SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ031】三浦 (2021)「『教員間の協働』の計量分析」

下記文献を大学院の演習で発表する機会があった。記録として,発表資料の中の考察をこちらに転載しておく。
先に断っておくと,やや辛口のレビューにはなってしまったものの,本論文を起点としてさまざまなことを考えることに繋がり,たいへん勉強になる論文だった。

書誌情報

第5章2節;
三浦智子 (2021)「『教員間の協働』の計量分析」秋田喜代美・藤江康彦(編)『これからの教師教育研究―20の事例にみる教師研究方法論』(pp. 277-289) 東京図書


以下,本章の「はじめに」より引用

私の研究分野は教育行政学・教育経営学といった学問領域になりますが,具体的には,学校組織の経営や,学校を支える制度・政策,保護者・地域住民との連携といったことに注目し,学校における日々の活動や教育委員会による実際の取り組みを観察・分析しながら,学校教育のよりよい環境整備のあり方について追及したいと考えています。本節では,著者の論文(三浦, 2014)の内容を紹介しながら執筆の過程を振り返ることを通して,「教員間の協働」を対象とした計量分析を行うことの意義や可能性,研究上の課題について考えます。(p. 277)

参照論文:三浦 智子 (2014)「教員間の協働の促進要因に関する計量分析」『日本教行政学会年報』40, 126-143. https://doi.org/10.24491/jeas.40.0_126

論点 (1) 量的研究にできること/できないこと

 三浦 (2014) では被説明変数として「教員間の協働」を置き,その説明変数を計量調査によって明らかにすることを目的としている。以下,「一般化可能性」「解像度」の観点から,本論文のレビューを試みたい。


量的研究の長所として一般化,すなわち,多数のケースを検討することで母集団の値が推測できる点がよく指摘される。しかし,量的研究であれば必ずしも一般化が可能というわけではない。このことは,三浦 (2021) の「計量分析が可能とするのは,仮説を『法則』として定立することではなく,経験的に一般化できるか否かという視点に立ちつつ,多くの個別ケースを観察することに過ぎない」「一般化され得る正当なものであるかどうかについては,別途,理論的な裏付けが行われる必要があります」(p. 284, 下線は引用者) という指摘からも同様の趣旨が読み取れる。ただし,ここでの「経験的に一般化できるか否かという視点」「理論的な裏付け」という説明が具体的に何を意味するのかわかりにくい。特に前者の「経験」とは「経験則」のようなものだろうか。だとしたら,量的研究で得られた知見が一般化可能かどうかは,個人の認識に合うか/合わないかという問題になり,きわめて属人的になりやすい。


一方で,「理論的な裏付け」については端的に回答可能である。それは対象者の抽出法(選び方)である。最も理想的な抽出法はランダム抽出(無作為抽出)である。具体的には,(1)母集団を名簿などをもとに確定し,(2)その母集団から調査対象者を乱数などを用いてランダムに選び出す作業を意味する。では,なぜランダムサンプリングをすることが必要なのか。通俗的な理解は,ランダムに選ばないと偏りが出るから――となるだろう*1 。例えば,母集団を全国の大学生とする調査をつくば駅の改札口前で実施すれば,多くは筑波大学の学生だろうから偏りが生じる。当然のことながら,そのサンプルに基づく結果を日本の大学生全体に一般化することはできない。


本研究は関東地区の小学校(全5108校)の内の20% を無作為抽出し,1024校の小学校を対象に質問紙調査を行っている(回収率は30.76% である)。そのため調査対象者を見る限りでは,本研究の母集団は「関東地区の小学校」と言える。しかし,分析結果や結論を見ると,関東地区に限定せず「日本の小学校」に向けた示唆や提言が見られる。その意味で,本研究は「日本の小学校」への一般化が志向されているように思われる*2。もしそうであれば,関東地区の小学校が日本の小学校を代表する根拠についての記述が欲しいところだが,特にそういった説明は見られない。さらに,今回のサンプリングが日本の小学校全体と比べてどのような特性を有しているのかについての記述も見られない(例えば,サンプルの学校規模が全国平均と比べて大きいのか少ないのか)。果たしてここでの知見を「日本の小学校」に当てはめていいのかどうか,疑問の余地がある。


次に,統計分析を行う上で必要な操作化・指標化に伴う解像度の低下について述べていく。筒井 (2021)が指摘するように,「『解像度』という観点からいえば,基本的に質的データの方がそれが高い(きめ細かい)ことのほうが多い」(p. 93)。以下,具体的に説明していく。


本研究での鍵概念である「教員間の協働」は,(1)指導方法・内容に関する教員間の相互支援,(2)教材研究・単元開発に関する教員間の相互支援,(3)教員間の授業見学の頻度――の3変数が用いられている。これらの変数が「教員間の協働」と関連があることは経験的に肯定できるものの,特に根拠があるわけではない。また,本論文ではこれら3つの変数の主成分得点を用いているが,これらの変数をなぜ足し合わせていいのかについての理論的説明がなされているわけではない。マストではないが,信頼性分析(クロンバッハのα) についての記述を追加してもよかったのではないか(あるいは戦略的に記していないのか)。


加えて,校長に関する質問が人事上の質問(校長職務経験年数,勤務校在任年数)に限定されており,「2.2. 校長のリーダーシップへの遡及の限界」という節で説明があった割には,分析にその点が考慮されていないように感じる。最後に,本論文でも最後に触れられているように,この調査が「校長の認識」に基づく回答である点にも注意が必要である。分析結果からは,保護者の参画が教師間の協働に有意な影響をもたらす様子は観察されなかったものの,あくまでこの回答は「校長がイメージした保護者の教育関心の高さ」であって,その意味で「保護者の教育関心の高さ」の解像度が高いわけではない点に留意が必要である(もちろんその解像度の低さを犠牲にすることで数量化が可能となり,それによって重要な知見が得られるという点も強調しておきたいが)。

