SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

CELES2023(6月25日) で発表しました

中部地区英語教育学会 (CELES2023) で発表させていただきました(2023年6月25日)。

本発表を聞いた方の中で、何かご意見・ご感想のある方は、ぜひご連絡いただけますと幸いです (so.sudo1998@gmail.com)。また、発表スライドの送付希望があれば喜んでお送りしますので、ぜひご連絡ください。

Work in Progress セッションということで、現在構想中の研究テーマについて発表し、貴重なご意見をたくさんいただきました。Work in Progress セッションは本学会では今年が初めての実施とのことですが、参加させていただいた身としては、途中段階の研究発表が行えるということでとても気軽に参加することができました。加えて、実際に分析を行う前に、リサーチデザインや分析の見通しについての貴重なご意見がいただけるので、今回の発表を通じてかなり研究が前進したと実感しています。ぜひ来年以降も継続していただきたい取り組みだと思います。ありがとうございました。

今回の発表を通じて、あらためて事例研究における「事例」選択の重要性を痛感しました。リサーチデザインではその点がまだまだアマアマだったので、いただいたご助言をもとに洗練させていきます。また、教育政策・教育経営学の知見を取り入れることに注力した結果、本来の強みであるはずの英語教育のドメイン知識に関する検討が不足していた印象なので、その点も今後の検討課題としたいと思います。

以下、記録として発表タイトルと発表要旨を載せておきます。

発表タイトル

中等英語教育を対象とした教育課程経営論の検討 (Work in Progress セッション)

発表要旨(一部加筆修正)

教育の質向上・維持を達成するために、国家は教育政策を通じてある種の統制を行う。その最たる例が学習指導要領であろう。各教科の指導内容や教育課程のありようは少なからず学習指導要領に規定されている。2017, 2018年の学習指導要領改訂により、例えば中学校英語科では授業を英語で行うことが基本とされ、高等学校英語科では発信力を高めるための科目として「論理・表現・Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」が新設された。このような国家による制度的統制は学習指導要領に限定されず、入試もまたそれに含まれる。入試は選抜機能としての側面だけでなく、昨今の大学入試改革(例:英語民間試験活用、大学入学共通テストへの情報Ⅰの導入)が象徴するように、教育現場における授業改善を目的とした教育改革の一手段として用いられている(荒井, 2020)。ここで問題となるのが、このような国による統制が実際にどの程度の拘束力・影響力を教育現場に与えるかという点だ。複数の先行研究(ex. 金子, 1995)で指摘されているように、国による教育政策は教育現場に直線的に影響を与えるのではなく、県・地方・学校・教員といったアクターあるいは社会的関心・イデオロギーを説明変数として、屈折していく可能性がある。つまり、教育実践の改善を目的とした教育政策を検討する際は、国によるマクロな教育政策のみに注目するのではなくその実施過程にも目を向け、政策を駆動させる社会的要因・構造的要因・組織的要因を検討する必要がある。しかし、筆者が専門とする英語教育政策に関して言えば、上記のような実施過程に配慮した政策形成はほとんど為されていないのみならず、このような関心に基づいた研究蓄積もかなり心許ないと言える。以上の問題関心をもとに、博士論文執筆に向けた調査では、英語教育政策の分析に加え、高校を対象としたエスノグラフィー調査を行い、現場で起きていることを明らかにすることを目指す。本発表ではその研究手法について現時点における構想を報告する。

【読書メモ028】『何のためのテスト?』(ガーゲン&ギル, 2023)3~8章

前回のつづき

sudos.hatenablog.jp

第3章 関係に基づく評価に向けて

  • 本章は2章で検討された「教育=関係のプロセス」という枠組みをどのようにして「評価」に落とし込むか――についての内容

大切なのは、関係の豊かさに焦点をあてることで、公教育の工場モデルの重要な問題の一つである倫理面の貧しさを解決する道が開かれるということである。教育は主観的な感情ではなく客観的な事実を扱うべきだという考えから、倫理や人間の価値観の問題が取り上げられることはほとんどない(p. 64)

  • cf. Gergen (2020); Gill & Thomson (2020)

文献メモ

  • Gergen, Kenneth. (2020). Ethics in Education: A Relational Perspective. 10.1017/9781108769778.003.
  • Gill, S., & Thomson, G. (Eds.). (2020). Ethical Education: Towards an Ecology of Human Development (Cambridge Education Research). Cambridge: Cambridge University Press. doi:10.1017/9781108769778

