SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ016】村上・橋野 (2020) を英語教育政策の観点から読む:6章と7章

前回の続き。
sudos.hatenablog.jp
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今回は6章「投入と成果」と7章「事前統制と事後統制」。
「英語教育政策の観点から読む」というタイトルではあるが、今回は「英語」教育政策自体の話は少なくなってしまった。

6章「投入と成果」

<衡平性と適切性>

  • 教育費の配分の均等化をめぐる議論をするうえで、「衡平性 (equity)」と「適切性 (adequacy)」という2つの基準が使われる。
  • 前者はさらに、投入の均等を意味する「水平的衡平性」と、成果の均等を意味する「垂直的衡平性」に分類される。ただし、垂直的衡平性を実現させることは不可能に近く、その意味で理念的なものに近い。この事情から、「衡平性」という用語が使用される際、そこでの意味は水平的衡平性を意味することが一般的。
  • 一方、後者の適切性は、「達成すべき最低基準を満たすこと」(p. 118) を意味する。教育成果として到達すべき最低基準を設定し、それに向けた是正を促すことを目的としている。
  • 衡平性と適切性の違いについて、当書では以下のように説明されている。

衡平性(水平的衡平性)は成果の参照なしに定められる投入の配分基準であるのに対し、適切性は成果の参照を伴う配分基準である点で大きく異なる。加えて適切性が衡平性に代わる基準として登場したという歴史的経緯から、適切性の基準のほうが魅力的にみえるかもしれない。しかし、実務的には衡平性は簡素な原理であるのに対し、適切性には大きな技術的困難がある。(p. 118)

  • 上述の通り、適切性は「成果の参照」を伴う。それには、教育活動の結果が測定可能であることが前提とされる。そこで使用されるのが、全国学力・学習状況調査や、国際学力調査であるPISAやTIMSS である(英語テストについては後述)。
  • このように、教育成果を測定可能なものと(想定)することで、適切性の評価が可能となる。それは同時に、学校・教員の教育力の評価をすることにもつながる。つまり、教育成果の測定をもとに、学校・教員の質の高さを判断しようという動機が生まれる。

<付加価値モデル>

  • 教員による教育成果の比較を行う際に用いられるひとつのモデルが「付加価値モデル (Value-Added Model)」である。その特徴を簡潔に説明すれば、以下のようにまとめられる。

1.時間をおいてテストを2回実施し、その増分を比較する
2.その際、生徒の社会経済的背景(親の収入・学歴など)という教員のコントロールのおよばない要因による寄与を分離して、増分を比較する

  • 129頁に「付与価値モデルの数値例」の表が載せられている。非常にわかりやすい(気になる方は当書でご確認ください)。
  • 生徒の社会経済的な背景をぬきに、教員の純粋な教育力を評価する——とだけきくと、付加価値モデルがきわめて万能な手法であるように思えるが、先述の通り、「適切性には大きな技術的困難」、加えて、測定基準への執着による負の影響をもたらす危険性もある。
  • 前者の「技術的困難」については、適切性を評価するためのデータ整備のコスト、ならびに、テストの妥当性の問題などがあげられる。
  • 後者の「測定基準への執着による負の影響」とは、特にそのテストが受験者あるいは教育者にとってハイ・ステイクス(重要度が高い)場合に顕著となる。これについては、ミュラー (2019) の以下の説明がわかりやすい。

テストは、適切に磨きをかければ生徒の能力と進歩を測る有益な手法となり得る。年ごとの生徒の成績の変化を測る付加価値テストには、実際に有用性がある。(中略)さらに重要なのが、付加価値テストは分析ツールとして純粋に有益だということだ。教師自身が使って、カリキュラムのどの部分がうまくいき、どの部分がうまくいかないのかを知ることができる。だが、付加価値テストがもっとも有益なのは、「重要度が低い」ときだ。これらのテストが学校を評価する主要な基準として重視されるようになると、学校の幅広い目標を犠牲にしてでもテストそのものに注力しようとするなど、ねじれたインセンティブを生むようになってしまう。(p. 95, 下線は引用者)

  • 付加価値モデルによる評価が、教員の給与の昇給(あるいは、処分の根拠)になるほどに重要な(=ハイ・ステイクス)ものである場合、「ねじれたインセンティブ」を生む危険性をはらむ。それは、引用文にあるような教育内容の歪曲化かもしれない。あるいは、わざと1回目のテストで生徒が点を低くとるように取り計らい、2回目のテストとの差分を疑似的に増やす——というインセンティブもはたらくかもしれない。このような教育内容の劣化や測定基準の改ざんの危険性を考慮すると、付与価値テストはロー・ステイクスである必要がある。
  • 英語教育では教育成果の指標として、英検の使用がほぼ自明化している印象。「英語教育実施状況調査」などからわかるように、教育成果の「増分」を比較するわけではなく、他自治体・他都道府県との「達成状況」の比較となっている。
  • 当書の議論からはややそれるが、この調査の問題点については、以下の記事で詳述されている:https://news.yahoo.co.jp/byline/terasawatakunori/20220603-00299034

7章「事前統制と事後統制」

<教育の質を確保する手段>

  • 教育の質を保つ手段として、「事前統制」と「事後統制」の区分を用いて説明している。

(前略)多様な公教育を行うことや、公教育の費用を負担している市民への説明責任を果たすため、近年では事前の規制を緩和し、その代わりに成果や業績を事後的に評価しようとする傾向が強くなりつつある。(p. 139, 下線は引用者)

