなったので,`「3. 学校・政策改善のための子どもの声/参画」についてはあらためて後日検討してみたい。