SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は英語教育政策。

【読書メモ042】『激動の英語教育政策は「誰が」決めたのか』(青田, 2025)第3~4章

以下の読書メモのつづき:
sudos.hatenablog.jp

第3章,4章は私の専門とも密接にかかわる領域ということもあり,第三者が読んでもわかるように,また自分の考えをきちんと整理するために,箇条書きではなく文章で書くことにしました。

第3章 事例分析Ⅱ:センター試験へのリスニングテスト導入

水野 (2008) vs. 青田 (2025)——英語教育政策への「怒り」の有無

第3章に限らない話だが,青田 (2025) は重要文献として(特に,青田本が乗り越えるべき文献という位置づけとして),水野 (2008) と江利川 (2009) を挙げている:

  • 水野稚 (2008)「経団連と『英語が使える日本人』」『英語教育』57 (1), 65–67.
  • 江利川春雄 (2009)『英語教育のポリティクス:競争から協同へ』三友社出版


これらの文献をはじめとする英語教育政策の従来の特徴として,青田 (2025) は,「エリートによるトップダウンを暗黙の前提として」いて,「原因と結果とが直接的かつ直線的に結びつけられ,途中過程やそこに関わる他のアクターの動向が等閑視されている」点を指摘し,その視点の相対化を第3章の狙いとして掲げている (pp. 80–81)。


正直に告白すると,私は英語教育政策を専門としているものの,これまで水野 (2008) をきちんと読んだことがなかった。もっとも,引用文献として目にすることは何回かあったが,論文ではなく雑誌「英語教育」の記事ということもあり,それほど影響力ある論考だと思っていなかったこと,入手するのがやや面倒だったこともあり(いや,図書館に行って探せばいいだけの話ではあるのだが),読むまでには至らなかった。加えて,水野さんが英語教育政策について書いた論文・書籍は無いと思われるため,英語教育政策にそれほど関心が高くない研究者なのではないかと推察していた(軽く調べた限り,現在は研究者というよりも教育事業でご活躍されている方のようです)。しかし,青田本の中で,「水野 (2008) は,江利川 (2009) に引用されるなど反響があり,その後の英語教育政策研究を方向づけた論考であったとも言える」(p. 80, 下線は引用者) ほどに重視されていたため,これは読まないといけない,と思い読んでみることにした。


読んでみたところ,たった3ページとはいえ,とても力強い文体で書かれた,メッセージ性のある論考だと感じた。冒頭は次のような問いかけから始まる:

現在,日本の英語教育の指針となっている「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」(2002) は,一体誰がつくったのだろうか。答えはもちろん文部科学省——だろうか。政策発表元はもちろん文部科学省である。しかし,その政策内容のほとんどすべてが,日本経済団体連合会,いわゆる経団連の英語教育に対する要望や提案の「丸呑み」であることを知らない方もいるのではないか。(p. 65)


この問いかけにつづくかたちで,2000年代の経団連の提言が英語教育政策に及ぼした影響について論じられている。その主張を端的に言えば,英語教育への財界の浸食に対する牽制とまとめられるだろう。私の感想も交えて説明すれば,この論考は,経済政策の一環として英語教育政策が語られがちな論調に一石を投じ,読者とその危機感を共有することで一定の歯止めをかけることを目的としたものであるように思う。いわゆる運動論的な性格が強い。ただし,読書会で他の方から指摘されたことだが,財界による英語教育政策への影響について具体的な事例とともに文章化した論考は当時希少であり,その意味で学術的価値も高いと言えるだろう。「その後の英語教育政策研究を方向づけた」とまで言えるかはまだよくわからないが,重要文献のひとつであることは間違いないだろう。


さて,青田 (2025, 3章) は,センター試験へのリスニングテスト導入に経団連の提言が大きく影響したとする水野 (2008) の反駁を試みている。もっとも,青田 (2025) も,財界による影響の大きさ自体を否定しているわけではない。簡単に要約すると,リスニングテスト導入にかかわったアクターの多元性に目を向ければ,財界以外にも同政策を支持する集団は少なからず存在しており,さまざまな駆け引きや創意工夫をもとに実現された——だからこそ,「財界主導」あるいは「行政主導」の帰結として同政策の実現を語ることは,現実を単純視しすぎている——という主張である。


私としては,この主張には納得できる。たしかに青田本の指摘を受ければ,水野 (2008) は「経団連提言➝文科省政策」の図式をやや単純に描きすぎている印象が否めない(これには紙幅の関係もあるだろう)。一方で,「メッセージ性」という観点では,水野論考と比べると,青田本がやや「物足りない」印象を受けてしまう。もっと雑に言ってしまうと,水野 (2008) からは英語教育政策に対する「怒り」を感じる一方で,青田 (2025) からは何らの表情も読み取れない。怒ってもいないし,笑ってもいない。表情がない理由は,センター試験へのリスニングテスト導入が「良い」政策であったのか,「悪い」政策であったのかという政策内容に対する評価が一切書かれていないからである。そしてそれは,おそらく青田 (2025) による作戦であろう。具体的には,著者自身は政策内容に対する価値評価の言及を避けて,政策過程をニュートラルに書くことにとどめることで,価値判断を読者に委ねるという作戦である(あくまで私の理解なので眉唾ですが)。その試みはおそらく成功しており,現に青田本からは水野 (2008) のような「怒り」はみられない。怒るか笑うかは読者次第で,そのための情報提供を(なるべく)中立的に行うことを主目的にしているようにみえる。この違いもあり,水野 (2008) のような,英語教育政策への財界の浸食に警戒せよ——というような強いメッセージ性を青田 (2025) から看取することはできない。できないというより,それを意図していないのであろう。後述するように,これは第3章のみならず第4章にも共通するスタンスである。こうした研究のスタンスの取り方も含めて,非常に興味深く拝読した章だった。

第4章 事例分析Ⅲ:大学・高等学校入試への英語スピーキングストの導入

私自身,これまで大学英語入試改革について精力的に研究してきたこともあり,第4章は感慨深く拝読した。われわれの共著論文 (Terasawa et al., 2024) も引用していただいて感謝。また,ESAT-J に関する先行研究が不足しているなかで,民間試験導入と関連付けながらその取り組みを論じることを試みる意欲的かつ挑戦的な論考だと感じた。

英語民間試験導入の「失敗」とESAT-J導入の「成功」

第4章では,入学試験へのスピーキング試験導入をめぐる2つの施策の比較が行われている。ひとつが2010年代後半に議論された大学入学共通テストへの民間試験導入,もうひとつが2022年度から実施されている東京都中学校英語スピーキング試験 (ESAT-J) の導入である。同書では,導入に頓挫した前者を「失敗」,導入が実現した後者を「成功」と位置づけ,その比較を通じて導入の成功/失敗の要因の分析が行われている。


さまざまな事情から「成功/失敗」というフレーミングを行ったと推察されるが,なかなか議論が分かれるポイントであると思う。以下,2つの観点から私見を述べたい。


第一に,「成功/失敗」は価値判断を含む語なので,特にESAT-Jを猛烈に反対している方々にとっては,余計な誤解を与えかねないワードチョイスであると思われる。先の第3章の検討でも指摘した通り,青田 (2025) のスタンスは第4章においても「中立」寄りである。つまり,同章はESAT-J を支持・擁護するものでも,批判・非難するものでもない。ESAT-J に対する評価はすべて鍵括弧付の「成功」,「よくできた」(p. 117) で形容されており,著者自身の政策に対する評価は必要最小限にとどめられている。このスタンスにこだわるのであれば,たとえば,「実現↔非実現」,「実施↔廃止」といったワードチョイスも候補として挙がるだろう。ただし,明快さや先行研究とのつながり(この点については次段落で後述)を意識して,「成功/失敗」という用語を使用したと考えられる。これから同書を手に取る読者には,この「成功/失敗」というフレームは政策の良し悪しを語るものではない——という留保付きで読むことをお勧めする。


第二に,「成功/失敗」というフレームは,公共政策研究における政策の「成功/失敗」に関する議論との接続が意識されている (p. 111)。しかし,細かい指摘ではあるが,この先行研究の引用の仕方はややミスマッチであるように思う。青田本では政策の失敗研究として,Hogwood and Gunn (1984) と伊藤 (2020) を参考文献として提示している。前者は読んだことがないのでわからないが,後者は修士課程の際に著者ご本人の授業のなかで検討したため馴染みがある。



伊藤 (2020) のタイトルから明らかなように,同書は政策の「実施」ないし「帰結」に焦点を当てたものである。つまり,ここでの政策の「成功/失敗」とは,政策結果の「成功/失敗」のことを指す。政策が決定されても,それが意図通りに展開されるとは限らない。だからこそ,政策決定後の段階に着目し,実施過程の分析や政策評価を通じて当該政策の成否を検証する必要がある——こうした問題意識をもとに,広告景観規制という事例に着目して行われた研究である。一方,青田本の政策の「成功/失敗」は,政策の実現/非実現,つまり政策決定時点のことを指しているように思う。この点の接続については,もう少し説明が欲しいところである。

民間試験導入とESAT-J の比較

先に断っておくと,難しい論点である。それだけに,こうした論考を提示すること自体,かなりの勇気がいることだと思う。その困難や葛藤に思いを馳せつつ,私見を述べるとすれば,民間試験導入とESAT-Jの「比較」は無理があるように思えた。たしかに両施策は,「入学試験へのスピーキングテスト導入」という構図は一致しているものの,無視できない異なる要素が多すぎる印象を受ける。具体的には,国と自治体(東京)という規模の違い・政策決定のプロセスの違い,大学入試(の共通テスト)と高校入試という違い。また,もっと細かい話をすれば,民間試験導入は英語入試改革として括れるものではなく,高大接続改革という大きな流れの中で推進されたという政策的文脈の違いもあるだろう。


