SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ014】村上・橋野 (2020) を英語教育政策の観点から読む:2章と3章

前回のつづき。sudos.hatenablog.jp
今回は2章「量的拡充と質的拡充」と3章「投資としての教育と福祉としての教育」。

2章

機関補助と個人補助

就学機会の保障や教育条件の整備が公財政支出によって賄われる場合に、それが誰に対して支出されるのかという政策選択が存在する。言い換えれば、教育サービスの供給機関に対する補助として支出されるのか、それとも教育サービスの需要側の学習者個人に対する補助として支出されるのかという選択である。 (p. 52)

  • 前者の形式を「機関補助」、後者の形式を「個人補助」として定義している。
  • 既存の制度の多くが機関補助を採用している一方で、幼児教育無償化や高校家庭での無償化措置は個人補助の政策の一例である。
  • 当書では指摘されていないが、近年では政策選択の優先順位として、機関補助よりも個人補助が優先される傾向にある——という指摘もある(小川, 2019)。その理由として、小川は次の3点を挙げている。

一つは、学校の「量」的な条件整備が終わり、逆に児童生徒数の減少期に入っていること、第二に、教育活動が「集団」ベースから「個」のニーズと事情に応じた「個の平等」を尊重する段階に進んできたこと、そして、第三に、政治主導の教育政策は、国民に対するアピール度の高い政策に高い優先順位をつけること、等である。 (p. 231)

  • 三つ目の「政治主導の教育政策」という指摘は村上・橋野 (2020) でも記述されていることであり (p. 53)、近年の教育政策の傾向の一つとして挙げられる点であろう。
  • 小川が指摘する「機関補助 < 個人補助」という構図がどれほど一般化できるかは微妙なところだが、少なくとも、個人補助に対する教育予算の支出が以前より高まってきていると考えて問題ないだろう。
  • では、この「機関補助/個人補助」という2分法を日本の英語教育に当てはめてみるとどうなるか。
  • 近年の英語教育政策の中で最も社会的インパクトが大きかったものは、2020年の小学校英語教科化と大学入学共通テストへの民間試験導入問題であろう(後者は「見送り」となったが)。今回は後者に注目して、「機関補助/個人補助」という枠組みで考察してみる。
  • これは私自身の発見ではなく、読書会での他の方による発言によるものだが、結論から言うと、英語教育政策はその特殊性ゆえに、「機関補助/個人補助」という二分法が必ずしも適用されるわけではない。
  • 先の民間試験導入問題では、低所得者世帯への配慮から、受験料補助についての検討がなされた(まぁ、最終的に「身の丈発言」に帰結したのだが)。実施はされなかったためあくまで仮定の話となってしまうが、もし実際に受験料補助が実施された場合、これは機関補助なのか、それとも個人補助なのか。
  • これを受験者目線で捉え、各人の受験料負担のための予算措置と捉えるならば「個人補助」にあたる。一方で、4技能型の民間試験を入試に導入したい、そのための予算措置と捉えるならば「機関補助」として考えることもできる。
  • もう少し細かい事例をあげると、熊本県では2022年度から英検、GTEC の受験料を半額にする施策を実施している

https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/138999.pdf)。これについても、各家庭の経済的負担の軽減を目的とするならば「個人補助」となり、一方で、自治体として民間試験の受験実績を向上させるための施策と考えるなら「機関補助」となる。

  • 外部のテスト産業との結びつきが強い英語教育では、教育産業が公教育に流入しやすく、その結果、「個人補助/機関補助」という二分法ではうまく説明できない事例が多数生じていると考えられる。数学や国語などの他の教科では、このような現象は起きにくい。
  • あくまで私見だが、上記のような特殊性ゆえに、教員数増強のような「純粋な機関補助」に割かれる予算はますます減っているのではないだろうか。