  • 当書では、事前統制のひとつとして、「基準設定」をあげている。基準設定には、学校設置基準、学習指導要領、義務標準法などが含まれる。

<学習指導要領>

  • 学習指導要領について、当書では以下のように説明されている:

学習指導要領は、国が示す教育課程の最低基準としての性格を有している。1947年に創設された学習指導要領は、当初「試案」として示され、その実施は自治体や学校に委ねられていたが、1958年の改訂からは法的拘束力を有するとされ、国が教育課程の内容や水準をコントロールする手段としての性格が強まった。(p. 141, 下線は引用者)

  • 以下、学習指導要領の法的拘束力についての検討(当書ではあまりふれられていない)。
1947-1954:「手引書」としての位置づけ
  • 具体的な教育内容は地方の自主性に委ねられていた
1955-56:「試案」の文字が削除
  • 「学習指導要領は基準であり、基準枠内の自由は認めるが、基準を踏みはずしてはいけないという解釈を示し始めた」(勝野・藤本, 2008, p. 137)
1958:学校教育法施行規則の改正に伴い、学習指導要領の法的拘束力が強調されはじめる。
  • 「文部大臣が官報(国の法令を公布する機関誌)に「告示」という形式で掲載し、さらにこれが法的拘束力を有するとの解釈に変更された」(勝野・村上, 2020, p. 83)。要するに、文科省はこれ以降、「官報を通じて告示する」という法形式で公にされていることを根拠に、学習指導要領の法的拘束力を主張するようになった(勝野・藤本, 2008, p. 138)。
  • 学習指導要領の改訂については、文科大臣の諮問機関である中央教育審議会中教審)での議論が中心となる。つまり、法律の制定とは異なり、国会での審議を必要としない。国会を通過しない以上、政治的正当性が確実に担保されているとはいえず、その点で学習指導要領は法律とは性質が異なる。
  • とはいえ、民意が全く反映されていないわけでもない。中教審では専門家や教育関係者も含めて議論を行うことに加え、二度にわたるパブリック・コメントを通じて国民からの意見を募集したうえで、答申がまとめられる。
1960年代以降:大綱的基準説が有力になる。
  • 「大綱基準説では、教育における内的事項・外的事項の区分を前提に、文部省の教育課程の関する権限は「小・中学校の教科と時間配当、高等学校の教科・科目・授業時数・単位数など」の「ごく大綱的な基準」に限られるとする」(勝野・藤本, 2008, p. 138)
まとめ
  • 以上をふまえると、教育行政に記される「学習指導要領は法的拘束力を有する」という記述は、主に大綱的な基準のことを想定していることがわかる。「法的拘束力を有する」とは書かれているものの、注意すべきは、「学習指導要領=法律」という趣旨ではないという点。
  • 学習指導要領の法的拘束力については、旭川学テ判決(1976年)や伝習館高校事件判決(1990年)において裁判が行われてきた。これらの判決は依然としてさまざまな解釈を生む余地はあるものの、少なくともいずれの判決でも、学習指導要領の法的拘束力が大綱的な基準以外、すなわち、学習指導要領の個々の項目までに認められたことは一切ない。
  • 以上のことから、「学習指導要領は大綱的基準については法的拘束力を有するが、個々の項目についての法的拘束力は必ずしも担保されない」という説明ができる。
  • 外国語の学習指導要領をみてみると、教育の内容 (what) と目的 (why) については詳細に書かれているものの、方法 (how) についての記載はかなりうすい。
  • もちろん、「方法」についての記述が全くないわけではない。例えば、高等学校学習指導要領の外国語には「授業は英語で行うことを基本とする」という記載がある。これを根拠に、「授業を英語で行うことは法律で決まっている」と誤解する者がいる*1。しかし、先述した通り、学習指導要領の法的拘束性が適用されるのは「大綱的な基準」に限った話であり、授業の方法についてまで守るいわれはない。
  • 事前統制の話に戻ろう。外国語(英語)の学習指導要領は事前統制として機能するのか。結論を言ってしまえば、その拘束力はほとんどない——と言えるだろう。大綱的基準説にもとづく学習指導用では、教員はその個々の内容を守る法的義務は存在しないことに加え、そのような性質であるがゆえに、行政側も大胆な内容を載せることはできない。
  • そこで行政側は、「迂回路」を経由した統制を目指す。簡単に経路を示してしまえば、「学習指導要領→学習指導要領解説→教科書→教育現場」となる。学習指導要領自体が現場に与える影響は限定されるが、学習指導要領解説をもとに作成される教科書は、現場に直接的な影響を与える。
  • 加えて、学習指導要領解説は中教審での答申に基づくとはいえ、その内容は官僚の裁量に委ねられている面が大きく(その分、民主的正当性は低い)、政策的な意図を含めることも比較的容易。
  • とはいえ、その拘束力がどれほどのものかはビミョー。事前統制の他の手段としては、教育委員会を経由した呼びかけや研修あたりだろうか。いずれにしても、その拘束力は決して大きいとは言えないうえに、統制するチャンネル自体が少ない。
  • 事後統制やNPM の話については、以前、以下の記事にまとめたのでカット。

sudos.hatenablog.jp

*1:事実、私の高校時代の英語教員はこの趣旨の発言を頻繁にしていた