政策過程の違いについては,教育行政学者の青木栄一氏が雑誌「英語教育」に寄稿した論考の以下の記述が参考になる:

都教委はスピーキングテストについては一貫して「報告事項」で処理してきた。教育委員会は審議会ではなく自らで方針を決められる「執行機関」である。相応の月額報酬を得る教育委員たちが「報告事項」でかまわないと判断したわけだから,教育委員会は1つの施策に逐一介入しないのだろう。実際,教育委員会はスピーキングテストの導入決定主体ではない。議事録からは都教委事務局が「決定」したことが推測されるが,詳細はわからない。ここから政治的対立を最小化する任命制教育委員会の妙味を感じる。(青木, 2022, p. 45)


こうした違いを踏まえれば,両者の比較は不可能ではないにせよ,複雑なものにならざるをえない。異なる要素が多すぎる分,両者を比較し,その「成功/失敗」にいかなる要因が働いたかを特定することは困難を極めるからだ。コントロールしなくてはならない要素が多すぎる。一方で,青田本のpp. 111–115 で展開されている比較は,言い方が難しいのだが,「きれいに整理されすぎている」印象を受けた。上記の違いを踏まえれば,その比較はなんというか,もっとドロドロしたものになるのではないだろうか(抽象的ですみません)。また,「成功/失敗」というフレームにやや引っ張られてしまっているような印象も受けた。たとえば,「③試験や採点の質」について,青田本では次のような比較が記されている:

「③試験や採点の質」に関しては,東京都教育委員会の関係者少なくとも2名がフィリピンの採点センターを視察し,セキュリティや採点体制などを直接確認したとされる。共通テスト政策では,事業者に対するこのような視察は管見の限り確認されていない。また,共通テスト政策で批判されている点と異なり,サンプル問題や過去問が東京都のウェブサイトで公開されている点からも,ESAT-Jは批判を受けにくい設計であったと言える。(pp. 114–115)


この指摘自体には特に異論はなくその通りだと思う。一方で,たとえば大津・南風原 (2023, 2章) が強く訴えているように,ESAT-Jでも試験や採点の質についての問題が指摘されていることに加え,特に,不受験者の得点決定の非合理さについては,ESAT-J が強く批判されているポイントのひとつであろう。また,「⑧試験場管理・監督の厳格性への疑問」についても,その問題点が大津・南風原 (2023, 1章) で指摘されているが,青田本では言及されていない。「きれいに整理されすぎている」とさきほど言及したのは,こうした錯綜した部分が捨象されてしまっている印象を受けたためである。115頁の「共通テスト政策の問題点と東京都の取り組み」の表は,たしかにわかりやすいと思う一方で,すべてを○×に振り分けられるほどに単純なのか——という違和感も同時に持ってしまう。中には,○でも×でもない△があってもいいと思うし,何なら,共通テスト政策のある面についてはむしろ○で,東京都の取り組みのある面は×といった評価もあり得るのではないだろうか。この点は,青田さんならではの中立的な立場を活かして,「きれい」ではなく「きたない」比較(良い意味で)の分析も読んでみたかったと個人的には思う。


もっとも,批判ばかり言っていては建設的ではない。読書会で議論された代替案としては,両者を「比較」するというよりも,それぞれの事例を個々に整理する方が無難ではないかという案が出た。こうした代替案の検討含め,第4章の議論のおかげで,新たな論点を考えたり,自分の考えを整理できる機会を得ることができた点は間違いない。

その他

英語教育での統計的因果推論

重箱の隅をつつくような指摘だが,「英語教育の分野でも統計的因果推論がよく知られるが(後略)」(p. 103) という指摘は,むしろ逆だと考えていた。英語教育の分野にもよるのかもしれないが,計量分析は広く行われている一方で,サンプル代表性や反実仮想を視野に入れた研究はきわめて少ないと思われる。特にSLA研究における,科学的効果と政策的効果の非区別の問題。だからこそ,(狭義の)エビデンスがなかなか蓄積されないわけで,そうした問題意識をもとにあの黄色い本(亘理ほか, 2021)が出版されたのかと思う。もっとも,「行われている」ではなく「知られている」なので,上記の点を意識してのワードチョイスだと思われるが,個人的には,果たして知られてすらいるのだろうか…… という疑念をぬぐえない。

高校生のための学びの基礎診断

「(前略)「高校生のための学びの基礎診断」は,あまり批判されることなく予定通り2019年から実施されている」(p. 117) について,これも重箱の隅をつつくような指摘で恐縮だが,いくつか付言したい。もっとも,この一文に対する批判というより,これから同書を手に取る読者には同基礎診断に対する補足として以下の点を押さえておいてほしいという意味合いである。


まず,「あまり批判されることなく」という点は同意である。たしかに,共通テスト政策に比べて,同基礎診断に対する批判的論及は明らかに少ない。しかし,一部の研究者を中心に,強い問題意識が訴えられている点は押さえておくべきであろう。たとえば,高等教育政策を専門とする荒井克弘氏による論考で繰り返し言及されているとおり,同基礎診断は高大接続改革の一環として,特に高校教育の質保証をはかることを目的として展開された経緯を有する(例,荒井, 2025)。しかし,今日ではその経緯は忘却され,テストの目的や難易度,方法はすべて各学校に委ねられている。結果として,高校教育の質を確保するための施策は宙吊りにされている。「高大接続の柱のひとつがほとんど意味のない施策に変わり果てた」(p. 95)——荒井の同施策に対するこうした言葉は,「怒り」を通り越してもはや「呆れ」のようなものを読み取れる。青田本とは直接関係のない話題であるが,こうした経緯を踏まえながら「高校生のための学びの基礎診断」およびそのパッケージのなかで実施されている英語試験のありようを検討する必要性は共有しておきたい。

【読書メモ041】Agency in language planning and policy (Liddicoat & Taylor-Leech, 2021)

第37回言語教育政策オンライン読書会で以下の文献の報告を担当しました。
記録として,報告資料を転記しておきます。

対象文献:Liddicoat, A. J., & Taylor-Leech, K. (2021). Agency in language planning and policy. Current Issues in Language Planning, 22(1–2), 1–18. https://doi.org/10.1080/14664208.2020.1791533

要約

イントロ

  • agency の定義の多様さ
    • 社会学的な定義として,個人がコンテクストに単に反応するのではなく,コンテクストに影響を与える能力。
    • 1980, 90年代以降から,エージェンシーと社会構造の関係性に着目し,個別的あるいは集団的な実践が,その背景にある社会構造をいかに再生産するか,あるいは抵抗するかというテーマの研究が興隆。
  • LPPでも,政策的環境 (policy environment) におけるさまざまなアクターによる政策の解釈や翻訳が注目されている。
    • Spolsky (2009) :言語政策の「意思決定」への注目の必要性を喚起。「誰が」「どのように」「どこで」決めたか。
    • その流れの中でエージェンシーにも注目されているが,理論的な検討は不足している。
    • 【コメント】LPP の文脈でBall et al. (2012) が引用されているが,同書は言語政策というより教育政策の本なので,違和感がある。

LPP研究の注目の変化とエージェンシーへの注目 (Ricento, 2000)

  • 初期(1960s):脱植民地化や独立国家の発展のプロセス。個人のエージェンシーよりも言語計画を担う政府機関 (agencies) や省庁に照射。
  • 批判的観点の重視(1980s~1990s):言語問題そのものだけでなく,その背景にあるイデオロギーや政治経済的関心,不平等や格差への注目。言語に関する抑圧からの抵抗という文脈で,エージェンシー概念が徐々に注目され始める。
  • ポストモダン,言語権への注目(1980s中期〜):LPPをより複雑で重層的なものとして捉える視点
    • ミクロ・メゾ・マクロの層
    • LPP as text / LPP as discourse / LPP as practice ➝「政策」の定義の拡大(➝論点1)
    • 学校,生徒,教師などの多様なアクターへの注目
  • エージェンシーは,ミクロ・メゾに限らず,マクロの層でも発揮される。
    • 一方で,最終的に公開される政策文書からは,政策形成に関わったアクターの多声性は見えにくい。
    • 【メモ】同特集号掲載のPoudel et al. (2021):ネパールの教育言語政策。多言語主義(国家)vs. EMI推進(教育現場)の板挟みに置かれる地方レベルの政策立案者のエージェンシーの行使を分析。
    • 【メモ】同様の傾向が Van Raemdonck et al. (2024) でも指摘されている(ただし,エージェンシーという言葉は使われていない):Furthermore, when we consider the role of arbiters, most studies have focused on teachers’ pivotal role. At the same time, arbiters on either the macro to a meso-level, such as policymakers or principals, tend to be overlooked despite their influential role in shaping LP.
    • 【コメント】だからこそ,審議まとめや最終提言のみならず,議事録に注目することが必要という指摘にもつながると思う。一方で,マクロ・メゾ・ミクロにおける行為主体をエージェンシー概念で一括りに捉える必要はあるのだろうか(→論点2)

エージェンシーの理論的検討

  • 過去・現在・未来に連なる時間的次元を視野に含めること (Emirbayer & Mische, 1998)
    • 【メモ】Eteläpelto et al. (2013) の整理によれば,アンソニー・ギデンズの構造化理論では,エージェンシーは「現在の状況における個人の意図的で合理的な選択と行動」に限定されていた (Giddens, 1984)。これに対し,Emirbayer & Mische (1998) は時間的な次元の欠如を課題と見立て,エージェンシーの範囲を現在だけでなく過去と未来にも拡張し,「行為者による時間的に構築された関与 (temporally constructed engagement by actors)」と定義した。
    • 【メモ】関連して,教師教育研究の観点からエージェンシー概念の理論的検討を行った文献が曾根 (2025)。
  • 反復 (iteration) ≒過去
    • すでに保有している認知枠組みによる影響。
    • エージェンシーの発揮は,必ずしも変革を意味するわけではなく,従来の実践の継続という場合もある。
    • 【コメント】p. 5, 下から8行目の part experiences は past experiences の誤植でしょうか。
  • 投影 (projectivity) ≒未来
  • 実践的評価 (practical-evaluation)≒現在

