SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ020】村上・橋野 (2020) を英語教育政策の観点から読む:12章と終章

前回のつづき。今回がラスト。

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今回は12章「個別行政と総合行政」と終章「今後の学習のための視座」

12章「個別行政と総合行政」

  • この章では、近年の教育政策が「専門性」ではなく「総合性」を重視する傾向へと移っていることを示している。その背景として、政治主導の強まり、専門職への不信*1、行政効率化の要請(cf. New Public Management)、社会経済的な変動(不況、少子高齢化、貧困などの社会的問題を考慮すると、教育行政の専門性だけでなく、他分野の専門性も含めた総合性が重視される)が挙げられている (p.p. 229-230)。

他省庁による教育政策への影響

制度改革によるもう1つの変化は、他省庁が教育政策に対してより大きな影響力を有するようになったことである。(p. 235)

  • 井上義和が経産省による教育政策への介入について、次のように分析している(「中央公論」2021年12月号):

目指す方向は文科省もほぼ同じはずなのに、アプローチは全く違う。文科省は学習指導要領などの文書を発し全国の教育委員会を通じて各学校に指示を下す。だが、いくら良い理念を謳っても全体に網をかけて「周知徹底」の伝言ゲームを経るとなぜか現場を疲弊させることになる。
 経産省の「未来の教室」プロジェクトは「この指とまれ」方式で意欲のある学校と民間事業者をマッチングする。教育ビジネスに補助金を回す公共事業だろうとタカをくくってはならない。潜在的な改革者を掘り起こし、各地の改革者同士の横のつながりを作り、相互の感化と改革の連鎖を生み出す。そうした持続的な社会運動として構想されている。(p. 130)

  • 民間部門との接続が特にイメージしやすい英語教育では、このような動きが加速化するのでは? EdTech の件とか。
  • 読書会でこの点について指摘したら、「継続性」がカギ——という指摘をいただいた。上記の取り組みはスタートアップ企業支援のやり方に近い。つまり、初期段階では経産省補助金を付けて取り組みを支援するわけだが、それが恒久的に継続されるわけではない。例えば、外国人教員が不足している地域に、経産省主導でオンライン英会話スクールを学校に導入した場合、それが支援されている間は教員不足の問題がある程度解消されるものの、その支援がずっと続くわけではない。2, 3 年したら梯子を外されて、あとは自分で何とかしてね——という構図になりやすく、その点を考慮すると、経産省の上記のような関与は根本的な問題解決につながるわけではない。その点のリスクを考慮に入れて、この議論は行われる必要がある。

教育分野における「専門性」

ただし教育分野で専門性について考察する際には留意しておくべきことが2点ある。1つは、教育の専門性には教育実践に近い立場での専門性と教育行政・政策における専門性があり、両者は異なる専門性が含まれる。本書では教育実践というよりは教育行政・政策における専門性を念頭に置いてきた。同じ教育の専門性といっても、教育実践に近い専門性か、教育行政・政策における専門性を想定するかで見方が変わってくることがありうる教育の専門性の類型や特徴に関する議論は教育学的には重要な問題であるが、本書で扱う範囲を超えているためこれ以上は触れない。もう1つは、教育分野の専門性とは、科学技術のような分野の専門性と同一に論じてよいのかという点である。これは伝統的な専門職と「反省的実践家」(Schön 1983) と呼ばれるようなそれ以外の専門職との違いという点にも関わる。(pp. 236-237, 下線は引用者)

  • アクターとして「専門家」という用語が使われる際、一元的な意味で用いられることが多い。しかし、当然と言えば当然なのだが、専門家の中にもいろいろいるわけで、それらの多元的な存在を「専門家」という用語で集約するのはかなり無理がある。例えば、「専門会の意見が軽視されている」という主張があっても、実態としては「一部の専門会の意見が軽視され、一部の専門会の意見が重視されている」という場合もあり得るため、一概に「専門家の意見が軽視されている」と言えない場合もあるはず。民間試験導入をめぐる議論でも、推進派の専門家と否定派の専門家がいたわけで、「専門会の意見が軽視されている」というのは主に後者の発言による。
  • 上にあるように、当書では、専門性の類型・特徴として、「教育実践に近い専門性」と「教育行政・政策における専門性」の二分法を提示している。前者は教師などの実践者、後者は教育行政の専門家が主な対象者となる。
  • 上記の二分法はあくまで一例であり、これ以外の類型が存在しないわけではないだろう。例えば、英語教育の研究者の中には、英語教育の目的をスキルの獲得といった実用面のみに特化して検討する専門家もいれば、いやいや、英語って英語そのものを学ぶだけではないでしょ——というように、英語を他の教科も含めた「教育」の一環として捉える専門家もいる。ここらへんの類型をうまく整理したいのだが…… 当書の22頁にある「教育の性質」に当てはめて考えてみたけれど、歯切れが悪い。

終章「今後の学習のための視座」

例えば、新しい施策のもたらす教育への効果を検証するには、何が必要か。少なくとも、①効果を知りたい教育成果のデータを新しい施策と従来の施策の下でとり、②他の要因を統制したうえで比較しなければならない。このことは教育政策のようなマクロな議論だけでなく、ミクロな教育方法のレベルの議論でも同様である。(p. 224)

