以下の読書メモのつづき:
sudos.hatenablog.jp
第3章,4章は私の専門とも密接にかかわる領域ということもあり,第三者が読んでもわかるように,また自分の考えをきちんと整理するために,箇条書きではなく文章で書くことにしました。
第3章 事例分析Ⅱ:センター試験へのリスニングテスト導入
水野 (2008) vs. 青田 (2025)——英語教育政策への「怒り」の有無
第3章に限らない話だが,青田 (2025) は重要文献として(特に,青田本が乗り越えるべき文献という位置づけとして),水野 (2008) と江利川 (2009) を挙げている:
- 水野稚 (2008)「経団連と『英語が使える日本人』」『英語教育』57 (1), 65–67.
- 江利川春雄 (2009)『英語教育のポリティクス:競争から協同へ』三友社出版
これらの文献をはじめとする英語教育政策の従来の特徴として,青田 (2025) は,「エリートによるトップダウンを暗黙の前提として」いて,「原因と結果とが直接的かつ直線的に結びつけられ,途中過程やそこに関わる他のアクターの動向が等閑視されている」点を指摘し,その視点の相対化を第3章の狙いとして掲げている (pp. 80–81)。
正直に告白すると,私は英語教育政策を専門としているものの,これまで水野 (2008) をきちんと読んだことがなかった。もっとも,引用文献として目にすることは何回かあったが,論文ではなく雑誌「英語教育」の記事ということもあり,それほど影響力ある論考だと思っていなかったこと,入手するのがやや面倒だったこともあり(いや,図書館に行って探せばいいだけの話ではあるのだが),読むまでには至らなかった。加えて,水野さんが英語教育政策について書いた論文・書籍は無いと思われるため,英語教育政策にそれほど関心が高くない研究者なのではないかと推察していた(軽く調べた限り,現在は研究者というよりも教育事業でご活躍されている方のようです)。しかし,青田本の中で,「水野 (2008) は,江利川 (2009) に引用されるなど反響があり,その後の英語教育政策研究を方向づけた論考であったとも言える」(p. 80, 下線は引用者) ほどに重視されていたため,これは読まないといけない,と思い読んでみることにした。
読んでみたところ,たった3ページとはいえ,とても力強い文体で書かれた,メッセージ性のある論考だと感じた。冒頭は次のような問いかけから始まる:
現在,日本の英語教育の指針となっている「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」(2002) は,一体誰がつくったのだろうか。答えはもちろん文部科学省——だろうか。政策発表元はもちろん文部科学省である。しかし,その政策内容のほとんどすべてが,日本経済団体連合会,いわゆる経団連の英語教育に対する要望や提案の「丸呑み」であることを知らない方もいるのではないか。(p. 65)
この問いかけにつづくかたちで,2000年代の経団連の提言が英語教育政策に及ぼした影響について論じられている。その主張を端的に言えば,英語教育への財界の浸食に対する牽制とまとめられるだろう。私の感想も交えて説明すれば,この論考は,経済政策の一環として英語教育政策が語られがちな論調に一石を投じ,読者とその危機感を共有することで一定の歯止めをかけることを目的としたものであるように思う。いわゆる運動論的な性格が強い。ただし,読書会で他の方から指摘されたことだが,財界による英語教育政策への影響について具体的な事例とともに文章化した論考は当時希少であり,その意味で学術的価値も高いと言えるだろう。「その後の英語教育政策研究を方向づけた」とまで言えるかはまだよくわからないが,重要文献のひとつであることは間違いないだろう。
さて,青田 (2025, 3章) は,センター試験へのリスニングテスト導入に経団連の提言が大きく影響したとする水野 (2008) の反駁を試みている。もっとも,青田 (2025) も,財界による影響の大きさ自体を否定しているわけではない。簡単に要約すると,リスニングテスト導入にかかわったアクターの多元性に目を向ければ,財界以外にも同政策を支持する集団は少なからず存在しており,さまざまな駆け引きや創意工夫をもとに実現された——だからこそ,「財界主導」あるいは「行政主導」の帰結として同政策の実現を語ることは,現実を単純視しすぎている——という主張である。