第4章 関係に基づく評価—初等教育

  • 第4章・第5章が事例紹介パート。
  • 各事例について、そこまで厚く書かれているわけではなかった。1~3章で説明された「関係に基づく評価」の理論的説明に当てはまる事例をちょっとずつ紹介——という感じ。紹介されているのはアメリカやイギリスの学校での事例が中心なので、日本の文脈を考慮するとそれはむずいだろうなぁ、というのもいくつかあった。
  • 本書の全体的なスタンスとして言えることだが、「テストに基づく評価」を徹底的に批判し「関係に基づく評価」をべた褒めする程度が、少し度を越している印象を受けた。当然のことながら、「テストを実施する=悪」とは必ずしも言えないわけで、逆に、「関係に基づく評価=善」とも必ずしも言えない。特に日本のようなテスト文化がきわめて強い教育環境の中で、いきなり「テストに基づく評価」から「関係に基づく評価」へと切り替えるのは大混乱を招くだろうし、そもそも、日本の教育制度の多くがテストを前提として構築されているため、切り替えすら困難、ただの夢物語として終わるだろう(もっとも、著者たちはイギリス・アメリカの教育事情を想定してこの本を書いたのだろうから、この指摘は著者たちへの批判というわけではないが)。その意味で、「関係に基づく評価」についての実践報告をするなら、正の側面だけでなく負の側面も記し、どのようにして解決がはかられたのかという記述まで欲しかったところ。

第5章 関係に基づく評価—中等教育

  • 第4章に同じ

第6章 授業評価への関係論的アプローチ

  • 教育政策の目標や改善計画、評価方法のプロセスから、教員という授業について最もよく知るアクターが排除されてしまっている、という指摘 (cf. Green & Allen, 2015; Kane, Kerr, & Pianta, 2014)。
  • 「業績評価」「目標設定」「カリキュラムデリバリー」という用語が教育の商品化をますます強化している (Spring, 2015)
  • 以下の引用は、本書の全体的な主張を振り返るうえで、concise なまとめ

経営の言説を採用することは、多くの点で有害である。生徒をパッケージ化された「製品」に加工するという、教育の道具的な目的のみが強調されがちだからだ。このような言説では、教育は「生産」行為とみなされる。教師が経済効率性のために管理され、型にはめられてつくられるものとなるとき、学校における関係の文脈から疎外される。教師は賃金労働者となり、教育の崇高な側面は製品づくりに格下げされる。教師による教育への貢献は、事実上、「教える機会」への関与に縮小される。生徒のテストの点数で教師の「アウトプット」が測られ、教師のパフォーマンスが比較可能になる。こうして、システムは、「良い」「効果的」な教師には報酬を与え、「悪い」「効果的でない」教師には罰を与えるというアメとムチのメカニズムを使い、教師のパフォーマンスを向上させようとする。教師は固有の価値観をもっているのではなく、機能を果たすことによってのみ価値を獲得する(pp. 123-124)

  • 専門職コンミュニティにおける相互的な学びの促進 (p. 127)
    • 英語教育の分野で言うと、communities of practice(実践協同体)に相当する内容かと。
    • 相互的な学びの方法として、メンタリングとピア評価が紹介されている。それらの方法の意義を説明したうえで、実施を阻む要因として、時間/信頼/粘り強さを挙げている。

文献メモ

第7章 学校評価の関係論的アプローチ

  • 全国一斉テストについて
    • エリート層による支配の強化につながり得る (Leman, 1999; Guinier, 2015)
    • パフォーマンスの向上に寄与しているかについても検討の余地がある (Wrigley, 2012)
  • 本書では階層の再生産という視点から「テストに基づく評価」が批判されているが、階層の影響を受けるのは「テストに基づく評価」だけでなく「関係に基づく評価」でも(程度の差はあれ)同じではないだろうか。

文献メモ

第8章 関係に基づく評価と教育改革

  • エマージェント・カリキュラム:カリキュラムを静的ではなく動的なものとして捉える (cf. Gill & Thomson, 2012)
  • 「関係に基づく評価」を妨げる実務上の要因(←以下はそれに対する本書の反論)
    • 教員への負担 ← でもteacher-centered じゃなくなるから、理屈的には教員への負担は減るはずだよーという反論
    • 評価の厳密さ ← でも従来の「テストに基づく評価」も社会階層の影響を多分に受けていて価値中立的でないよーという反論(ただし、この反論は「関係に基づく評価」の厳密さをどう担保するかに対する答えにはなっていないと思う)
    • アカウンタビリティ ← そもそも従来の測定についても、テストの妥当性が保障されていない点や、スコアの解釈に文化的構成や社会経済的地位が考慮されていないため、説明責任を果たしているとは言えない(これも上と同じで、「関係に基づく評価」のアカウンタビリティをどう担保するか、という答えにはなっていないと思う)
    • ナショナルスタンダード ← そもそも学校教育の評価基準を第三者機関が設定するのがおかしいのではないかという反論。
    • 入学者選抜 ← ここは本書全体を通して批判されている点。
  • アカウンタビリティ」については、「たとえ近隣の学校であっても、生徒の文化的構成や社会経済的地位などには違いがあり、その結果、テストの点数にも影響が出るだろう」(p. 180) という筆者の指摘については、付加価値モデル (Value-Added Model) を採用すればその問題はある程度解決されるように思う。ただ、それでもいろいろ問題含みなのだが(詳しくは以下の記事を参照)。仮に「関係に基づく評価」を推進するにしても、アカウンタビリティをどう担保するかという視点は必須。関係に基づく評価を実現するためにはそれまで以上に学校の裁量を拡大する必要がある。裁量を拡大すればするほど学校側の責任も重くなるわけで、アカウンタビリティの必要性が増す。自由になればなるほど、説明責任はますます重くなるという逆説。