  • いわゆる内的妥当性の話。この点は英語教育でもきわめて重要な論点で、仮にそれが政策研究の文脈で行われていないとしても、何らかの「効果」を語りたいのであれば避けては通れない点。何かの教授法や指導法の効果語りをとにかく好む英語教育研究では、頻繁に効果の検証が為されているものの、上記の2点がクリアできているものは決して多いとは言えない(亘理他, 2021)。①で指摘されているような、施策・処遇の前後でデータをとることをしない研究者も多数いるし*2、そこができていない時点で②で指摘されているような「比較」もできるわけがない。
  • 政策研究に限らず、ある教授法・指導法の効果を語りたいのであれば、何かと比較するということは必須。さらにいえば、その処遇の前後のデータ(テストの点数)を比較するだけでは不十分。というのも、生徒の学力向上に寄与する要因は、その処遇以外にも多分にあふれているからだ(学校の授業、家庭教育、塾での学習等)。その処遇の純粋な効果を見たいのであれば、②で指摘されているように「他の要因を統制」する必要がある。
  • 英語教育の「効果語り」についてもう一つ付け加えておくならば、「アンフェアな比較」が用いられることが決して少なくないという点。例えば、リテリングの効果について、この活動の効果をちゃんと言いたいのであれば(つまり、「エビデンス」として提示したいのであれば)、その効果の比較相手として「何もしない」を対置するのはアンフェア。フェアな比較相手は、例えば音読とかシャドーイングとか振り返りシートとか*3、そういう「リテリングの代わりの効果的(と思われる)練習」と比較すべきだろう。それ無しで、「リテリングをすると効果的」というのは、「何もしないより何かした方がいい!」という情報に近い気が……
  • そうそう、「アンフェアな比較」と言えば、日本と他国の英語教育事情を比較して、それを施策の導入根拠として悪用することもけっこうある。例えば、「よその国では小学校英語やっているんだから、ウチも導入すべきだ」とか。あるいは、先日のアクションプランで示されているような、アンフェアな方法で日本の英語力を低く見せる手法とか(そもそもデータ自体がかなりヤヴァイので、アンフェアですらないか。詳しくは下のブログで前に書いた。)。「他国もやっているから、日本もやるべき」という発想は、導入根拠としては全くあてにならないんだが、謎の説得力を持つようで頻繁に使われる。

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  • この点(外的妥当性)については当書でもしっかり記されており、その注意点と課題が記されている:

一方で、こうした制度的補完性や制度の連結まで考慮して適切な因果推論を行うことが実際には非常に困難な場合もある。例えば、首長主導の教育改革の効果は、地方自治体制度や中央地方関係など、さまざまな制度が補完的に作用することが考えられる。それらを考慮するためには、因果推論に関する方法論的知識だけでなく、対象に関する深い知識や理解も併せて必要になる。(pp. 246-247)

  • 政策研究において、因果推論に基づく知見の重要性は疑いようがないが、当然ながら、それだけが政策研究ではない。寺沢 (2021) が指摘するように、教育政策は、例えば医療分野 (EBM) と比較すると、処遇・アウトカム・測定の合意がきわめて困難であり、その合意可能性を高めるためにはその分野固有の知識(=ドメイン知識)が不可欠となる。
  • 後半の「産業構造の内容」「財政的制約」のところは、まぁ、日本がそのような事態になっているということを認識していなかったわけではないが、当書の説明の鋭さも相まって、「ウゲー」と声が出てしまった(最後の最後の感想が「ウゲー」で、どうもすみません)。

というわけで、全7回にわたって、英語教育政策の観点からみた本書のレビューを記してみました。
まずは、当書を深く検討する機会を提供していただいた読書会関係者の方々に心から御礼申し上げます。ここで書いた内容の多くは、読書会で得た学び・着想をもとに書かせていただきました。
実際のところ、読書会では、私はほとんど話を聞く側に徹しており、途中途中でちょっかいを出す程度の貢献しかできませんでした。なかなか発言ができず、逆に話を振ってくださったことも多々ありました(不甲斐ない……)。感謝しかありません。

英語教育政策でこれから論文を書こうとしている私にとって、この本はパラダイム・シフトを起こしたともいえる名著。教育政策全般の知識が補完されたのみならず、英語教育政策の個々の事例の見通しがかなりよくなった。これからもしばらくは机のお供になると思う。教育政策はもちろん、教育分野にかかわるすべての人に勧めたい。
といっても、やはり英語教育政策は他の教科の政策事情と比べてもかなり特殊であり、この本で紹介されている理論や枠組みとは一致しないものも多数ある。その点について今後も考察を深めていくという形で、ぜひともバトンをつないでいきたい。(完)


*1:専門職への不信の結果、政策の決定・実施を個別分野の専門家(教師・教育行政)に委ねることができず、行政全体で決定することが好まれる

*2:これについては、波及効果研究の問題点としても指摘されている点。詳しくはsudos.hatenablog.jpこちら

*3:なんだか日本で流行っている教授法(というより学習テクニック?)の羅列になってしまったが笑