私としては,この主張には納得できる。たしかに青田本の指摘を受ければ,水野 (2008) は「経団連提言➝文科省政策」の図式をやや単純に描きすぎている印象が否めない(これには紙幅の関係もあるだろう)。一方で,「メッセージ性」という観点では,水野論考と比べると,青田本がやや「物足りない」印象を受けてしまう。もっと雑に言ってしまうと,水野 (2008) からは英語教育政策に対する「怒り」を感じる一方で,青田 (2025) からは何らの表情も読み取れない。怒ってもいないし,笑ってもいない。表情がない理由は,センター試験へのリスニングテスト導入が「良い」政策であったのか,「悪い」政策であったのかという政策内容に対する評価が一切書かれていないからである。そしてそれは,おそらく青田 (2025) による作戦であろう。具体的には,著者自身は政策内容に対する価値評価の言及を避けて,政策過程をニュートラルに書くことにとどめることで,価値判断を読者に委ねるという作戦である(あくまで私の理解なので眉唾ですが)。その試みはおそらく成功しており,現に青田本からは水野 (2008) のような「怒り」はみられない。怒るか笑うかは読者次第で,そのための情報提供を(なるべく)中立的に行うことを主目的にしているようにみえる。この違いもあり,水野 (2008) のような,英語教育政策への財界の浸食に警戒せよ——というような強いメッセージ性を青田 (2025) から看取することはできない。できないというより,それを意図していないのであろう。後述するように,これは第3章のみならず第4章にも共通するスタンスである。こうした研究のスタンスの取り方も含めて,非常に興味深く拝読した章だった。
第4章 事例分析Ⅲ:大学・高等学校入試への英語スピーキングストの導入
私自身,これまで大学英語入試改革について精力的に研究してきたこともあり,第4章は感慨深く拝読した。われわれの共著論文 (Terasawa et al., 2024) も引用していただいて感謝。また,ESAT-J に関する先行研究が不足しているなかで,民間試験導入と関連付けながらその取り組みを論じることを試みる意欲的かつ挑戦的な論考だと感じた。
英語民間試験導入の「失敗」とESAT-J導入の「成功」
第4章では,入学試験へのスピーキング試験導入をめぐる2つの施策の比較が行われている。ひとつが2010年代後半に議論された大学入学共通テストへの民間試験導入,もうひとつが2022年度から実施されている東京都中学校英語スピーキング試験 (ESAT-J) の導入である。同書では,導入に頓挫した前者を「失敗」,導入が実現した後者を「成功」と位置づけ,その比較を通じて導入の成功/失敗の要因の分析が行われている。
さまざまな事情から「成功/失敗」というフレーミングを行ったと推察されるが,なかなか議論が分かれるポイントであると思う。以下,2つの観点から私見を述べたい。
第一に,「成功/失敗」は価値判断を含む語なので,特にESAT-Jを猛烈に反対している方々にとっては,余計な誤解を与えかねないワードチョイスであると思われる。先の第3章の検討でも指摘した通り,青田 (2025) のスタンスは第4章においても「中立」寄りである。つまり,同章はESAT-J を支持・擁護するものでも,批判・非難するものでもない。ESAT-J に対する評価はすべて鍵括弧付の「成功」,「よくできた」(p. 117) で形容されており,著者自身の政策に対する評価は必要最小限にとどめられている。このスタンスにこだわるのであれば,たとえば,「実現↔非実現」,「実施↔廃止」といったワードチョイスも候補として挙がるだろう。ただし,明快さや先行研究とのつながり(この点については次段落で後述)を意識して,「成功/失敗」という用語を使用したと考えられる。これから同書を手に取る読者には,この「成功/失敗」というフレームは政策の良し悪しを語るものではない——という留保付きで読むことをお勧めする。