  • エージェンシーを発揮するアクター
    • Zhao and Baldauf (2012):権力を持つ人々/専門知識を持つ人々/影響力を持つ人々/関心を持つ人々
    • Ball et al. (2011):学校現場における役割の複数性・流動性
  • エージェンシーの発揮は,(合理性や倫理性に制限された)完全な自由意思のみに由来するものではなく,外部要因にも制約される,社会文化的な行動能力 (capacity to act) である (Ahearn, 2001, p. 112)
  • 【コメント】エージェンシーをcapacity to act と定義してよいのかについても,検討すべきではないか。たとえば,Priestley et al. (2015) では,エージェンシー概念を (1) agency as variable, (2) agency as capacity, (3) agency as phenomenon に区別している (p. 20)。
  • しかし,LPP文献の多くは,社会現象と切り離して,エージェンシーに着目している。structure and agency のバランスが重要である (Johnson & Ricento, 2013, p. 13)
  • 【コメント】細かい指摘かもしれないが,Johnson & Ricento (2013) は,critical LPP scholarship におけるエージェンシー概念への注目の低さを問題視し,structure and agency のバランスが必要だと主張している。
  • 認識論
    • 実在論 (realism)
    • 批判的実在論 (critical realism)
    • 社会構成主義 (constructionist perspective)
    • 【メモ】読書会での他の方からのコメントに,認識論についての説明の不足を指摘する意見があった。エージェンシーを個人の属性として内在するものとして捉えるのか,社会的に達成されるものとして捉えるのか。この捉え方の違いは認識論に関係する一方で,同文献ではあまりこの点については論じられていない。

論点1:policy の定義の理解,および自身の研究での使い方について

以前の読書会でもディスカッショントピックとされてきた点だが,言語「政策 (policy)」の定義についてまず検討しておきたい。Liddicoat & Taylor-Leech (2021) (以下,「同論文」と呼ぶ)は,「イントロ」でSpolsky (2009) の ’[l]anguage policy is all about choices’ を引いていることからも明らかなように,「政策」を広義の意味で用いている。もっとも,同論文では「政策」に関する明確な定義は見当たらない。しかし,たとえばLiddicoat (2020b) では,”planning” と “policy” について次のように説明されている:

Where "planning" refers to decision-making processes and "policy" refers to decisions, principles or guiding ideas that result from some explicit or implicit decision-making process.


ここでの「政策」は,政府主体によるものにとどまらず,非政府(機関・個人)レベルでの決定や実践も含まれる。Liddicoat (2020b) は,それらの「政策」をマクロ・メゾ・ミクロのレベルで捉えたとき,それぞれの政策的位置づけ (policy positionings) の複雑さ・相互作用・対立が浮き彫りになると指摘する。


こうした「政策」の広義の解釈は言語政策研究ではむしろ「一般的」なものであり,事実,同論文で引用されている他の論文でも同様の定義を確認できる。たとえば,Bonacina-Pugh (2012) は,言語政策を,(1) declared LP, (2) perceived LP, (3) practiced LP に分類し,言語政策を単なる公式文書や言説としてではなく,日々の会話の中に現れる「実践される言語政策(practiced language policy)」を包括するものとして定位することを提案している。また,学校教育における政策と実践に着目したBall et al. (2012) でも,「政策」を法令や国家戦略に限定せず,文脈によって媒介され,組織的に具体化される動態的なプロセス (discursive process) として定義している。具体的には,「政策」には,国家レベルで策定されるものもあれば,学校や地方当局によって生み出されるものもある。あるいは,明確な始点を持たないまま,実践の中で「流行 (fashionable)」のアプローチとして伝播するものもあるとされる。こうした複数の政策が相互に連関することで,「政策の集合体 (policy ensembles)」としてまとまるとBall らは指摘する (Chapter. 1)。


一方で,以前のLP読書会でも検討したGazzola (2023) が指摘するように,こうした「政策」の多義性・曖昧性が,政策と実践の境界を見えにくくさせ,結果として言語政策研究としてのディシプリンを確立させにくくしている(とりわけ,社会言語学との棲み分けを困難にさせている)面は否めない。また,先のBonacina-Pugh (2012) の三分類を引きつつ,Van Raemdonck et al. (2024) は,「LP研究の多くがpracticed LPに注目してきた一方で,perceived and declared LP への関心は相対的に下がっている」と指摘している (p. 290)。こうした問題の背景には,「政策」の複数性への注目が重視されてきた一方で,それらを「集合体」としてみるあまり,(1) 政府レベルの政策を解釈・翻訳した結果としての「政策」と(2) 現場レベルで生成される「政策」––の2つが区別されず,混在してしまっていることが原因としてあるのではないかと仮説的に考えている。この点の対策についてもディスカッショントピックになると思う。たとえば,Khan et al. (2025) では,macro- and micro-level policies / policy implementation and reinterpretation といった用語を用いることで,この点の錯綜を軽減させている印象を受ける。

論点2:ミクロ・メゾ・マクロという区分け/それぞれの層のエージェンシー

ミクロ・メゾ・マクロに関して,三つの点から論点を提示したい。


第一に,これらの区分けの合意可能性の低さについて。これらの区分けは,政策過程の全体像を捉えるのに便利であると思う一方で,まわりの方々からの指摘もあって,最近はあまり使わないように注意している。一つ目の理由として,これらの用語をあえて使わなくても,事象を説明できることが多い。二つ目の理由として,こちらがより重要だと思うが,それぞれの定義・境界はそれほど明確に定められておらず,合意可能性は高くないと思われる。このことはLiddicoat (2020b) でも指摘されていて,たとえばマクロレベルの対象は,日本やフランスのような中央集権制だと中央政府である一方で,アメリカやオーストラリアのような連邦制だと地方や州になりうる(もっとも教育政策の場合,そう話は単純でないようにも思う)。となると,メゾレベルの対象も判然としない。教育政策を例にすれば,メゾレベルに地方自治体や教育委員会を措定する者もいれば,学校を措定する者もいるだろう。ミクロレベルについても,個人と集団のどちらに着目するのかという説明は必要であろう。


第二に,macro-micro relation およびstructure and agencyについて。同論文でも指摘されているように,LPP研究がstructure and agency を主要なトピックとしてきたことは確かである一方で,特に「政策研究」という観点において,それぞれの連関を描写する試みに成功してきたとは言い難い。具体的には,LPP研究の多くがミクロレベルのアクターの行動を過度に重視してきた結果,政策実施における個人の能力を過度に見積もる傾向がある (Johnson, 2023; Khan et al., 2025)。その典型がMenken & García (2010) である(後ほど補足)。同書は,言語教育政策研究において,学校現場における教師の主体性 (educators as policymakers) に光を当てた重要文献として広く引用されている一方で,個人的には,「政策実施研究」とはカテゴライズしにくいと感じている。その理由はいくつかあるが,特に,国家政策に対する教師の解釈や意味づけというよりも,国家政策と教師自身の「ポリシー」との対立や葛藤に分析の比重が置かれている印象を受けたためである 。結果として,政策による影響や帰結は不可視化されやすく,政策研究としての示唆を得ることが難しいことに加え,ともすればその論じ方は「政策は無力である」というメッセージと受け取られかねないと考える。こうしたstructure and agency の偏り・非接続については,既に一部の研究者により指摘されており,おおむね,構造・政策の力と個人の行動を「二項対立」的に捉えるのではなく,「弁証法」的に捉えよう,それらの「バランス」を重視しよう——という結論に収斂していると思われる (Johnson, 2023; Khan et al., 2025)。これは,論点1で取り上げた「政策」をどう定義するかとも関連するテーマであると思われる。


第三に,各階層とエージェンシーの関係について。同論文の「マクロレベルのエージェンシー」という着眼点は重要であると思う一方で,それぞれの階層の「エージェンシー」を同質のものとして捉えてよいのかについては疑問が残る。何らかの主体的な関与であればすべて「エージェンシー」に包含されるほどに,定義が広すぎる印象を受ける。特に,マクロレベルとミクロレベルを比較すれば,想定されるアクターや,アクターが置かれている状況は相当に異なる。また,エージェンシーの発揮が何を意図しているのかという点も異なる。言語教育政策に限定すれば,ミクロレベルにおけるエージェンシーの発揮は,主に教育現場における被教育者たちに向けられていると言ってよいだろう。その実態は,教育現場に応じて多様でありうる。一方で,マクロレベルにおけるエージェンシーの発揮は,主に社会制度的な構築物に向けられていると思われる。たとえば,何らかの政策やプログラムである。こうした違いからも,それぞれのレベルの「エージェンシー」を明らかにする作業は,それぞれで異なる方法論を必要とするものであるため,個人的には一括りにして論じたくないと思った。

補足

Menken and Garcia (2010) に対する他の文献での批判-

  • Khan et al. (2025) p. 3 。もっとも,Menken & García (2010) を直接に批判しているわけではありませんが,同文献を紹介した直後に,「LPP研究の一つの課題はpolicy power と actions of individual actorsのバランスだ。」「エージェンシー・構造に関する言語政策研究において,個人のエージェンシーがシステムに対する単なる抵抗として単純化されがち」と述べられています。https://doi.org/10.1080/14790718.2025.2557435
  • Bouchard & Glasgow (2019, Intro) のp. 9 で,Johnson (2013) を引用しながら次のように述べられています。https://doi.org/10.4324/9780429455834

Johnson (2013, p. 223) not only warns against the tendency to favor agency over structure but also notices "an inchoate tension between critical approaches that emphasize the inherent power of policies (e.g. Tollefson, 1991) and other approaches that focus on the power of educators and other language policy actors (e.g. Menken & García, 2010)." [...] a prioritization of agency over structure sidesteps the very historical and structural constraints upon agency in time and space (Sealey, 2000).