論点 (2) 「教員間の協働」や「学校風土」とは一体何なのか

論点(1) で述べた「解像度」の問題とも関連するが,そもそも「教員間の協働」とは何なのか。本論文の<注3>では,「『教員間の協働』の定義は多岐にわたる」(p. 141) と記し,Lavie (2006) による定義を参照したうえで,「④再構成的言説(経営の変革を志向した専門職共同体,組織的な学習指導)」の意味で「教員間の協働」を用いると記されている。素朴な感想ではあるが,これは注ではなく本論に含めるべきではないだろうか。「教員間の協働」は本論文の鍵概念である上に,三浦自身も述べるようにその定義が多岐にわたるのであれば,本論における概念の明確な定義は不可欠であろう。


このことに関連して,私の理解力の問題かもしれないが,「教員間の協働(あるいは高い信頼関係・社会関係資本といった学校組織風土)がいかなる環境の下で醸成・維持されるのかといった点は殆ど解明されていない」(p. 128) という記述は,その指摘を否定こそしないものの,理解が追いつかない。「教員間の協働」のみならず,「学校組織風土」や「学校風土」についてもその定義が多岐にわたるため,何を言っているのかよくわからない。


Wang & Degol (2016) では,「学校風土 (school climate)」の理論や生徒に与える影響,測定方法と分析方法についての先行研究がレビューされている。彼らの分析によれば,学校風土は多次元的 (multidimentional) な概念であるにもかかわらず,その多次元性を考慮した分析を行っている先行研究は少ない。また,「学校風土」の定義が研究者間で異なるうえに,明確な説明が記されていない先行研究も少なくないため,合意可能性がかなり怪しい。これらの問題をふまえ,彼らは,「学校風土」という概念の明確な定義と,それに基づく精緻な研究デザインの構築を提唱している。具体的には,先行研究のレビューをもとに,学校風土を academic climate, community, safety, institutional environment の4つのドメインに分類している。この分類に従えば,三浦 (2014) が言及する「教員間の協働」は community に分類されるであろう。Wang & Degol が指摘するように,「学校風土」について言及する際は,その概念の複雑性や多次元性に注意する必要がある。換言すれば,「学校風土」という用語が指す範囲を明確にしたうえで,その効果や意義について論じることが求められる。先の記述は,おそらく読者の理解を助けるために追加した記述だと思われるが,「学校風土」の多義性ゆえにかえって誤解を招きやすい説明となっている。

論点 (3) 研究をどのように政策的示唆に結びつけるか:研究者はどこまで足を踏み入れるべきか

「政策的示唆」という言葉を聞くと,どうしてもParkhurst (2016) による警告を思い出してしまう*3。 具体的には,「研究者と政策立案者の棲み分けをハッキリ意識しよう」(p. 25) という指摘。彼曰く,研究者にできることは質の高いエビデンスを生み出すことのみで,実際にどういった政策を実施するかは政策立案者の判断による。その意味で,エビデンスは政策立案者に情報を「伝える」のみで,道筋を「示す」わけではない。例えば,もし仮に「少人数制学級は生徒の学力に正の影響を与える」というエビデンスがあるとしても,少人数制学級を実際に施策として実施するかは教員数や研修にかかるコストがどれくらいかかるか,それに見合う便益が得られるか,社会からのニーズに応えられているか——などの政治的判断をもとに実施するか否かが決定される。そもそも,どんなに良質なエビデンスであろうと,その研究内容がアジェンダと何の関係も無いのであれば、情報を「伝える」存在ですらない。この厳しい警告を読んで以降,「政策的示唆」という文言について良くも悪くも身構えてしまうようになった。


本論文の結果についても同様のことが言える。調査の結果,教員集団の規模が大きい学校ほど,教員間の協働関係が行われやすいという結果が得られたわけだが,このエビデンスを基に,「小学校の教員数を拡充すべきだ!」というのはあまりに安易だし,非現実的である。このことは,「地域特性や少子化の影響により,小規模校の増加傾向は否めない」(p. 140) というように論文中でもその限界についての説明が付されている。そのうえで,「学校の内部過程において教員間の協働を促進できない学校に対し,教育委員会の指導助言はこれを補うものとして機能することが期待される」(p. 140) というように,教育委員会による指導助言の有効性については,政策的示唆のひとつとして記述しているように読み取れる。小学校教員数の拡充と比べれば,ずいぶんと控えめな政策的提言であり,その分反発も起きにくいが,インパクトは小さい。大胆な政策的示唆は現実に即していないことが多く一蹴されやすい一方,コストパフォーマンスの問題やその施策の実現可能性を考慮すると,控えめな政策的示唆しか書けないというジレンマがここにある(もちろん,ものによっては,あえてコストパフォーマンスを述べることで,提案したい政策の正当化がはかられる場合もあるだろうが)。

*1:より詳細な説明については,筒井淳也 (2023)『数字のセンスを磨く』pp. 196-197 が参考になる

*2:これには,「一般化」という言葉が有する曖昧さも関係しているだろう。質的研究への批判,あるいは,量的研究への強みとして「一般化可能性」がたびたび言及されるものの,その言葉が独り歩きしていることが多く,どのような母集団を想定した「一般化」であるかが説明されていないことが少なくない

*3:この文献については,本ブログでも以前検討した: sudos.hatenablog.jp