SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【雑感001】観光施策と言語政策

日本言語政策学会特別セミナーに参加した。
今日は第1回が開催され、

「言語政策の基礎1:言語の地位―流動化する地位をめぐって」山川和彦(麗澤大学教授)

という内容だった。せっかくなので、事前に山川さんの論文・書籍を読んで臨もうと思い、いくつか読んでみた。
流し読み程度だが、以下の文献に目を通した:

  • 山川和彦・法島正和・西川千絵 (2015) 「海外における日本人旅行者の言語的接遇事情:タイ・バンコクにおける事例研究」『麗澤大学紀要』98, 111-118.
  • 山川和彦・藤井久美子 (2017) 「観光における多言語事情」平高史也・木村護郎クリストフ(編)『多言語社会に向けて』くろしお出版
  • 山川和彦 (2019) 「日本のインバウンド観光施策における言語政策の展開と展望」『社会言語化学』22 (1), 17-27.

観光施策・観光言語を主な研究関心とされている。ふだん、日本の英語教育政策を中心に研究している私にとってはなかなか触れない領域であり、けっこう勉強になった。セミナーで何かしらコメントができるといいな、と思い事前にメモを書いて臨んだのが、セミナーでの内容は観光施策とはあまり関係のない内容で、ほとんど役に立たなかった(勉強したこと自体は全く後悔していないが。あと、セミナーの内容自体もたいへん勉強になった)。ちょっともったいない気がしたので、セミナーに向けて作成したメモをここに転載しておく。

言語表記における言語の「選択」

例えば、近年中国の観光客が急増しているが、日本語に配慮すれば、中国語での表記も考慮しなければならなくなる。あるいは、パブリックスペースでの表記も考慮しなければならなくなる。あるいは、パブリックスペースでの日本語表記を増やしすぎると、「日本人ばかりが多いホテル」と他の国の利用者から思われ、回避される場合もある。それらの理由から極力英語表記のみにとどめるホテルも少なくない。(山川・法島・西川, 2015, p. 114, 下線は引用者)

  • なるほど、この視点は持っていなかった。理想としてはなるべく多くの言語表記を載せるべきなのだろうが、翻訳にはコストがかかるため予算的な限界がある。そこで一部の言語を「選択」する必要が出てくるわけだが、それを価値中立的に行うことはむずかしい。というのも、どの言語表記を載せて、どの言語表記を載せないかという選択には、イデオロギー的要素が多分に含まれているからだ。
  • その点、英語表記は比較的、価値中立的であると言える。仮に英語表記の多いホテルに外国人が宿泊したとしても、「このホテルは英語圏の者ばかりが多いホテル」とはたぶん思わない。「英語は世界共通語だから」というロジックで正当化されるからだ。このことを考慮すると、仮にそのホテルが自国語と英語表記しかなかったとしても、それは多言語主義に疎いわけではなく配慮した結果、コストとリスクからそのような選択をした——という可能性もある。
  • 同様のことが山川 (2019) でも指摘されている:

上のように多言語が制度化されて一方で、多言語という概念の曖昧さが残る。国際共通語という視点での英語というステータスが意識されてくると、表示等の物理的制約、景観性により他の言語表記が省略され、結果的に多言語=英語化が進展する可能性がある。(山川, 2019, pp. 24-25)

  • 上でも指摘されているように、表示や看板にはその映り方、つまり景観性も重要な要素となる。こうした分野は「言語景観 (linguistic landscape)」という分野で研究が行われている。
  • 来日する外国人の中には当然、英語に習熟していない者もいるわけで、案内表示や看板の言語表記には英語以外の外国語を取り入れる必要がある。この点については観光施策でも近年重視されるようになっており、山川 (2019) の整理に従えば、2013年に、2020年東京オリンピックパラリンピック開催が決定されて以降、ますます強化された。
  • 一方で、言語景観の観点から、英語以外の外国語表記を肯定的に捉えない意見もある。そこには、見栄え・美観の観点からの批判だけではなく、偏見に基づく批判も存在する。例えば、Twitter にて、習志野市の市議会議員が列車内の言語表記について次のように発言していた:

https://twitter.com/narashido/status/1560581509668651009?s=20&t=x52YPtMFrjIgGcIizzblGw

  • この発言はあくまで一人の市議会議員の発言にすぎないが、現時点で「いいね」が1.2万件押されているのは、ちょっと驚きでもあり、ショックでもある。
  • 「日本語と英語だけでいい」という発言は、英語以外の外国語を母語とする外国人への配慮が欠如している。駅名から考えるとこの列車は成田空港周辺の駅を結ぶものであり(ええ、わたし、ハングル読めるんです。文字が読めるだけですが)、観光客が多く乗る列車であるはず。当然、その中には、英語以外の外国語を母語とする方も乗車するはずだし、別にその方がハングル語が読めるとは限らないけど、載せておいてマイナスになることはないだろう。
  • このような偏見を正す機能として、学校の外国語教育はどれほど有効なのか。中高では、「外国語」教育という名称であるものの、実際は、英語以外の外国語を学んでいる中高生はきわめて少ない*1
  • 大学まで進学すれば英語以外の外国語を学ぶ機会は増えてくるものの、たいていは英語に加えてもう一つの外国語を学ぶくらいで、それが「多」言語教育と言えるのかはビミョー。
  • 大学における多言語教育については、國枝 (2017) の指摘が示唆に富む。

(前略)「多言語教育」では、多くの言語を知ることも重要ですが、言語の実用的能力だけではなく、世界や文化の多様さを知ることもそれに劣らず重要だと考えます。そのことも含み込んで、大学での外国語教育を通して、学生のどのような能力を育成するのか、その目的をきちんと明らかにする必要があるでしょう。(p. 36)

  • 中高と比べてますます授業時間数も少なく、中高のような「入試」というはっきりした目標がない中で、成り行きとして大学で外国語教育を行うことはほとんど意味がないのではなかろうか。教育哲学的な問いかけにはなってしまうが、その意味で、「なぜ外国語を学ぶのか」についてもっと議論されるべきだし、それに基づいて、大学での外国語教育の目的についても明らかにしていくべきだ。

*1:文科省の2012年のデータによると、英語以外の外国語を学習している高校生は、全体のおよそ1%。