SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ027】『何のためのテスト?』(ガーゲン & ギル, 2023)1章・2章

書誌情報:Gergen,J.K., & Scherto R.G. (2020). Beyond the tyranny of testing: Relational evaluation in education. Oxford Acadeic. https://doi.org/10.1093/oso/9780190872762.003.0001 [東村知子・鮫島輝美(訳)(2023)『何のためのテスト?:評価で変わる学校と学び』ナカニシヤ出版]


私の界隈ではけっこう話題になっている文献。
「テストに基づく評価」をWell-being の観点からズタズタに批判し、代替案として「関係に基づく評価」を提案している。
入試改革を専門とする私にとっては非常に重要かつ面白そうな本なので、のんびりとコメントを書いていこうかと。

第1章 テストの暴力的支配を超える

  • 教育に対する新自由主義的アプローチ
    • ネオリベ→教育の商品化→測定主義の強化→Well-being の軽視 (cf. Thomson & Gill, 2020)
    • 試験に対するストレスと生活の健康や幸福感の関係 (cf. Koyama et al., 2014)
    • 「教育の目的が、学習への取り組みではなくテストで成功することになる」 (p. 6)。「試験に出るかどうか」が重要かどうかの基準となる=テストの自己目的化
  • 生徒の学習改善、教師の指導力向上、学校管理職の能力向上を目的としたハイステークス・テスト(ex. 日本でいう全国学力テスト)の問題点として、以下の4点を指摘:(1) 妥当性の問題/(2) 「テストのための指導」の助長/(3) 各地域・学校のコンテクスト・ニーズの無視/(4) (不必要な)教育改革の扇動
  • 【コメント】ここは日本の教育事情と照らして考えると面白そうなので、いくつかコメント。
  • (1) 「妥当性の問題」とは、「生徒の学習を客観的に測れているか?」「測定されるべき内容がそのテストで適切に測定されているか?」という問題。テストの性質上、何を出題とするか、また、何を正解とするかは作成者の恣意性に委ねられざるを得ないため、100% 客観性を担保することは不可能。本書の言い方を借りれば、「試験をする側が選んだ狭いレンズを通して現実をつくり上げている」 (p. 18) 。
    • 英語教育の例として、Native-speakerism が挙げられる。ハイステークスなテストでは公正な評価のために統一した基準が必要。その際、アメリカ・イギリス標準英語が規範とされることが多く、Native-speakerism の助長の恐れあり ( Kubota, 2021)。別の例としては、民間試験で測定される「コミュニケーション能力」と社会で求められる「コミュニケーション能力」の乖離(Kubota, 2020)。
    • 日本の全国学力テストは、行政側によって性質の異なる複数の目的が想定されている印象なので、いろいろ問題含みだと思う。具体的には、テストを行う目的が、「教員の指導改善」なのか、「生徒の学力調査」なのか、「教員・学校・自治体の評価」なのかが曖昧。曖昧というより、この3つが一緒くたになって活用されている印象で、ものすごくカオス。
  • (2) 日本の全国学力テストについて、文科省は「全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図る観点から,全国的な児童生徒の学力や学習状況を把握し,分析を行い,教育施策及び教育指導の成果と課題の検証や,その改善に役立てることを目的として」いるため、「仮に数値データの上昇のみを目的にしているととられかねないような行き過ぎた取扱いがあれば,それは本調査の趣旨・目的を損なう」(文科省, 2016)と述べている。しかし実際のところ、学力テスト直前に「テストのための指導」を行う事例は複数報告されている:(1) https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20180829-00094820 / (2) https://373news.com/_news/storyid/166212/?utm_source=dlvr.it / (3) https://www3.nhk.or.jp/lnews/kanazawa/20221013/3020013016.html

都道府県の得点が公表され、しかも各都道府県によっては市町村別の、さらには各市町村によっては学校別の得点が公表されることもある。首長や教育長、学校長は、点数を少しでも高くするべく、学校現場に対して、無言のまたは具体的な重圧をかけていく。
 教員は上からの重圧を受けて、全国学力テストのための対策に時間を割かざるを得ない。文部科学省が「事前対策しなくてもよい」と言ったところで、学校現場はそこから簡単に降りられるような状況ではない。教職員組合がみずから調査をおこない窮状を訴えているのも、そうした首長や教育長、学校長からの抗しがたい重圧があるからに他ならない。

