SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ021】Nitta, A. K. (2008). The politics of structural education reform. Chapter 1 メモ

書誌情報:Nitta, A. K. (2008). The politics of structural education reform. Routledge. https://doi.org/10.4324/9780203929742


日本の1980年代から2000年代初頭の教育政策過程をあらためて勉強し直したいと思い、本書を再読。
要約というより、気になったところのメモとコメントです。完全に自分用のメモですが、あまり日本語でレビューされていない文献だと思うので、一部の方々には参考になるかと思い投稿します。すべてのチャプターを扱うかはわかりませんが(私のモチベーション次第です)、まずは Chapter 1 についてのメモとコメント。

  • 2000年代初頭から、日本もアメリカも、教育改革のアジェンダ形成にNPM が多大な影響を与えるようになる。NPM的教育行政では、カリキュラムや教授法、教育資源——といった「インプット」には言及しない。その代わり、業績、つまり「アウトカム」に注目が集まる。要するに、「出口」の基準をきつく設定するが、その過程をどうするかは各学校に裁量を持たせある程度自由にやらせる。この体制のことを本書では、"loose-tight" arrangement と呼んでいる。

Reform in the United States versus in Japan

  • 日本とアメリカの教育行政の制度改革の違い
  • アメリカと日本の教育行政、双方に影響を与えたグローバル・トレンドとして、次の3つを提示している:
    1. 「学校教育の失敗=経済競争の敗北」という恐れ
    2. NPM の教育行政への浸透 
    3. 教育関係者(特に教員組合)の弱体化による行政の複雑化・競争化
  • 上記の3つはキングダンの「政策の窓」モデルで使用される、「問題の流れ (problem streams)」「政策の流れ (policy streams)」「政治の流れ (political streams)」の区分と重なる。本書の整理に従えば、1980年代は問題の流れと政策の流れは変化したものの政治の流れが変化しなかった。結果、政策の窓は開かず、大きな教育改革は行われなかった。一方、1990年代・2000年代は政治の流れに変化が生じ、教育行政に大きな変化が生じた。

The 1980s: Agendas change, But politics do not

  • 1980年代に入り「学校教育の失敗=経済競争の敗北」という考えが強まり、学校教育への期待がますます高まる。アメリカでは1983 年に「危機に立つ国家 (Nation at Risk )」というレポートが発表され、日本では1984年に臨時教育審議会 (Ad Hoc Council on Education) が設立されたことからわかるように、この時期、教育改革の必要性が日本・アメリカの双方で強く訴えられた。
  • 興味深いのが、経済に危機感を抱いていた両国とも、経済状況は「上向き」であったという点。にもかかわらず、上記のような恐れを抱いていたのはなぜか。筆者はその理由として、両国とも、急速なグローバル化に対する懸念があった——と指摘している。
  • この点については、本書の記述だけではなかなか理解しづらかったので、伊豫谷 (2021) を読み返した。1980年代前後のグローバリゼーションの変動について、伊豫谷は次のように分析している:

グローバリゼーションという語が頻繁に使われるようになったこの半世紀あまりのあいだに、世界経済は大きく変容しました。一九六〇年代以降の世界経済編成を主導したのは、欧米諸国にある製造業の巨大多国籍企業でした。しかし一九八〇、九〇年代以降には、これまでの巨大銀行とは異なる新たな金融資本が台頭し、それが支配する膨大な国際過剰資本によって、世界経済は大きく組み替えられてきました。さらに二一世紀に入って、デジタル・インフォメーション・テクノロジーの展開によって、膨大な情報が国境を超える世界を生み出し、新しい技術革新が急速に進みました。グローバリゼーションといわれる時代は、これまで以上に劇的な変動の時代でした。(p. 23)

  • 上記で指摘されている、1980年・90年代の世界経済の劇的な変化が各国に一種の「焦り」をもたらし、その影響が教育政策の分野にも伝播し、1990年以降の教育改革につながった点は否めない。
  • 伊豫谷は「国際化」と「グローバリゼーション」という用語の違いとして、前者は好景気時代の日本で使用され<肯定的>な意味合いで用いられる傾向にあった一方で、後者はバブル崩壊で深刻な経済格差が問題として浮上した1990年代以降に頻繁に使用されるようになり、「「外圧」と同義的に、否定的な意味で使われることも多かった」(p. 39) と分析している。

The 1990s and 2000s: Teachers' unions split and create more chaotic politics

  • 日教組の弱体化
  • 先述した3つのグローバル・トレンドが重なる。財政状況の悪化による教育改革への期待、並びに、「グローバリゼーション」という一種の "脅し" が重なり、いよいよ教育行政に大きな動きが生じる。
  • とはいえ、「経済競争で勝ち抜くには、大胆な教育改革が必要!」というスローガンはあっても、具体的なビジョンがあるわけではない。「今の教育はダメだから変える必要がある!」と言っているだけで、じゃあ何を理想とすればいいのか、誰がそれを決めればいいのか——という点はスカスカ。何を決定するにしても、正当性 (legitimacy) をどう担保するのか、というのが課題になる。そこで良いように使われたのが「国際基準」「グローバルスタンダード」。要するに、改革の実施根拠をウチではなくソトに求めた。以下、著者のまとめを引用:

