SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ013】村上・橋野 (2020) を英語教育政策の観点から読む:序章と1章

書誌情報:村上祐介・橋野晶寛 (2020) 『教育政策・行政の考え方』有斐閣


本書は教育政策・行政における重要な理論や概念について紹介する「教科書」的文献。教科書というだけあって初学者にも理解しやすく整理されていながら、一般的な教科書レベルの水準ははるかに超えている。理論的な概念の説明をただ体系的に述べるのではなく、それぞれについて切れ味鋭い解説が記されており、「英語」教育政策が専門である私にとっても、かなり勉強になった一冊。

本文献を「言語教育政策に引き寄せて読もう」という趣旨の読書会に参加させていただいた。本ブログではその読書会で得た知識・発想を存分に参考にしながら、本文献を「英語教育政策」に照らして考察してみたい。まずは、序章と1章。

序章

・本書では教育行政の研究目的を大きく3つに整理している:

①教育において望ましい価値や帰結は何か、②望ましい帰結や価値があるとして、一定の制約の中でそれをどのように効率的に実現するのか、③望ましい価値・帰結やそれを実現するための政策は誰がどのように決めるのか。(p. 6)

・この分類は、当書の問題関心を整理するために便宜的に作成されたものにすぎないが、政策研究を整理するうえで有用なものだろう。この分類に基づいて、英語民間試験導入問題を整理した論文を書いてみようかなぁ、なんて思ったり。

・2000年代の教育政策の特徴として、NPMが紹介されている。

2000年代のもう1つの変化は、NPM(新公共管理)と呼ばれる考え方の普及である。端的には、民間部門の理念や考え方を行政に採り入れてその効率化を図ろうとするものであるが、教育分野でもNPM的な改革が一定程度行われるようになった。その1つの例は事前統制から事後統制へのシフト、言い換えれば入口管理から出口管理を重視する変化である。(p. 12, 下線は引用者)


・英語教育の分野でも、NPMの考え方はかなり浸透している。代表的な例が、英語民間試験導入や都立高校へのスピーキング試験導入などを含む、入試制度の改革であろう。その教育課程の「出口」にあたる入試を改革することで、学校教育を改善しよう——という魂胆。出口をいじることで、その過程に間接的に影響を与えることを一つの目的としている。過程それ自体についての議論はほとんどなされていない。教育のナカミの議論は測定ができない。一方で、入試はまさにNPMの発想と親和性が高い。だから、出口をいじる施策ばかりが形成されやすい。

1章

・教育の性質を「個人のため/社会のため」「自己目的/手段」で分類している。前者はもう少し堅い言葉で言えば、「私事性/公共性」とも表せる。
・例えば、2020年度の民間試験導入問題でその根拠として出された「ヨーロッパ・アメリカに追いつくためには、大胆な英語教育改革が必要」という意見は、英語教育を「社会的のため」の「手段」としての教育(=社会の形成・維持としての教育)——と捉えていると解釈できる。一方で、余暇活動としての・楽しみとしての英語学習は「個人のため」の「自己目的」としての教育(=消費としての教育)——ということになる。
・英語教育政策でたびたび話題にあがるのは、「社会の形成・維持としての教育」。ここでは、英語を一つの「人的資本」「言語資本」と考え、日本人の英語力を向上させることで、国家の経済的利益につながる——という言語道具主義の思想が根本にある。
・保護者・生徒は、「個人のため」の「手段」、つまり、私的投資として英語教育を捉えている。一方で、政策立案者・教員が想定するのは、「社会のため」の教育。このギャップが不満・混乱の原因となっている?
・じゃあ、教師と生徒・保護者の「教育の目的」を一致させればいいのだ! というのは早計。当書の記述からは脱線するが、広田 (2022) は学校の社会的機能として、①(子どもたちの)社会化と、②選抜・配分の2つをあげている。そして、NPMが横行する現代では、後者の選抜・配分の機能が暴走し、それ自体が自目的化してしまう傾向にあると警鐘を鳴らしている。その結果、「テストの成績を上げることを目的にした教育・学習」が重視され、本来の「教育の目的」から逸れた教育や学習が発生している。この点について、広田は次のように述べている。

では、どうしたらいいのでしょうか。私は、一つには、教師の理想や理念と生徒の現実的な思惑との間にズレがあればいいのだと思っています。教師は「教育の目的」を見失わないようにしながら、教えていることの意義や面白さを、自分で明確に意識しながら教えるべきだと思うのです。
 教師自身が、「この内容は面白いし学ぶ意義も大きい」と思って教え方を工夫したりすれば、教師が教えてくれることの中身を「面白い」と思う子どもも、もっと増えるでしょう。ただし、子どもたちの多くは、その中身に興味を持たないかもしれません。でも、そういう子どもたちも、「定期試験があるから」「入試があるから」、勉強はしてくれるでしょう。(p. 77)


なるほど、「教師の理想や理念と生徒の現実的な思惑との間にズレがあればいい」という指摘は言いえて妙である。「保護者・生徒と教員が想定する教育の性質のギャップが混乱をもたらす要因の一つとなっている」と先述したが、むしろ、両者が噛み合うことの方が異常なのかもしれない。NPMの影響が特に強い英語教育では、かつ、普段の生活の中で英語学習の意義を感じにくい日本では、「テストの点数を上げるため」以外の学習動機を生徒に持たせることは難しい。教師側にしても、教育の目的を達成するために「テストのために勉強する」ことを全否定することは、「教師 vs. 生徒&保護者」の対立をますます悪化させることにつながるため、建設的な解決策ではない。だからこそ、生徒の意識改変をはかることをある意味であきらめる必要がある。

重要なのは、そこで教師側が教育の目的を生徒と一致させる、つまり、教師側も「テスト・試験のための授業」に専心するのではなく、生徒・保護者側のニーズを受け止めながら、でも完全には受け入れず、本来の「教育の目的」を達成することに注力することである。要するに、生徒・保護者の心が離れないように配慮しつつ、でもそのニーズに多少は抗いながら、教育の目的を達成するための教育活動を行うことが教員に求められている——ということになる。

英語教育の話に戻す。以上を勘案すると、やはり重要になってくるのは、大津 (2021) が指摘するような「しっかりとした言語観(外国語観を含む)と言語教育観」を教員が確立させることである。端的に言えば、教員の腕次第——ということになってしまうのだが、この点を教師個人の責任に転嫁するのではなく、教員養成・研修制度を通じてどのような行政的制度を構築すべきか、どのような行政的サポートが行えるかという点が重要。そして、この投稿の前半でも述べたことだが、そのためには、その取り組みの根本にある「英語教育の目的」つまり「なぜ英語を勉強するのか」を議論することが最重要事項。現状、英語教育界隈では、多種多様な「英語教育の目的」が好き勝手に語られており、想定される「英語教育の目的」はかなり不安定なものになっている。また、英語教育の目的に焦点をあてた研究はゼロではないものの(例えば、寺沢 (2014))、あまり注目されていないことは確か。