読書会で教えてもらった "negative agency"(あとで読む)

  • Glasgow, G. P. (2014). Teaching English in English, ‘in principle’: The national foreign language curriculum for Japanese senior high schools. International Journal of Pedagogies and Learning, 9(2), 152-161.

This response may result in ‘negative’ agency or resistance, unless policymakers invest more deeply in the realisation of their goals through closer engagement with teachers and the contexts within which they work. (p. 159)

引用文献 (同文献に記載されている文献は除く)

  • Eteläpelto, A., Vähäsantanen, K., Hökkä, P., & Paloniemi, S. (2013). What is agency? Conceptualizing professional agency at work. Educational Research Review, 10, 45–65. https://doi.org/10.1016/j.edurev.2013.05.001
  • Gazzola, M., Gobbo, F., Johnson, D. C., & Leoni de León, J. A. (2023). Epistemological and theoretical foundations in language policy and planning. Palgrave Macmillan. https://doi.org/10.1007/978-3-031-22315-0
  • Johnson, D. C. (2023). Critical empirical approaches in language policy and planning. In Epistemological and Theoretical Foundations in Language Policy and Planning (pp. 15–40). Springer International Publishing. https://doi.org/10.1007/978-3-031-22315-0_2
  • Khan, M. Y., Abdul Manan, S., & Channa, L. A. (2025). Structure and agency entanglement: contextualising the macro–micro dialectic in the multilingual language education policy in Balochistan, Pakistan. International Journal of Multilingualism, 1–18. https://doi.org/10.1080/14790718.2025.2557435
  • Van Raemdonck, M., Tyler, R., Van Avermaet, P., & Vantieghem, W. (2024). School actors navigating between implementor & arbiter – a qualitative study on the dynamics in multilingual schools’ language policy. Current Issues in Language Planning, 25(3), 285–305. https://doi.org/10.1080/14664208.2023.2283654
  • 曾根杏樹 (2025)「教師の職能発達における主体性とその保障条件に関する理論的検討:成人学習論と欧米における教師agencyに着目して」『日本教師教育学会年報』34, 112–124.

【お知らせ】ポッティーについて

愛犬ポッティーが、2026年2月13日(金)午前10時ごろ永眠しました。16歳でした。


ちっちゃかった頃も、おじいちゃんになってからも、たくさんの方々にかわいがってもらいました。名前を覚えてくれたり、わざわざ会いに来てくれる方もいて、たくさんの方々から愛された自慢の犬でした。私にとっては、弟のような存在でした。こちらは研究用のブログですが、他にお知らせする方法もあまりないので、ここでご報告させていただきます。

私のトプ画や待受の大体はポッティーにしていて、このままだとあまりにもつらいので、少しずつ変えていこうと思います。ただ、このブログのアイコンはそう毎日見るものでもないので、このままにしたいと思っています。ポッティーに会いたくなったときに、ブログを見たり、書いたりしようかなと。これから頑張って生きるから、そこから見守ってて、という思いも込めて。

3日間、ゆっくり休んだので、そろそろ再始動します。明日からまたがんばろう。

以下は、自分の気持ちを整理するために書いた雑記です。自分用に書いたものですが、家族、親戚、ポッティーに近しかった友人向けにも限定公開しておきますパスワードが知りたければ、遠慮なく連絡してください。
sudos.hateblo.jp

【読書メモ040】『激動の英語教育政策は「誰が」決めたのか』(青田, 2025)序章~第2章

こちらの読書会で検討中の文献(現時点で第3回まで終了。残り3回の開催を予定):

sudos.hatenablog.jp

これまで読書会に参加させていただくことはあったが,主催するのは初めてで,いろいろ試行錯誤しながら進めております。幸いにもたいへん豪華な参加者に恵まれ,また,著者の青田さんにもご参加いただき,とても充実した有難い時間を過ごすことができています。以下,読書会時に作成した簡単な読書メモを備忘録として掲載しておきます。続きの第3章以降については,読書会で検討した後に,振り返りとして後日載せていこうと思います。

なお,2026年2月12日現在,読書会はまだ開催中ですので(2月に1回,3月に2回開催予定),ご関心のある方はぜひご連絡ください。

本書は英語教育政策に関する希少かつ重要な研究成果である。特に,政治学・行政学・教育学の知見を渉猟しつつ,政策過程の多元性に迫ろうとする点に非常に感銘を受けた。私自身,教育学(特に教育政策・学校経営)の分野に身を置き英語教育政策を研究しているなかで,当該領域の学際性にいかに立ち向かうかという課題に,かなりの困難や葛藤を抱いてきた。そのなかで,本書の出版は大きな励みになるし,本書の検討を通じて多くの学び・示唆を得ることができた。本書へのリスペクトを前提としつつ,以下,コメント・雑感を記していきたい。
※ 【追記】は,読書会で他の方からいただいた情報や示唆を記したもの。私の理解不足や誤解が含まれている可能性もありますが,その点はご了承ください

序章 「反-反権力」の英語教育政策

超トップダウン

さらに近年では,政党や政治家等が英語教育に強く関与していると思しき例が多数指摘されており,従来の学習指導要領を頂点としたトップダウン型の政策理解が書き換えられつつあるとも言える。それはつまり,「政治家」や「財界」を学習指導要領や政府の「さらに上」に想定した超トップダウン的な見方である。(p. 2)

  • 「超トップダウン」はきわめて印象に残る言葉である一方で,十分にその意味が理解できない。(1) 「さらに上」とはどのような意味か。学習指導要領や政府にも影響を及ぼすほどに強力ということか。(2) 英語教育への「関与」とは具体的にどのようなことを指すのか。政策形成過程への関与か? 教育実践への関与か? あるいはもっと抽象的な,英語教育に関する社会的空気のようなものに対する関与か? 
  • 個人的には,「トップダウン」「超トップダウン」というより,「ロジックの異なり」に近いもののように思う。

「英語教育」と「教育政策」研究の隔たり

では,「英語教育政策」という概念を構成する,「英語教育」と「教育政策」のそれぞれを研究分野として見た場合,両者の間にはどのような隔たりがあるのだろうか。その1つとして,両者は「教育」という概念を共有しつつも全く異なる2つの学問体系に位置づけられる傾向があり,そもそもその存在や営為が相互にあまり認知されていないという可能性が考えられる。例えば,研究分野を分類する際の1つの目安として,(後略)(p. 19)

  • 「英語教育」と「教育政策」研究の隔たりは,きわめて重要な論点だと思う。私自身,ここ2~3年似たようなことを常に考え続けてきたので,問題意識として非常に強く共感する。
  • 一方で,率直に言えば,その説明に物足りなさを感じた (もっとも,この問いに対して私自身も明確な答えを持っていないが…)。「例えば…」のあとにつづく説明にある,「人文学と社会科学の断絶」はあくまで制度的な区分であり,ディシプリンや研究動向の違いを説明するものではない。どちらかといえば,英語教育研究と教育政策研究の特徴をそれぞれ整理する方が無難であるように思う。本書を読み進めていけばもう少し輪郭が見えてくるのかもしれないが,この時点ではまだ腑に落ちない。
  • 私の経験にはなるが,教育学 (私の場合は主に学校経営・教育経営) の研究者に対して「英語教育政策を専門としています」と自己紹介すると,「え? じゃあなんでここ(=学校経営学研究室)にいるの? 英語教育の研究室に行けばいいじゃん」ということをよく言われる。「いやいや,英語教育では政策に関する研究はめっちゃ少ないんですよ… 心理学系の研究が多くてですね…」ということを言わないと,境遇を全く理解してもらえない(事情を話しても,あまり理解してもらえない。もちろん,私の説明の問題でもあるが)。逆に,英語教育を専門とする人はこの辺の事情をよくわかっているので,「英語教育政策の研究をするために,英語教育系以外の研究室に所属する」という境遇を理解してもらいやすいように思う。こういった事情から,個人的には,想定読者・オーディエンスに英語教育研究者のみならず教育学系の人も含まれる場合,上記のような事情をまず伝えた方が良いと思うようになった。幸い,英語教育研究に関するトレンド分析は既に蓄積があるので (例,寺沢, 2023),上記の英語教育研究バイアス(政策研究の少なさ)を論証することはそれほど難しくない。また,教育政策研究やカリキュラム研究に,「教科教育と政策」の関係を論じた研究がそう多くない点は,賛同が得られやすい点だと思う。

「説明モデル・規範モデル」「政策内容・政策過程」

  • p. 20 荻原 (2010) による四象限の整理はわかりやすいと思う一方で,「政策過程」を一括りにしすぎな印象も否めない。つまり,政策の「形成」「実施」「評価」を区別しないと見えてこないものもあるのではないか,と個人的には思っている。この点は教育政策研究に対しても抱いている問題意識。
  • この点については,2026年3月に公開予定の論文でもう少し細かく言及しました。後日ココにリンクを貼ります。

本書の位置づけ

従来の研究においては,学習指導要領等が主な研究材料であり,それらを直接的に学校と結び付けて直線的にもしくはトップダウン的に捉えることが一般的であった。(p. 24)

  • ここで想定している先行研究 (p. 24 の図0-1 の左側) には,具体的にどのような研究が挙げられるのだろうか? 個人的には,英語教育政策に関する研究のなかで,学習指導要領を対象とする研究は確かに多いと感じる一方で,「それらを直線的に…捉える」研究はあまり思い浮かばない(そもそも,英語教育政策に関する研究が不足していることもあり)。
    • p. 24 の図0-1 について付言すれば,この図は本書が批判する「慣例的な見方と本書が目指す見方」がわかりやすく表されていると思う一方で,後者の図(本書が目指す見方)について,それぞれの要素を同レベルのものと扱ってよいのかという疑問も残る。具体的には,(1) それぞれの要素が及ぼす影響は同じ大きさの矢印で示せるものなのか,(2) たとえば「他教科」や「技術革新」による影響を一括りに検討することに困難はないか。かなり性質の異なる論点が並べられているようにもみえる。
  • 上記の点を十分に理解できていないこともあり,私の読解力の問題でもあるが,本書がどのような点で先行研究を「乗り越える」ことを試みているのか,十分に把握できていない。
  • 【追記】この点について,想定している先行研究は主に,水野 (2008) や江利川 (2009) というご回答を読書会にていただきました。