In other words, although global trends and norms have helped to define what is legitimate, domestic policymakers still have considerable leeway to select which reforms to actually enact. (p. 8)

  • [コメント]このロジックは現在でもよく使われる。「他国もやっているから、ウチでもやるべき」というのは外的妥当性を一切考慮していない危険な発想にもかかわらず、謎の説得力があるようで政策の導入根拠としてよく使われる(例えば、小学校英語の教科化、CEFR の導入とか)。

The politics of structual education reform: Politicians' symbolic politics and bureacrats' turf wars

National politicians' symbolic politics

Fredercick Hess argues that this symbolic strategy works especially well in education because education is a highly visible issue area and because the poorly understood natue of teaching and learning makes evaluating the success of reform extremely difficult. (p. 10)

  • 教育はイシューとしては目立ちやすいが、その成果については評価しにくい——という指摘。
  • [コメント]日本の教育政策では、「評価しにくい」というより「評価しない」と言ったほうが適切かもしれない。政治家にとって教育政策は、「アピールしやすく、かつ、リスクも低い」という、好都合な政策の一つなのではないだろうか。
  • [コメント]政策立案者にとって教育政策の評価を行うことはリスクしかない。仮に自分が推進した施策について「効果はなかった」という評価が下された場合、自分の非を認めることになるため立身出世に悪影響を及ぼす可能性もある。だから、行政側が自発的に政策評価を行うことを期待してはならず、そこにどう強制力を持たせるかが課題だと思う。

Elite bureauctars' turf wars

  • 政策の調整役として、官僚の機能が強まる。
  • 官僚の裁量が大きくなり、全国共通テストや研修など、官僚の権威を発揮できる施策が好まれる一方で、チャータースクールや学校選択制のような権力分散につながる施策は避けられるようになった——と分析されている。

Moderate structural reform dominates national education agendas

  • "moderate" な教育政策が採用されるようになる。ここでいう "moderate" とは次の2つを含意する。
    1. インプットではなくアウトカムを規制する
    2. 既存の公教育システムから逸脱しない [authority should be restructured within the existing public education system.] (p. 12)
  • [コメント]NPM の受容と忌避——と言える? NPM の要素のひとつである「アウトプットの統制」は取り入れる一方で、積極的に民間企業を公教育に参入させることは避ける。大学入試でのTOEFL 利用の話が、1987年の臨教審答申で提案されたにもかかわらず実施に移らなかったのは、さすがにそこまでやっちゃうと "moderate" じゃなくて "extreme" でしょ——みたいな判断があったのかもしれない。
  • [コメント]やや脱線するが、日本の英語教育政策を振り返ってみると、その場その場では "moderate" な施策が採用されながら、着々と本来の目当てに近づいて行っている——という印象を受ける。例えば、小学校英語は、2011年に5, 6 年生の外国語活動が必修化され、2020年に5, 6年生の教科化が実現、3, 4 年生の外国語活動が必修化された。あるいは、大学英語入試改革については、2006年にセンター試験にリスニング問題が導入され、2020年に民間試験導入が一時は決定され、それは頓挫したものの、新テストの共通テストではリスニングの得点比率がリーディングと同等のものとなった。どの施策も、100% 賛成する人もいなければ、100% 反対する人もいない、ちょうどいい (moderate) 政策案を採用してきたようにうつる(ほめてない)。その時々の賛成派・反対派の意見を慎重にみて、その折衷案を巧みに採用してきたとも言える(ほめてない)。これがもし、2011年に5, 6 年生の英語教科化であったり、2006年に大学入試に民間試験を導入——という話になれば、あまりにも "extreme" なので世間から猛反発を喰らったはず。
  • [コメント]2 については、その傾向は若干薄れつつあると思う(少なくとも日本では)。小川 (2019) で分析されている通り、2009年の政権交代以来、「受給サイド」寄りの教育政策が推進されている傾向にある(例えば、高校教育無償化・私学の授業料負担)。教育の投資先が「供給側」から「受給側」にシフトしており、いわゆる教育バウチャー的発想が興隆しつつある。英語教育の分野でも、民間試験(特に英検)の学校教育での活用はきわめて積極的に為されていて、受験料の助成を行っている自治体も存在する。

An emerging structural reform crisis? Gaps between reform goals and enacted policies

  • Introduction でも述べられていた通り、「出口」はきつく規制し説明責任も求める一方で、「入口」の規制は緩め各自治体・学校に裁量を持たせる、"loose-tight" arrangement が目標とされた。しかし実際のところは、カリキュラムの標準化・全国共通テストなど "tight" な施策はバンバン打つものの、"loosening" な施策(クラスサイズ・教員の給料など)はほとんど実施されず、現場はどんどん疲弊していくばかり。結果的に "tight-tight" arrangement と化していた——という指摘。うまい! 現実はものすごく辛いけど。