SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【雑感002】子どもの声や意思決定の参画:権利論と教育論に着目して

過日,「子どもの声や意思決定の参画」について大学院の演習で学ぶ機会があった。以下,備忘録として記録を残しつつ,それに関連して,今後の個人的な研究テーマについても検討してみたい。

「子どもの権利」と「意思表明権」

まず,子どもの権利条約第12条について触れておきたい。以下は外務省による訳 (L)。

第12条

  1. 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
  2. このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。


端的に言えば,「自己の意見を表明する」と「聴取される機会」の2点が記されている。つまり,子どもの権利のひとつとして,子どもによる意思表明権は含まれる—―と聞いて,すとんと胸に落ちる日本人は一体どれくらいいるのだろうか。


視点を変えて言えば,「子どもの権利とは具体的になに?」と質問されたときに,即興で何を思いつくだろうか。暴力から守られることや差別をされないといった(不適切な言い方かもしれないが)「わかりやすい権利」はすぐに思いつく。しかし,12条の意思表明権まで明確に答えられる自信は,少なくとも半年前の自分にはない。だって,児童・生徒時代に自分の意見を表明する機会や,それが尊重される経験をしたことがないもの…… と個人的な感想を書いたものの,これが私に限った話でないことは,例えばセーブ・ザ・チルドレン (2023) による調査 (L) からも読み取れる。当調査によれば,「子どもの権利としてふさわしいものを選んでください」という質問で,「すべての子どもは、大人と同じように1人の人間であり人権を持っている」を選択した教員は88.2% であったのに対して,「子どもは自分と関わりあるすべての事について意見を表明でき,その意見は正当に重視される」を選択した教員は64.1% であったと報告されている。つまり,教職課程を修了し,日々教育活動に励む教員でさえ,3割以上が子どもの権利として意思表明権を認識していないということになる。世間一般の認識はこれよりも低いことが予想される。


このように日本では,意思表明権が子どもの権利の一つとして認識されにくい向きがある。「子どもの意見を大切にしよう」「子どもの意見に耳を傾けよう」という声を聞くことはたびたびあっても,それを権利論として捉えるよりも,規範論,つまり,何となくそうあるべき—―という態度で捉える者が多いのではないだろうか。


以上は「子どもの声/参画」の「権利論」についての話。正直言って,半年前の私はここで理解が止まっていた。というより,「子どもの声/参画」=「権利論」という偏見が強かったせいか,論文を読んでも頭の中に入ってこなかった。しかし,以下の区分けを意識するようになってから,この分野についての見通しがだいぶ良くなったように思う。


  1. 権利論としての子どもの声/参画
  2. 教育論としての子どもの声/参画
  3. 学校・政策改善のための子どもの声/参画


権利論としての子どもの声/参画

1 については先述した通りで,子どもの声/参画を子どもが一人の人間として有する権利として捉えることを指す。「子どもはだんだんと人間になるのではなく,すでに人間なのだ」というヤヌシュ・コルチャックの言葉が連想される。基本的人権は,当然のことながら年齢や条件に関係なく,すべての人間に保障される。その中には,先述した子どもの意思表明権も含まれる。


注意すべきは,どれほど子どもの意思表明権が尊重されようと,子どもが教育を受ける対象であるという事実は変わらないという点だ。つまり,子どもは主権者であると同時に,大人によって教育される存在・守られる存在でもあるという二面性に目を向ける必要がある。後者のみに力点が置かれるとパターナリズムに陥る可能性がある。かといって,子どもにすべてを委ねればいいというわけでもない。子どもの発達・成長には大人による支援が不可欠であるからだ。「権利論としての子どもの声/参画」について検討する際は,この二つの立場のせめぎ合いを念頭に置く必要がある。
テクニカルな言い方をすれば,子どもの権利条約における12条「意思表明権」と3条「子どもの最善の利益」のパランシング・アプローチの問題と言い換えられる。この点について,Lundy (2007) は次のように述べる:

[...] while children's best interests must be a primary consideration, their right to have their views given due weight cannnot be abandoned on the basis that the adults in their lives know what is best for them. Children's rights theorists have reflected for some time about the legitimate limits to children's autonomy, conclusing that it should only be restricted where the child's preferred course of action denies the child the right to an 'open future' (Feinberg, 1980), intereferes with their development interests (Eekelaar, 1986) or restricts their life choices in an irreparable way (Freeman, 1996). (p. 938, 下線は引用者)


子どもの「開かれた未来」への権利が剥奪される場合,子どもの発達の利益が妨害される場合,または,子どもの人生の選択が回復不能な形で制限される場合に限り,子どもの自律が制限されるべきだと述べられている。頷けはするものの,否定の仕様が無いというか。結局のところ,ケースバイケースで考えないといけない—―という感じ。例えば,大学進学を望まない子どもに対して,将来の選択肢を狭めないために進学を強制するべきなのか。英語が大嫌い(だけど数学が大得意)な生徒に対して,進学の可能性や将来の可能性のことを考えて,その学習を強制させるべきなのか。当時は嫌々やらされても,後々振り返ってみたら,強制されてでもやっておいて良かった—―となる可能性もある。一方で,「教育によって『将来』の幸せを保障するだけでなく,子供が長時間生活する施設として,子供が『今,幸せであること』を保障すること」(遠藤, 2022, p. 43)の重要性についても忘れてはならない。