第二に,「成功/失敗」というフレームは,公共政策研究における政策の「成功/失敗」に関する議論との接続が意識されている (p. 111)。しかし,細かい指摘ではあるが,この先行研究の引用の仕方はややミスマッチであるように思う。青田本では政策の失敗研究として,Hogwood and Gunn (1984) と伊藤 (2020) を参考文献として提示している。前者は読んだことがないのでわからないが,後者は修士課程の際に著者ご本人の授業のなかで検討したため馴染みがある。
伊藤 (2020) のタイトルから明らかなように,同書は政策の「実施」ないし「帰結」に焦点を当てたものである。つまり,ここでの政策の「成功/失敗」とは,政策結果の「成功/失敗」のことを指す。政策が決定されても,それが意図通りに展開されるとは限らない。だからこそ,政策決定後の段階に着目し,実施過程の分析や政策評価を通じて当該政策の成否を検証する必要がある——こうした問題意識をもとに,広告景観規制という事例に着目して行われた研究である。一方,青田本の政策の「成功/失敗」は,政策の実現/非実現,つまり政策決定時点のことを指しているように思う。この点の接続については,もう少し説明が欲しいところである。
民間試験導入とESAT-J の比較
先に断っておくと,難しい論点である。それだけに,こうした論考を提示すること自体,かなりの勇気がいることだと思う。その困難や葛藤に思いを馳せつつ,私見を述べるとすれば,民間試験導入とESAT-Jの「比較」は無理があるように思えた。たしかに両施策は,「入学試験へのスピーキングテスト導入」という構図は一致しているものの,無視できない異なる要素が多すぎる印象を受ける。具体的には,国と自治体(東京)という規模の違い・政策決定のプロセスの違い,大学入試(の共通テスト)と高校入試という違い。また,もっと細かい話をすれば,民間試験導入は英語入試改革として括れるものではなく,高大接続改革という大きな流れの中で推進されたという政策的文脈の違いもあるだろう。
政策過程の違いについては,教育行政学者の青木栄一氏が雑誌「英語教育」に寄稿した論考の以下の記述が参考になる:
都教委はスピーキングテストについては一貫して「報告事項」で処理してきた。教育委員会は審議会ではなく自らで方針を決められる「執行機関」である。相応の月額報酬を得る教育委員たちが「報告事項」でかまわないと判断したわけだから,教育委員会は1つの施策に逐一介入しないのだろう。実際,教育委員会はスピーキングテストの導入決定主体ではない。議事録からは都教委事務局が「決定」したことが推測されるが,詳細はわからない。ここから政治的対立を最小化する任命制教育委員会の妙味を感じる。(青木, 2022, p. 45)
こうした違いを踏まえれば,両者の比較は不可能ではないにせよ,複雑なものにならざるをえない。異なる要素が多すぎる分,両者を比較し,その「成功/失敗」にいかなる要因が働いたかを特定することは困難を極めるからだ。コントロールしなくてはならない要素が多すぎる。一方で,青田本のpp. 111–115 で展開されている比較は,言い方が難しいのだが,「きれいに整理されすぎている」印象を受けた。上記の違いを踏まえれば,その比較はなんというか,もっとドロドロしたものになるのではないだろうか(抽象的ですみません)。また,「成功/失敗」というフレームにやや引っ張られてしまっているような印象も受けた。たとえば,「③試験や採点の質」について,青田本では次のような比較が記されている:
「③試験や採点の質」に関しては,東京都教育委員会の関係者少なくとも2名がフィリピンの採点センターを視察し,セキュリティや採点体制などを直接確認したとされる。共通テスト政策では,事業者に対するこのような視察は管見の限り確認されていない。また,共通テスト政策で批判されている点と異なり,サンプル問題や過去問が東京都のウェブサイトで公開されている点からも,ESAT-Jは批判を受けにくい設計であったと言える。(pp. 114–115)