3章

<教育=投資>というロジック

  • 教育への財政支出拡大の根拠として、<教育=投資>というロジックはよく用いられる。これは1章で説明されている、「個人のため/社会のため」「自己目的/手段」という教育の性質のカテゴリーとも密接に関係する。例えば、英語教育を「個人のため」の「手段」と捉えるなら「私的な投資」となり私費負担をすべき、一方、英語教育を「社会のため」の「手段」と捉えるなら「社会的な投資」となり社会全体で費用負担をすべき——というロジックとなる。
  • 英語教育の場合は、以前の投稿でも指摘した通り、教育改革の根拠は「社会的な投資」としての側面を強く訴えている一方で、生徒・保護者は「私的投資としての教育」「消費としての教育」として捉えているというギャップが存在する。いずれにしても、「社会のため」の「自己目的」、つまり、「福祉としての教育」という解釈は、近年の英語教育ではほぼなされない傾向にある。
  • 「近年の」と記したのは、一昔前の英語教育政策では必ずしも「福祉としての教育」の側面がなかったとは言えないからである。例えば、1980年代の英語教育政策論議を紐解くと、国民すべてに英語教育が必要だとする根拠として、「国際理解」の側面が重視されていたことがわかる(寺沢, 2014)。また、「近年」でもその傾向がまったくないわけではなく、例えば、2020年度の小学校英語教科化を巡る議論の際に、その導入の根拠として「異文化理解」「国際理解」が指摘されることもあった。しかし、冨田 (2021) が指摘するように、「国際理解教育」という用語は小学校英語教科を導入するための「あとづけの根拠」として用いられたと言っても過言ではない。そのナカミの話、あるいは、「国際」理解教育の一環として「英語」教育が適切であるのか、他の言語に目を向ける必要はないのか——といった議論が展開されることはほとんどなかった。

人的資本論

人的資本は設備投資の対象となる物的資本と対置される。人的資本論では人間の知識・技術や健康などが、さまざまな教育や医療行為などの投資によって蓄積され、そのストックの水準が労働生産性を規定すると想定する。(p. 62)

  • 先述した、英語教育を「私的な投資」または「社会的な投資」と捉える見方は、人的資本論の発想と密接に関係する。人的資本論とはその名の通り、人間を一種の「資本」とみなし、教育や医療行為などを通じて「投資」を行いその人間の生産性を向上させることで、最終的に賃金の増加をもたらしリターンを得る——という理論である。
  • わかりやすい例えかどうかはわからないが、一般的な銭湯しかないスーパー銭湯と、炭酸風呂・電気風呂・白湯があり、さらに露天風呂や高温サウナや泥パックもある高級銭湯、どちらの方が最終的に得るリターンが大きいか——というイメージ。各種の知識・技術を獲得することで「商品」としての生産的価値を向上させることで、高い賃金を獲得することを目指す。ただし、必ずしもその「商品」がリターンを得られるとは限らない。先の高級銭湯が多大な設備投資をしたにもかかわらず、お客に受けず、十分なリターンを得られない可能性があるのと同様に、教育政策においても、「私的な投資」「社会的な投資」の観点から政策が進められているからといって、実際にそれが正当なリターンに結びつくことは限らず、実証分析による知見の蓄積を待つほかない。

教育の外部性

  • <教育=投資>のロジックの観点から、政府による介入が正当化されるケースとして、以下の5点を指摘している (pp. 66-68)
  1. 投資のリスク
  2. 借入制約
  3. 外部性
  4. 個人の時間選好・リスク選好
  5. 投資としての不成立
  • ここでは「3. 外部性」について、英語教育の観点からいくつかコメントを記す。
  • 外部性とは、「教育を受けたことの便益が当人以外にも及ぶ可能性」を意味する。要するに、「社会的な投資」の成果として、当人以外(社会)が獲得できる便益のことである。
  • 読書会で指摘されたことだが、英語教育政策では、施策の目的として、「一部の生徒に(特別な)投資を行うことで、それが全体に好影響を与える」というロジックが用いられることが多々ある。例えば、スピーチコンテスト、自治体による留学支援、突出した才能を持つ生徒・児童への特別支援 (リンク)などがある。それにより特権を受けるのは一部の生徒ではあるが、このような施策を正当化するロジックとして、英語教育の外部性を用いることが少なくない。つまり、一部の生徒がそのような経験をすることで、周りにも良い影響が与えられる——というロジックである。
  • 「高等教育の外部性について教育経済学・労働経済学で実証分析が行われてきたが、現時点で明確に外部性の存在が立証されてきたとは言い難い (Sand 2013)」(p. 68) とある通り、外部性の実証は決して容易ではない一方で、レトリックとして用いられることは多い。
  • 当書の記述からは離れるが、外部性には「負の外部性」も存在する。つまり、「一部の生徒に(特別な)投資を行うことで、当人以外が不利益を被る」こともある。読書会ではその例として、「スピーチコンテストに参加する生徒が大好きすぎる英語教師」があげられた。なるほど、教育現場の事情をよく知らない私には推測しかできないが、たしかにそのような催しに参加する生徒は英語が大好きで、真面目で、人当たりも良い傾向にあるのかもしれない(偏見かな)。そういった生徒は、情熱的な英語教師からするとものすごく好印象にうつり、その生徒ばかりをもてはやす行為につながり、結果的に他の生徒への干渉が減る——というのはあり得なくもない話だろう(あくまで推測だが、「負の外部性」の一例として)。