1章 英語教育に対する政治家の関心

  • 「英語教育にとって政治家はどのような存在だろうか」 (p. 35),「政治家がなぜ英語教育に影響力行使をするのか」 (p. 37) という論点は斬新で,興味深く拝読した。立法府における英語教育政策の形成過程に関する貴重な研究。

方法論について

  • 本章が参考にしている橋本 (2014) にも当てはまるが,発言回数=「影響力」という指標の妥当性は議論の余地があるかと思う。「政治家の発言は政策決定に無縁ではない」(p. 61) ことは確かだと思う一方で,「影響がある」「関係がある」ことを示すことは簡単ではなく,工夫が必要かと思われる。
  • 「影響力」という言葉からは,「何に」影響したのか,「どれくらい」影響したのかという問いが連想される。しかしこの後の分析結果を見る限り,発言内容の頻出語の分析が主であり,政策・施策との関りは議論の射程に含まれていない。「影響力」というよりも,「関心」,あるいは橋本 (2014) の表現を借りれば「コミットメント」あたりが無難ではないか(もっとも,橋本文献では,「コミットメントと影響力」をほぼ同じものとして捉えているような記述もあるが (橋本, 2014, p. 68))。要するに,英語教育政策に関するトピックの世間的関心の系譜の一側面として,国会の発言に着目するという方針の方が,上記のような批判はかわしやすいかと思われる。
  • 仮に(上記の私が勝手に定義した)「影響力」を分析するためには,やはり具体的な政策・施策との関連に注目せざるを得ないと思う。たとえば,小学校英語必修化,大学入試への民間試験導入など。また,具体的な政策・施策への「影響力」という観点からすると,国会以外の要素にも注目する必要があると思う(それが何なのかについては,ディカッショントピックになれば…)。国会で議論されるのは国家政策にとって象徴的な政策が主であり,英語教育に関する特定の政策を分析することには限界があるように思われる。
  • 関連して,『政策会議と討論なき国会』(野中・青木, 2016) の以下のような指摘。こうした指摘からも,国会の「影響力」を論じることは,なかなか難しいように思う。

結局のところ,衆議院において「討論」がきわめて不活発なのは,かなりの部分,与党議員が審議活動への参加にきわめて消極的であることに関連しているようである。野党からすると,討論をしようにも相手方がいないという状況に近い。しかも,そうしたやり方を長年にわたって続けてきた結果,もはや討論のための「制度的な土俵」が消え失せてしまっているようである。(p. 170)

  • 参考までに,橋本文献に対する他文献による批判:

議員の属性分析や議事録のテキストマイニングは,断面を切り取った静的なものになりがちであり,政策形成過程を動的,立体的に描きにくい。筆者のような立法府経験者からみると,立法府の政策形成過程には興味深い事例が少なくない。しかし,すでに指摘されているように,与党による事前審査,議員連盟による議論などを経て,閣法の形で提案される法案が多いため,国会の委員会や本会議だけを見ていても,政策形成の核心に迫れないことも事実である。(小林, 2019, p. 71)

  • 【追記】読書会では,国会における発言の「影響力」は,「国会が存在しない」状況を反実仮想的に想定することで把握しやすくなる,というご指摘をいただいた。具体的には,国会が存在するからこそ,英語教育に関する施策に問題があるとして世間の注目が集まった場合,それが国会で取り上げられ,政策推進に対する牽制として作用しうる(あるいは,そういった潜在可能性も抑止として働きうる)。また,国会での発言や決議等が根拠(裏どり)として参照されることで,政策・施策の推進に正当性が付与される可能性もある——というように,「影響力」の定義をかなり緩く捉えるという視座。

1章および全体にも関わる論点として

  • 乱暴な問いかもしれないが,「政策形成・決定にいろいろなアクターが関与している」ことを示した先に,何があるのか,何を論じることができるのかを議論してみたい。1章の分析をもとに,考察パートでは「様々なアクターと相互に理解を深める方途を探る必要がある」(p. 212) と記されていて,いろいろ考えさせられた。「相互に理解を深める」ことが具体的にどのようなことを意味し,それがどのように可能なのか。そもそも,「相互に理解を深める」ことを本当に目指すべきなのか(公共政策的あるいは教育的な観点から)についてもディスカッショントピックになるかと思う。

2章 事例分析Ⅰ:小学校英語における英語教育の必修化

外国語専門部会

  • 「必修 vs. 非必修 (事実上の必修)」という論点と,「教科 vs. 領域 vs. 総合学習」という論点。『小学校英語のジレンマ』(寺沢, 2020, 4章)で指摘されているように,外国語専門部会の委員が必修化賛成派で固められていた点は押さえておくべき。加えて,座長の中嶋嶺雄氏が必修化推進派であった点も留意しておくべき。必修化に懐疑的な論者が多数いたことを踏まえれば,人選がコントロールされていたことは明らか。
  • 【追記】一方で,読書会では,小学校英語の必修化や教科化を否定する声は,当時,むしろ少数派だったのではないか,という指摘をいただいた。事実,小学校英語の必修化・教科化を求める保護者の声は強かった(後述)。また,学界の動向に目を向けても,たとえば『どうする、小学校英語?』(大津・亘理, 2024)から確認できるように,当時の改革に批判的な研究者・教育関係者が一定数いたことは確かである一方で,こうした否定派がどれくらいの割合を占めていたのかは判然としない。この点について,賛成派に近い動向の一例として,小学校英語の教科化を支持する学会の提言があったとの情報を読書会ではいただいた(例,全国英語教育学会・小学校英語教育学会の共同提言(2014年8月11日)大学英語教育学会の提言(2016年6月1日))。ただし,これらの提言を実際に読んでみると,小学校英語の教科化を明確に支持するというより,改革の進行を所与としたうえで,その実施条件(環境整備)に関する提言を行っている文書であると率直には思われる。このスタンスが,小学校英語の教科化への支持を間接的に表すものなのか,それとも,教科化が既定路線とされている状況を見越したリスク低減(いわば「苦肉の策」)なのかはよくわからない。JACETは時期的に,後者かと思われるが……この辺の事情に詳しい人にぜひ教えてほしい。
    • と思っていたら,寺沢 (2020) 5章でちゃんと言及してくれていた:

2014年夏には,小学校英語教育学会・全国英語教育学会が合同で「(中略)提言」を出している。同提言は,前年に政府から示された早期化・教科方針を受けたもので,英語教育改革についてひとまず歓迎の意思は表明しつつ,改革の基礎となるべき条件整備を国に訴えている。先の日本児童英語教育学会のアピールと異なり,具体的な提案をしているわけではなく,むしろ,当時すでに既定路線になりつつあった(と少なくとも学会関係者には認識されていた)早期化・教科化に対し,一定の理解を示しつつも,慎重な配慮を求めている。/以上をまとめると,いずれの学会も,政府の小学校英語推進の方向性に少なくとも一定の評価を示し,そのうえで条件整備等にいっそうの尽力を求めている。(pp. 127-128, 下線は引用者)

「財界による影響」の論証可能性

しかしながら,小学校英語必修化が経団連提言の「丸呑み」であったとまで言うには根拠が乏しいと言わざるを得ない。まず,経済界からの同種の要望は少なくとも1970年代以降から断続的に発表されてきており,2000年の経団連提言のみが政策の推進に有効に作用したと論証するのは困難である。「経済界の要望があったため政策が推進した」のであれば,他の要望も同じように政策を推進していなければ論理が通らなくなる。たまたまこの提言のみ有効だったとしたらその理由は何だろうか。この点がクリアにならなければ,経済界の提言を促進要因とすることは困難である。(p. 69, 下線は引用者)

  • この点,大学入試への民間試験導入は論証材料が豊富だと感じた。一例を挙げれば,「産業競争力会議」に加えて,「英語教育の在り方に関する有識者会議」の委員でもあった三木谷氏が筆頭となり,経済同友会の「実用的な英語力を問う 大学入試の実現を」([L](https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/2013/pdf/130422a_01.pdf)) という2013年の提言を発表し,TOEFL導入を訴えた件など。
  • こうした財界の影響力が政策形成に顕著にみえるようになったのは,特に2010年代以降と言えるだろう。2013年の教育再生実行会議で委員15名のうち企業経営者が3名を占めた件然り,先の「英語教育の在り方に関する有識者会議」で委員11名のうち企業経営者が2名を占めた件然り。なお,先の外国語専門部会で企業経営者は0名。
  • そのため,青田本で指摘されているように「非必修→必修」で経済界の具体的な政策形成への関与を論証することは困難であるとしても,「領域→教科」に関しては論証可能であると思われる (寺沢, 2020; Terasawa, 2022)。 なお,Terasawa (2022) は,この点について,「政策の窓モデル」を用いて実証している論文で参考になる。

保護者の要望 (p. 69)

  • 保護者の要望については,ベネッセ教育総合研究所・朝日新聞社の共同調査ですでに明らかにされている。寺沢 (2020) 5章 に詳しい。
  • 個人的には,保護者の要望に応えて「必修化」や後の「教科化」が進められたという見方よりも,その推進の正当化の理由としてうまく使われたという説明の方がしっくりくる(異論は受け付けます)。「小学校の外国語活動を必修化すべきか」や「小学校英語を教科化すべきか」という質問の仕方はフェアじゃない。
  • 【追記】関連して,読書会でも論点として上がったのが,本章における小学校英語必修化の「要因」や「影響」に関する定義や方法論(上述の第1章の論点とも関連)。ここでの「影響」には,ディスコースレベルのものも含まれるのか否か,など。