この指摘自体には特に異論はなくその通りだと思う。一方で,たとえば大津・南風原 (2023, 2章) が強く訴えているように,ESAT-Jでも試験や採点の質についての問題が指摘されていることに加え,特に,不受験者の得点決定の非合理さについては,ESAT-J が強く批判されているポイントのひとつであろう。また,「⑧試験場管理・監督の厳格性への疑問」についても,その問題点が大津・南風原 (2023, 1章) で指摘されているが,青田本では言及されていない。「きれいに整理されすぎている」とさきほど言及したのは,こうした錯綜した部分が捨象されてしまっている印象を受けたためである。115頁の「共通テスト政策の問題点と東京都の取り組み」の表は,たしかにわかりやすいと思う一方で,すべてを○×に振り分けられるほどに単純なのか——という違和感も同時に持ってしまう。中には,○でも×でもない△があってもいいと思うし,何なら,共通テスト政策のある面についてはむしろ○で,東京都の取り組みのある面は×といった評価もあり得るのではないだろうか。この点は,青田さんならではの中立的な立場を活かして,「きれい」ではなく「きたない」比較(良い意味で)の分析も読んでみたかったと個人的には思う。
もっとも,批判ばかり言っていては建設的ではない。読書会で議論された代替案としては,両者を「比較」するというよりも,それぞれの事例を個々に整理する方が無難ではないかという案が出た。こうした代替案の検討含め,第4章の議論のおかげで,新たな論点を考えたり,自分の考えを整理できる機会を得ることができた点は間違いない。
その他
英語教育での統計的因果推論
重箱の隅をつつくような指摘だが,「英語教育の分野でも統計的因果推論がよく知られるが(後略)」(p. 103) という指摘は,むしろ逆だと考えていた。英語教育の分野にもよるのかもしれないが,計量分析は広く行われている一方で,サンプル代表性や反実仮想を視野に入れた研究はきわめて少ないと思われる。特にSLA研究における,科学的効果と政策的効果の非区別の問題。だからこそ,(狭義の)エビデンスがなかなか蓄積されないわけで,そうした問題意識をもとにあの黄色い本(亘理ほか, 2021)が出版されたのかと思う。もっとも,「行われている」ではなく「知られている」なので,上記の点を意識してのワードチョイスだと思われるが,個人的には,果たして知られてすらいるのだろうか…… という疑念をぬぐえない。
高校生のための学びの基礎診断
「(前略)「高校生のための学びの基礎診断」は,あまり批判されることなく予定通り2019年から実施されている」(p. 117) について,これも重箱の隅をつつくような指摘で恐縮だが,いくつか付言したい。もっとも,この一文に対する批判というより,これから同書を手に取る読者には同基礎診断に対する補足として以下の点を押さえておいてほしいという意味合いである。
まず,「あまり批判されることなく」という点は同意である。たしかに,共通テスト政策に比べて,同基礎診断に対する批判的論及は明らかに少ない。しかし,一部の研究者を中心に,強い問題意識が訴えられている点は押さえておくべきであろう。たとえば,高等教育政策を専門とする荒井克弘氏による論考で繰り返し言及されているとおり,同基礎診断は高大接続改革の一環として,特に高校教育の質保証をはかることを目的として展開された経緯を有する(例,荒井, 2025)。しかし,今日ではその経緯は忘却され,テストの目的や難易度,方法はすべて各学校に委ねられている。結果として,高校教育の質を確保するための施策は宙吊りにされている。「高大接続の柱のひとつがほとんど意味のない施策に変わり果てた」(p. 95)——荒井の同施策に対するこうした言葉は,「怒り」を通り越してもはや「呆れ」のようなものを読み取れる。青田本とは直接関係のない話題であるが,こうした経緯を踏まえながら「高校生のための学びの基礎診断」およびそのパッケージのなかで実施されている英語試験のありようを検討する必要性は共有しておきたい。


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