教育論としての子どもの声/参画

2 については,主権者教育,シティズンシップ教育,民主主義教育,市民生教育という言葉で表されることも多い。この点については,以下の文献がたいへん勉強になった:


荒井文昭・大津尚志・古田雄一・宮下世与兵衛・柳澤良明 (2023)『世界に学ぶ主権者教育の最前線―生徒参加が拓く民主主義の学び』学時出版 (L)


主権者教育に関して改めて思うことは,主権者教育や民主主義教育の責任を社会科教育だけに押し付けたくはない—―という点。教科内容との関連からどうしても社会科に期待が集まることはわかるが,ひとつの教科のみで実践を行っても意図した効果は得られないだろう。渡部 (2019) の説明を借りれば,現代社会の複雑化,社会問題の複雑化により,「分析するにしても解決を試みるにしても,一教科としての社会科,そして人文・社会諸科学の専門家としての社会科教師の力だけでは対応できないまでに複雑化している」(p. 57)。他の教科との連携もそうだし,やはり学校全体のカリキュラムとの連関も考えたい。主権者教育が学校文化や生徒の実情と相まってカリキュラムとしてどのように落とし込まれ,それが各教科のレベルでどのように設計・実施されるか。日本ではあまり連想されにくいが,例えば先の文献の第2章ではシカゴ学区のサービスラーニングの実践として,次のような事例が報告されている (pp. 61-62)。

【英語】人種差別の歴史や移民の権利,障害者の権利といったテーマを取り上げた文学作品を読み,関連団体での活動や啓発活動を通じてそうした問題に取り組む。
【芸術】地域の英雄の物語を残すための作品を制作する。
【芸術】学校内や社会の問題について広く世に訴えかける作品を制作する。
【理科】環境問題について学び,地球温暖化水質汚染の調査や啓発活動に取り組む。
【理科】生態系について学習し,コミュニティ・ガーデンをつくる。
【社会科】移民関連の政策や問題を学習し,関連団体と連携して活動を行う。
【社会科】選挙についての学習の一環で,投票を呼び掛ける活動を計画し実践する。
【外国語】必要な単語を学習したのち,介護施設で高齢者に聞き取りをし,記録に残す。


私の専門的には【外国語】が気になる。上記はかなり簡略化された説明なのでその実情については詳しくはわからないが(もう少し知りたい),外国語・英語を通じた主権者教育の可能性については,日本でももっと検討されてよい。


日本の英語教育でも,主権者教育に関連する内容は多少なりとも行われていると言える。というより,戦後の日本の英語教育では,人格育成・国際理解といった技能面以外の要素に焦点が当てられていた(寺沢, 2014)。当時と比べれば,今日ではそのようなヒューマニスティックな英語教育論は薄まり,どちらかと言えば英語の技能面・実用面に重きが置かれている(cf. 江利川, 2023)。ただ,中学の教科書では昔と変わらずキング牧師のスピーチが引用され続けているし,高校の教科書についても環境問題やジェンダー問題などの英文が好まれる当たり,英語教育の実用面に完全に舵を切っているわけではないし,むしろ実用面の一本化に対する抵抗の向きもあるのだろう。


英語教育では,「主権者教育」という位置づけで語られることは少ないものの,「グローバル人材/グローバル市民の育成」や「グローバル・シティズンシップ教育」と結び付けて語られることはきわめて多い。ただ,そのような文言が教育学者によって想定される「主権者教育」の一つと言えるかどうかはかなり怪しく,得てして政策・施策を推進するためのスローガンやバズワードとして消費されることが多く,実質的な意味を伴っていない場合が多い (cf. Kubota & Takeda, 2021)。


上記のような教科目的論について検討する際は,もちろん各教科ごとに議論を展開することも重要ではあるが,生徒の目線から見ればあくまで各教科はワンオブゼムに過ぎない—―という点を忘れたくない。市民性教育に関して言えば,それは「社会科だけでなく,さまざまな教科で取り組むことができる」(古田, 2023, p. 61)わけで,社会科だけに責任を押し付けず,他の教科を通じた実践も考えたい。その際,各教科の個人プレーに委ねるのではなく,やはり学校全体での取り組みの視点が重要になってくる。小学校を除けば,教師が日常的にみえる世界は自分の担当教科がメインだろうが,生徒はそれらを総体として経験するということを忘れてはならない。


少し長くなったので,`「3. 学校・政策改善のための子どもの声/参画」についてはあらためて後日検討してみたい。