【読書メモ039】アイスナー (2024) 序章~3章

書誌情報:エリオット・W・アイスナー (2024)『啓発された眼:教育的鑑識眼と教育批評』(池田吏志・小松佳代子 訳)
(The Enlighted Eye: Qualitative Inquiry and the Enhancement of Education Practice* (Eisner, 1991) )


現在,週一の読書会で検討している文献。どちらかといえばマニアックな文献だと思うのでそれほど参加者が集まらないかと思いきや,10名ほど集まってちょっとびっくり。果たして11章までわれわれの体力はもつのだろうか…… 現在,3章まで終了。個人的には,ここまでのなかで第2章と第3章がかなり読みごたえがあって,本書の半分にも到達していないのに既に知恵熱を起こしている。ひとりで読んでいたらここで割と満足していったん積読に戻していたかもしれないが,読書会があるおかげで読むモチベーションが維持できていて,とてもありがたい。

ここでいったん記録としてメモを転載しておこうと思う。

本書の選定理由

  • 質的研究について,教育 (学) の特性を踏まえた議論をずっとしてみたかった。また,アートベース・リサーチについても関心があったので,その点も勉強してみたかった。本書の解説から引用すれば,「エビデンスに基づいた客観的真理を目指す従来の社会科学研究に対して,アートを研究に組み込むことによって,単一的で正統的な見方だけでは捉えきれない事実を理解する新たなアプローチ」(p. 430),「あらかじめ目標を設定してそこへ向かって学習を進めていくのではなく,学習活動のなかで目標が見いだされ,「表現的成果 (expressive outcome)」が得られるような教授-学習活動の質を評価することを目指した」(p. 433) あたりの記述が,特に政策実施過程研究に関心のある自分にとっては共感できる点が多い。
  • 授業に関する質的研究法の記述が多めかもしれないが,質的研究や方法論・認識論について広く議論できる文献だと思う。たとえば第9章「質的事例研究には教訓があるか」は質的研究と一般化の問題を論じていて,けっこう議論が盛り上がりそうでとても楽しみ。

序章

引用メモ

本書の目的

本書における私の目的は,芸術,人文科学,社会科学の方法,内容,仮説を使用し,学校や教室をよりよく理解するために利用する方法を探求する (explore) ことである。私の目的は,教育における探究 (inquiry) の考え方を広げ,「知る」ことの意味に関する見解を拡張することである。しかし,私の最終的な目標はそれだけにとどまらず,教育の改善に資することである。(p. 3)

1章 質的思考と人間理解

引用メモ

質的研究の認識論をめぐる問い

『死を急ぐ幼き魂』を本当に研究と見なすことができるのだろうか。そのような著書の妥当性はどのようにして検証できるのだろうか。その信頼性はどうやって判断されるのだろうか。その主観性はどのように評価されるべきなのだろうか。結局のところ,研究とは意見の問題であり,意見は知識と同じなのだろうか。(p. 23)

改革疲れの末の「受動的な抵抗」(注だが,なんかグッときたので引用)

教育現場の悩みの一つに,実践を改善するためのアイデアが次々と打ち出され,忘れ去られることがある。3~4年ごとに,一見難解に見える教育問題に対して,新たな「解決策」が発見される。そのような処方箋が出てくると,教師はその新しい方針に従うことが期待される。結局,ベテランの教師たちは,新しい流行を無視して乗り切ることを学び,おおよそ彼らがいつもしてきたことをやり続けることになる。何が提供されているのかにはほとんど関心がなく,過去に提供されたものでほとんど成功したことがないため,彼らは,受動的な抵抗こそが,変化する教育の流行に対処する効果的な方法であることを学んでしまっているのである。(p. 41)

コメント

pp. 19-20 「一般化」について
  • 序章のpp. 9-10 でも感じたことだが,本章における「一般化」,「一般的」という用語の使い方が気になる。原文を確認したところ,基本的にすべて generalize / general。
    • 「個々の事例の研究は一般化することができる」(p. 19) (generalize)
    • 「アドバイスはあまりにも一般的」(p. 20) (general)
  • 上記の「一般的」「一般化」は,それぞれで意味が異なるように思える。転移可能性みたいな意味で使っていたり,脱文脈的みたいなニュアンスで使っていたり。私が気にしすぎなだけなのかもしれないが,第9章で「一般化」を主題としていたり,序章でも鍵概念の一つとして扱っていることもあって,これらの用語の使われ方に敏感になってしまう。このあたりの含意は第9章を読めばわかるのだろうか。
  • (3章まで読んだうえでの加筆:)3章まで読んだうえであらためてこの点について考えるなら,ここでの「一般化」を量的研究でいう「一般化可能性」や「代表性」と明確に区別して捉えるべきかと思われる。おそらく,共感可能性や了解可能性のような概念に回収されるのではないかと予想している(第9章を読んでいないので仮説でしかないが)。だったら,なおのこと,上記のような概念を一括りに「一般化」と呼称するのではなく,用語を使い分けることも検討すべきではないだろうか。この点については,第3章や第9章であらためて検討したい。

2章 何が研究を質的にするのか

引用メモ

質的研究の六つの特徴 (pp. 54-68)
  1. 現場を重視する傾向
  2. 道具としての自己;「自己とは,状況に関与し,それを理解するためのツールである」(p. 57)
  3. 解釈的な性質
  4. 表現的な言語の使用と文章に声が存在すること
  5. 個別性への関心
  6. その成功を判断する基準:一貫性・洞察力・道具的有用性
質的研究と「説得」(法廷をアナロジーとして)

法廷とは,裁判の勝敗を決する場であり,そのための手段は多くの場合,さまざまな種類の証拠に訴えるが,単一の結論に明白に至ることはめったにないような,論拠に基づく議論である。曖昧さ,状況,代替的な見解,証拠を解釈する他の方法,その他の証拠が常に存在している。法廷での弁護士は,無実の判決を求めて陪審員を納得させるような証拠を集め,自分の論証を構築しようとする。そして,敵対者はその逆を求める。多くの点で質的研究は,説得しようとする努力において似ている。(p. 67)

コメント

p. 47 ディシプリンと認識論
  • 「それぞれの学問分野は,独自の関心事を定義し,独自のカテゴリーを採用し,独自の目的を特定し,そうすることで,独自の世界を創造している」(p. 47)
  • ディシプリンごとに認識論・方法論・理論が一定程度共有されているからこそ,研究者間での合意可能性を確保しやすくなることは言うまでもない。一方で,それは見方を変えれば,ディシプリンごとに認識論・方法論が偏りやすい可能性もはらむ。たとえば教育社会学研究のバイアスを指摘した研究として仁平 (2024) が挙げられる*1
  • 関連して,こんなサイト・文献もみつけたので,備忘録として:
  • ちなみに,読書会での「方法論」や「認識論」の定義は,野村 (2017) を参考文献として紹介し,一定の共通理解を図っている。第1回の読書会終了後に,参加者の一人から,「方法論・認識論の定義や理解が参加者間でばらばらで,若干話が嚙み合っていないときがあった」という指摘を受けて,もっと丁寧に前提を共有しておくべきだったと反省(読書会をうまく主催・運営するうえで,こういった概念整理の重要さを痛感した)。ちなみに野村文献は筑波大学大学院の教育社会学の授業でテキストに使われていることもあって,半数ほどの参加者が既に読んでいた。note 記事も紹介してもらった:
  • こうしたディシプリンごとの「独自の世界」の創造に対して,昨今の「学際性」の奨励はどのような意味を持つのか。もちろん,隣接領域の方法論・理論を取り入れることで新たな学術的価値の創造や分野の進展につながる可能性はある。一方で,理論・概念の借用・輸入に対して,方法論的・認識論的な整理が追い付かない限り,学術的混沌をもたらしかねない(この点については,昨年参加させていただいたGazzola (2023) の書評共著論文から得た示唆が大きい。言語政策研究の認識論・方法論について検討した書評論文:本林ほか (2025))。
p. 54ff. 質的研究の六つの特徴
  • ディスカッショントピックとして,とてもありがたい。このネタだけでもずっと議論できそう。
  • 2つ目の「解釈」について,政策研究を専門とする身としては,この点の認識論・方法論的な違いが,政策の実施過程に着目するか,政策の因果効果に着目するかの違いだと考えている。
  • 「そのコミュニティはどこに由来するか。それはどのように変化してきたのか。どちらの方向に向かっているように見えるのか」(p. 61) といった文化や風土に注目する視点は,学校経営研究でも重視されている点だなぁと。
  • 6つ目について,質的研究における知見の「何が重要であるかは,判断の問題なのである」(p. 66, 太字は引用者) という指摘は,個人的にすごく腑に落ちる。質的研究を判断する際に依拠するものは,「「重み」や一貫性,解釈の妥当性」(p. 66) ——これらの用語(特に前者2つ)の多義性についても議論する必要はある——と書かれており,突き詰めればそれは(飛躍していることを承知のうえでいえば)「論文や研究全体を通しての著者に対する信頼」とも言い換えられるだろうか。上記で引用したp. 67 の法廷のアナロジーもすごくわかりやすい。この点については第3章でも検討したい。

その他

p. 55「自然主義的」「対象とする文化の中の人々から見えないようにしたい」
  • 一読した際は意味がよくわからなかったが,後の文脈から察するに,参与観察における「参加」「関与」の度合いのことを指していると理解した。

3章 質的研究と評価における客観性と主観性

引用メモ

パラダイムは唯一でなくてよい

多くの視点で最終的に首尾一貫した統合を達成するというより,知的に多才であること,あるいは理論的に折衷的であることが重要である (Schwab, 1969)。すべての視点を単一の正しいものに還元するというよりも,むしろ一連の異なる視点として複数の見方を扱うことができることが重要なのである。(p. 83)