    • テスト結果の活用を「教員・学校・自治体の評価」と紐づけた瞬間に、そのテストは教員・行政側にとってハイステークス・テストとなる。仮にテスト結果が教員の人事や給与、自治体の予算に関係しないローステークスなテストであれば、上記の記事で指摘されているような「重圧」はかかりにくい。一方で、テスト結果が教員の給与の昇給、あるいは、たとえ給与には影響が出ないとしても、教育委員会からの圧力の強化に寄与し得る場合、本来の教育目的から逸脱した指導が為される可能性がある。だからこそ、指導・調査・評価を一緒くたにして学力テストを実施するべきではない。特に、指導・調査と評価は明確に区別されるべきで、「テストのための指導」を引き起こすことなく教員の指導力向上を目的とするのであれば、テスト結果を人事や給与と絡めてはならない。その意味で、学力テストの本来の目的を達成するには、テストがローステークスであることが必要条件である。この点については以下の記事でも述べた:

sudos.hatenablog.jp

  • (3) ここは特にコメントなし。
  • (4) この点についてはハイステークス・テストのみが原因ではないと思うが、たしかにそうだなぁ、と感じた点。日本の学力テストでも都道府県ごとにランキングを発表して 各県の競争を煽っているわけだが、そうなってくると、教育目的の達成の基準が「順位が上がるか or 維持できるか」にすり替わってしまう危険性がある。1位以外の都道府県は1位を取り続けるまで「不十分」と見なされるし、仮に1位を取ったとしても、内田良氏の記事で紹介されていたように、1位であり続けることが目的化してしまいさまざまな弊害を及ぼし得る。そうして学校教育で果たすべき教育内容がどんどん肥大化していき、肥大化していくのみならず、本当に重要な教育内容が果たされなくなる。

文献メモ

  • Koyama A, Matsushita M, Ushijima H, Jono T, Ikeda M. Association between depression, examination-related stressors, and sense of coherence: the Ronin-Sei study. Psychiatry Clin Neurosci. 2014 Jun;68(6):441-7. doi: 10.1111/pcn.12146. Epub 2014 Feb 10. PMID: 24506541.
  • Schwartzman, R. (2013). Consequences of commodifying education. Academic Exchange Quarterly, 17(3), 41-46.
  • Thomson, G., Gill, S., & Goodson, I. (2020). Happiness, Flourishing and the Good Life: A Transformative Vision for Human Well-Being (1st ed.). Routledge. https://doi.org/10.4324/9780429464317

第2章 教育は関係のプロセスである

  • 本書で「テストに基づく評価」に対する代替案として提示されている「関係に基づく評価」の理論パート。
  • 本書では(おそらく)指摘されていないが、ここでいう「関係」の概念はドゥルーズ (Gilles Deleuze)を下敷きにしているように感じた(と偉そうなことを言っているものの、正直に言えばドゥルーズの著作自体を読んだことはなく、千葉雅也さんの『現代思想入門』で少しかじったくらいだが)。いくつかポイントを引いてみると、
    • 「関係を二人以上の独立した人間の出会いとみなす捉え方を転換させ、関係のプロセスが個人という概念に先行するという考え方」(p. 28)
    • 関係のプロセスは共創 (co-orientation) 的であり、かつ、可変的なもの
    • 「教師→生徒」という権力関係からの脱構築
  • ドゥルーズの「リゾーム」や「生成変化」「管理社会批判」と大いに関連するかと。「テストの基づく評価」では、本来多方向に広がっているはずの関係(=リゾーム)が「行政担当者→教師」「教師→生徒」という関係に限定される。さらに、標準化されたカリキュラムや厳格なテストがそのような権力関係を固定化する。まず初めに「A→B」という関係があって、そこに個人があてはめられていく——という構図。さらに、テスト結果を中心に成績評価が行われることで生徒同士の競争意識が芽生え、クラスメートは協働のためのパートナーというより、競争で勝つための敵とみなされる。つまり、本来多様であるはずのリゾームの糸がテスト評価によって断ち切られ、限定化されている——みたいに当てはめて整理できるかと。
  • この辺の話は、やはり「事例」「実践報告」が必要。まぁ、第2章は理論パートだから事例研究の紹介が無いのは当然として、第3章以降でその点に期待。

文献メモ