コメント

p. 80ff 主観性の美徳と多面的な視点
  • 「主観性には美徳はあるのか。主観性は一つなのか、または多数あるのか」←以降の記述を理解・検討するうえで,留意しておくべき重要な問いだと感じた(というより,何回読んでもまだ十分に理解できていないので(特に前者の問い),頭にとどめておきたい)。ちなみに「美徳」の原語は "virtue" だったので,「徳」とか「有徳」のように訳すことも可能なはず。「美徳」にしたのは,たぶんアートベースリサーチとの関連を意識してのことかと推測。「美徳」が何を意味するのか,言いたいことは何となくわかる気がするが,まだすとんとは落ちない。徳認識論との関連を連想したが,本文中にそのような言及はないので,妄想の域を出ない。
p. 82 多面的な視点
  • 「私たちは多数の主観的な自己を持ってい」て,「どの自己が前面に出てくるかは,私たちが置かれた状況によって異なる」(p. 82)
  • 「重要なことは,視点が変化することであり,私たちが選択する,あるいは使わざるをえないものは,そのときの文脈の特徴と関わっている」(p. 82)
  • たとえるなら,ビースタのエビデンス信仰批判 (例,ビースタ, 2024) に賛同しながら,他方で,EBPMやEBEの重要性にも賛同するという両論併記——と理解したら勝手に納得した。
  • 自分を棚に上げるような言い方ではあるが,一方の視点に偏り他方の視点を一切受け付けない言説や発言にはけっこう遭遇する(e.g. 数字じゃ教育は語れない!/それって一般化できるんですか?)。その人なりの考えがあるのだとは思うが,本書で指摘されているように,「そのときの文脈の特徴と関わって」(p. 82) 選択すべき視点が変わる——と言われた方が個人的にはしっくりくる。
  • たとえば亘理 (2020)*2 の説明を借りれば,政策の因果効果を示す「エビデンス①」とエピソード記述的な「エビデンス④」は,どちらも重要であり,かつそれぞれ固有の限界を有するからこそ,相補的に共存可能である(番号は亘理論文から借用)。エビデンス①は,政策の意思決定における透明性の確保や予算投資の妥当性,合理性の担保をはかるうえで重要である。ただし,エビデンス①は普遍的な知では決してなく,あくまで確率的な因果推論にもとづくものである。つまり,どれほど頑健なエビデンスであろうと,意図した帰結を必ずしももたらすとは限らない。実験室環境とは異なり,現実は複雑で不安定だからだ。また,教育実践にかかわる複雑な事象の相当部分が指標化に乗りにくい以上,エビデンス①は現実理解のごく一側面にすぎない。だからこそエビデンス①「が実践をどのように切り取っているかを批判的に吟味することが求められる」(p. 6)。こうした計量化に馴染みにくい側面に光を当てるのがエビデンス④である(アイスナー文献が拠り所とする認識論に近い)。それは,個別的な現象の把握を主眼とするものである。もちろん,エビデンス①のような標本代表性は担保されないものの(そもそもその土俵で戦っていない),因果推論では不可視化される教育のプロセスやダイナミズムに目を向け,教育の価値や規範の問い直しを図るもので,それは教育 (学) の根幹を成す知とも言えよう。
  • そんな話をしていたところ,参加者の一人から,「各自がもっている認識論って一貫しているものだと思いますか? それとも何かを学んだり経験に応じて変わっていくものだと思いますか?」みたいな質問があがった。この質問は,野村 (2017) の次の記述を背景としている:

ここで強調したいのは,存在論や認識論的立場は,その場その場で変えられるものではなく,また併用できるものでもないという点である。Furlong and Marsh (2010) の言葉を借りれば,それは「皮膚」のようなものであり,すぐに着替えられたり,重ね着ができたりする「セーター」ではない。したがって,同じ著者が同一の論文内や短期間に使い分けができるものではなく,そうした試みは自己撞着に陥っているとみなされてしまう。そのため,存在論や認識論について学ぶことでこうした問題を回避する必要がある。(p. 11, 下線は引用者)

  • 先の質問は,野村文献における,存在論や認識論的立場=「皮膚」というアナロジーを受けてのものであった。個人的には,かねてより「皮膚」はやや言い過ぎではないかと考えていた。先述のように,リサーチデザインにおいていかなる存在論・認識論的立場を取るかは研究の目的や対象に応じて変わりうる。そのため,研究のウィングを広げていけば,むしろ特定の存在論・認識論に限界が生じてくることもあるだろう。「皮膚」というアナロジーは,あまりにも固定的な印象を与えてしまうのではないか——と読書会では発言したのだが,このブログを書いているうちに,考えが変わってきた。考えれば考えるほど,「皮膚」というアナロジーは言い得て妙であるように思えてきた。
  • 第一に,皮膚も「不変」ではない。特に表皮の入れ替わりは数週間程度で行われる。一方,真皮の入れ替わりにはかなりの時間を要するものの,ゆっくりと新陳代謝を繰り返し,最終的には皮膚の強さ・弾力・厚み・質感の変容をもたらす。この説明は,認識論の変容・習熟にそのまま当てはまるだろう。認識論・方法論は,研究の初期からその重要性を理解できる人は多くなく(少なくとも私はそうだった),研究を進めていくうちにじわじわと気づいていくものだと思う。さらに,それに習熟するためには,とにかくたくさん勉強しないといけない。私自身,まだまだ勉強が足りているとは到底思っていない。だからこそ,こうして読書会を企画したりしてモチベーションを高めて,がんばって勉強しようとしているわけだ。そうやって徐々に身に染みていくものなんだと思う(そう思いたい)。第二に,その変容の過程で「炎症」が発生することもある。個人的な例で恐縮だが,学部生時代にSLA研究を学び,卒業論文等では言語習得メカニズムに話をとどめておけばいいものを,その知見を教育的示唆なり,政策的示唆なりに無理やり結び付けて発言したり書いたりしていた。その後,政策学を学び,統計学を学び,統計的因果推論を学び,教育学を学んでいくうちに,そうした所業がいかに不誠実であったかを痛感した。「真皮」の認識論的変容は,得てして自身の価値観や考え方が揺さぶられる過程を経るため,こうした「痛み」を伴う場合が多いのではないだろうか。
  • そもそも,野村文献では,認識論・存在論について,「同一の論文内」や「短期間」での使い分けが不可能であると指摘している。つまり,研究者自身が複数の認識論・存在論を保持しそれを行き来することを否定していないし,時間をかけてしっかりと勉強していけば,それらを適切に使い分けることも可能であるという主張として解釈できる。「皮膚」は,もちろん単なる比喩なので限界はあるが,認識論に習熟することが決して簡単ではないこと,時間を必要とすることを伝えるという点ではやはり素晴らしいアナロジーだと思う。
  • 蛇足だが,上記のような方法論に関する事項は,大学(学部・大学院)の授業でなかなか扱われないよね,という話も出ました。確かに私の場合も,方法論や認識論については,独学や読書会を通じてなんとか学ぶ機会を確保してきた気がする。
p. 89ff. 相互生成の根拠の評価基準:一貫性,合意,道具的有用性
  • 評価基準の3つの内,一貫性と合意は論証(本書の言い方を借りれば,「合理性」や「正しさ」)にかかわる要素であるのに対して,道具的有用性はどちらかといえば,当該研究の意義や価値にかかわる要素という点で他二つとの若干の異質さを感じた。

【余談】:筒井 (2021)

本章を読んでいて,3年ほど前に読んで挫折した 筒井 淳也 (2021).『[社会学: 「非サイエンス」的な知の居場所]』岩波書店. という本の理解が少しだけ進んだ気がした。もう一度,じっくり読んでみようかなぁ。以下,備忘録として,重要箇所を引用:

  • 本書は「科学的なアプローチと社会学的なアプローチを対照的に捉え、前者は距離化戦略、後者は反照戦略を取っていること、さらにそれぞれの戦略がどういう場合に有効になるのか」(p. 161)を論じている。

距離化戦略は抽象的理論や数量データによって対象から距離を取る方針で、対象の同質性(類似性、変化の少なさ)が見込める場合に有効である。他方、反照戦略はあえて対象から距離を取らず、対象とのやり取りを行い、対象から問いや概念を『受け取る』ことをいとわない方針で、対象の異質性(多様性、変化の多さ)がある場合には有効である」(p. 161)。

多くの学術的研究は,この2つ(引用者注:距離化戦略と反照戦略)の中間に位置づけられる。ここで強調しておきたいのは,これは自然科学と社会科学を横断したグラデーションなのであって,「自然科学が斉一性を想定した距離化戦略で,社会科学はその反対」というわけではないということだ。自然科学でも現象の斉一性を想定できない分野があり,そういった分野では演繹や実験,因果推論といった手法の比重が小さくなる。社会科学でも斉一性が想定される場合(心理学や経済学ではそうであろう),演繹的推論や実験,因果推論の比重が高くなる」(p. 110)


*1:仁平論文については,以前ブログを書きました:sudos.hatenablog.jp

*2:以前,読書メモを作成しましたsudos.hatenablog.jp

【読書メモ038】学校選択制は学校の「切磋琢磨」をもたらしたか (濱元・中西, 2023)

書誌情報:濱元伸彦・中西広大 (2023)『学校選択制は学校の「切磋琢磨」をもたらしたか:大阪市学校選択制の政策分析から』八月書館

大学院で聴講している授業がきっかけで読んだ文献。たいへん勉強になった。第1章の日本における学校選択制に関する政策の変遷と先行研究の整理だけでもかなりの読み応えがある。いつもほどの分量ではないが,プチ読書メモを残しておこうと思う。

「切磋琢磨」の理論の課題

  • 2010年代に大規模な学校選択制が展開された大阪市を事例として,その実施に至る政策形成過程や実施状況および成果を明らかにすることで,「切磋琢磨」の理論の検証を目的とする文献。
  • 「切磋琢磨」の理論とは,「学校選択制による保護者の学校選択の機会提供やそれによって築かれる学校間の競争 (すなわち、疑似市場的な環境) が学校の教育改善を動機づけるという考え方」(p. 57)
  • 結論として,「切磋琢磨」の理論の3つの課題を指摘している (pp. 236-237)。以下はそのうちの一つ目。:

第一は、保護者が学校選択の基準として重視していることの大半が学校および教員の自助努力で対応できないものだということである。中には学校の校内環境や部活動のように学校の教育活動に関わり、多少なりとも対応できるものもある。しかし、他のほとんどの基準は、学校の規模や地理的な利便性、就学前の人間関係など、教員の自助努力ではカバーできないものが多い。そう考えてみると、大半において、この保護者の選択の基準やその結果は教育改善の動機づけとはならないのである。(p. 236)

  • 素朴な推論として,学校選択制の導入が各学校の競争意識を高め,質の向上や特色化を促進するという発想は持たれやすい。事実,本書の第1章で論じられているように,2010年代に大阪市橋本徹氏が学校選択制の導入を推進した際は,学校選択制がこのようなポジティブな効果のみならず,格差縮小にも貢献するという論理でアピールが行われたようだ。しかし,上記の引用箇所にあるように,学校教育にかかわるアクターそれぞれの実情・実態を知れば,学校選択制の効果を市場主義的な発想で捉えることがいかに短絡的であるかがよくわかる。少なくとも本書の大阪市の事例調査からは,保護者・子どもが学校を選択する際に,学校・教員の自助努力で対応可能でかつ教育の質向上や特色化に寄与するような要素はそれほど重視されていないことが窺える。かといって,保護者・子どもの選択の質に罪があるわけでもないだろう。その学校がどのような教育を行っていて,どれほど教育の質が高いのかを評価することは決して簡単ではない。しっかり把握するには,パンフレットをみたり,説明会に行ったり,授業見学に1~2回行ったりするだけでは明らかに情報不足だし,通時的な変化を追うこともできない。結果として,学校規模や立地,部活動などのわかりやすい特徴に注目するのは,ある種当然のこととも思える。

それでも学校選択制を擁護するならば

  • 大学院の授業では,この文献を読む前にOECD (2006) を検討した。そこでは,保護者・子どもの「需要 (demand)」を表出する方法として,「退出 (exit)」と「発言 (voice)」 の2つの枠組みが提示されている*1
出所:OECD (2006), p. 10
  • 上の表の "INDIVIDUAL-EXIT" の説明箇所では,個人が学校を選択あるいは変更すること,市場選択メカニズムが関係することが記されている。これは学校選択制と重なる面が多い。
  • 授業のディスカッションの際,あえて学校選択制を擁護するならば何が言えるか,という論点が挙がった。その際,学校選択制を支持する代表的な論者であった黒崎勲による著作 (黒崎, 1994) について言及があった。黒崎が学校選択制を支持した背景には,「旧来の学校運営体制——すなわち、行政および教員が学校教育の在り方を特権的に決められ支配できる体制——」(p. 29) に対する問題意識があったようだ(私自身はちゃんとその文献を読んでいるわけではないので,きちんと説明できるわけではないが…)。
  • 上記の黒崎による指摘を踏まえたとき,たしかに「学校・教員に意見を表明すること (≒voice)」と「学校を選択すること (≒exit)」の容易さ・心理的負担を考慮したとき,学校選択制には一定の意義があると言えるかもしれない (もっとも,その容易さはvoice をどう定義するかにもよるが)。声を発することは,学校・教員に直接意見を言ったり,学校アンケートに回答したり,コミュニティスクールに加わったりと,さまざまな方策はあるものの,それは一定の労力と (心理的) 負担がかかる。また,社会的な立場も関係するかもしれない。一方で,どの学校に通うかを選択することは,そのような障壁は比較的低い。
  • そういえばディスカッションの際に,教育熱心な富裕層が特定の学区目当てで居住地を選択するという事実上の学校選択制が現に存在するなかで,制度上の学校選択制を施行し,経済的事情に関係なく誰でも学校を選択できるようにすることは,一定の合理性があるのではないかという指摘もあった。この点については明確な反論を特に持たないが,それでも学校選択制による他の副作用の大きさ (例えば,「学校運営体制の負担増や,子どもの数が変動することによる学校運営の不確実性の増大などのデメリット」 (p. 237)) を考慮すれば,学校選択制を支持する理由にはならないと個人的には思っている。
  • 学校選択制を通じた意見の表明のしやすさという利点は確かにあると思う一方で,でもその意見は学校入学前・入学時点のものに固定されてしまうわけで…… 子ども・保護者が学校や教師に求めること・期待することは,入学後一貫しているとは限らず,実際にその教育活動にふれていくなかで,むしろどんどん変わっていく可能性もある。学校選択制はこういった通時的に変化するニーズを掬い取ることはできず,従って,やはり「発言 (voice)」に注目しない限り,"いま" 学校に通っている子ども・保護者のニーズ・意見を取り入れ,教育改善につなげることはできない——みたいなコメントをした。

その他,細かい点

  • 廣田 (2004) を引用しつつ言及している,2000年代の学校選択制ブームの背景についての指摘が興味深かった。要するに,学校統廃合施策の隠れ蓑としての学校選択制

(前略)廣田は、学校統廃合は、「それを正面から掲げた場合には、地元の強烈な反対にあって、なかなかスムーズに行くことが少ない」が、選択によって自然に生徒数が偏り、減少校が出れば統廃合をしやすくなる」との考えがあると指摘する。実際、後述する品川区においても学校の統廃合による「小中一貫教育」の推進と学校選択制の導入がセットになっていることも、この要因を裏付けるものとして考えられよう。(p. 24)

  • インタビュー調査の対象者に「不動産業者」が含まれていた点が興味深かった (教育政策の文献で初めて見た)。たしかに,転入者の居住地選好やその理由を調査するうえで有用な参照先だと思う。発想が柔軟ですごいなぁと。著者のひとりが地理学を専攻していたこともほのかに関係しているのかなぁ。


*1:なお,関連文献として,ハーシュマン (2005)。

メンバー募集:『激動の英語教育政策は「誰」が決めたのか』(青田, 2025)を読む会 (Zoom)

2026.02.08 追記

第4回:2月26日(木)10時半~12時
 検討範囲:第4章~第5章

2025.12.29 追記

第2回:1月27日(火)12時~13時半
 検討範囲(目標):序章~第2章
第3回:1月29日(木)12時~13時半
 検討範囲(目標):第3章~第4章

引き続き,参加者募集中です。途中参加歓迎です。メールやDM等でご連絡ください。
(追記以上)

2025年12月から2026年2月ごろにかけて,『激動の英語教育政策は「誰」が決めたのか』(青田, 2025)の読書会をオンラインで開催します。幹事は私と孫工季也さんです(追記:その後,5名程度の参加者に加え,著者の青田庄真さんにもご参加いただけることになりました)。1回あたり1時間程度,全5回の隔週開催を予定しています。参加希望の方は,下記のフォームよりご登録ください。申し込みは随時受け付けていますが,第1回を12月上旬~中旬に開催したいため,いったんの申し込み締め切りを11/30(日)とさせていただきます。12月中に1回,1月中に2回,2月中に2回の開催が良いかと考えています(変更の可能性あり)。

↓フォーム↓
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfkPqM_-a19UeHqY-738Ngh71TVCkucjTzLq5izqKGmgmqe1w/viewform?usp=header
 (追記:フォームの回答を締め切りました。引き続き募集していますので,参加希望の場合はメールやDM等でご連絡ください。途中からの参加も歓迎します)
ご登録いただいた方には,追ってメールにてご連絡し,読書会用のSlack へご招待します。

検討文献

青田庄真 (2025)『激動の英語教育政策は「誰」が決めたのか:教育課程行政の政治力学』大修館書店

読書会の趣旨

英語教育政策に関する研究は,近年少しずつ蓄積されつつあるとはいえ,その蓄積も研究者人口も,まだまだ多いとは言えない分野です。その一端は,英語教育関係の学会で発表する際のセッションの区分にも表れているように思います。「教材・カリキュラム」「動機づけ」「ICT」「語彙」「指導法」といったカテゴリーが並ぶなかで,英語教育政策はたいてい「言語・教育政策/その他」という「その他」付きのカテゴリーにまとめられます。一方で,英語教育に関する政策そのものは多岐にわたって展開されており,検討すべき論点は山積しています。

こうした状況のなかで刊行された青田 (2025) は,近年の英語教育政策を検討するうえで,貴重かつ重要な一冊です。他方で,英語教育政策にあまり馴染みのない方にとっては,やや手に取りづらかったり,一人で読み進めるにはハードルが高く感じられる部分もあるかもしれません。そこで本読書会では,

  • 第一に,テクストについての疑問点を共有し,互いに解説し合うことで,本書への理解を深めること(批判的検討を含む)。
  • 第二に,本書から立ち上がる論点を手がかりに,英語教育政策,あるいは政治学行政学・教育学などの視点から自由に議論し,今後の研究や実践のヒントを見出すこと。

——これら二点を目的とします。

事前に検討対象となる章を読んできていただいたうえで参加する方式となりますが,それ以外に特別な準備は不要です。耳だけのご参加も可能ですので,どうぞ気軽にご参加ください。英語教育政策を専門とする方はもちろん,それ以外の分野を専門とする方々のご参加も大歓迎です。

これまで読書会に参加することはあっても,主催するのは今回が初めてなので,いろいろ不安もありつつとても楽しみにしています。少しでもご関心のある方や,お知り合いの方で興味のありそうな方がいれば,お誘いのうえご参加ください!