sudos.hatenablog.jp

  • 「ナショナルスタンダード」の反論内容は、まぁわからなくもないんだけど、いまの(特に日本における)趨勢を考えると、教育水準をめぐる自治体比較や都道府県比較や国際比較の勢いを止めることはむずかしいだろうなぁと。
    • 日本の英語教育を例として挙げれば、民間試験(特に英検)が英語教育の評価基準として使われているが、これがどのようなポジティブ/ネガティブな影響を与えているのかはあまり検討されていない。また、2013-2014 年の政策会議でも問題視されたように、教育に民間が介入すると利益相反の疑いが絡んできてしまうため、仮に教育の評価基準を第三者機関に委ねるとしても、さらにそれを監視する「第四者機関」の設置が必要になり…… 冗談交じりに書いたものの、このことは政策会議でも言及されたことがあり(ex. 「大学入試のあり方に関する検討会議」第11回)、その際はイギリスのOfqual という第三者機関を事例として紹介されたうえで、割と真剣に検討されていた印象。
  • 「関係に基づく評価」を妨げる社会的要因
    • 経済効率性・生産性の向上を最大目的とした管理・監視・測定主義の強化
    • 「管理の重視および倫理や価値観への無関心」(p. 186)
    • 新自由主義、NPM

【読書メモ027】『何のためのテスト?』(ガーゲン & ギル, 2023)1章・2章

書誌情報:Gergen,J.K., & Scherto R.G. (2020). Beyond the tyranny of testing: Relational evaluation in education. Oxford Acadeic. https://doi.org/10.1093/oso/9780190872762.003.0001 [東村知子・鮫島輝美(訳)(2023)『何のためのテスト?:評価で変わる学校と学び』ナカニシヤ出版]


私の界隈ではけっこう話題になっている文献。
「テストに基づく評価」をWell-being の観点からズタズタに批判し、代替案として「関係に基づく評価」を提案している。
入試改革を専門とする私にとっては非常に重要かつ面白そうな本なので、のんびりとコメントを書いていこうかと。

第1章 テストの暴力的支配を超える

  • 教育に対する新自由主義的アプローチ
    • ネオリベ→教育の商品化→測定主義の強化→Well-being の軽視 (cf. Thomson & Gill, 2020)
    • 試験に対するストレスと生活の健康や幸福感の関係 (cf. Koyama et al., 2014)
    • 「教育の目的が、学習への取り組みではなくテストで成功することになる」 (p. 6)。「試験に出るかどうか」が重要かどうかの基準となる=テストの自己目的化
  • 生徒の学習改善、教師の指導力向上、学校管理職の能力向上を目的としたハイステークス・テスト(ex. 日本でいう全国学力テスト)の問題点として、以下の4点を指摘:(1) 妥当性の問題/(2) 「テストのための指導」の助長/(3) 各地域・学校のコンテクスト・ニーズの無視/(4) (不必要な)教育改革の扇動
  • 【コメント】ここは日本の教育事情と照らして考えると面白そうなので、いくつかコメント。
  • (1) 「妥当性の問題」とは、「生徒の学習を客観的に測れているか?」「測定されるべき内容がそのテストで適切に測定されているか?」という問題。テストの性質上、何を出題とするか、また、何を正解とするかは作成者の恣意性に委ねられざるを得ないため、100% 客観性を担保することは不可能。本書の言い方を借りれば、「試験をする側が選んだ狭いレンズを通して現実をつくり上げている」 (p. 18) 。
    • 英語教育の例として、Native-speakerism が挙げられる。ハイステークスなテストでは公正な評価のために統一した基準が必要。その際、アメリカ・イギリス標準英語が規範とされることが多く、Native-speakerism の助長の恐れあり ( Kubota, 2021)。別の例としては、民間試験で測定される「コミュニケーション能力」と社会で求められる「コミュニケーション能力」の乖離(Kubota, 2020)。
    • 日本の全国学力テストは、行政側によって性質の異なる複数の目的が想定されている印象なので、いろいろ問題含みだと思う。具体的には、テストを行う目的が、「教員の指導改善」なのか、「生徒の学力調査」なのか、「教員・学校・自治体の評価」なのかが曖昧。曖昧というより、この3つが一緒くたになって活用されている印象で、ものすごくカオス。
  • (2) 日本の全国学力テストについて、文科省は「全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図る観点から,全国的な児童生徒の学力や学習状況を把握し,分析を行い,教育施策及び教育指導の成果と課題の検証や,その改善に役立てることを目的として」いるため、「仮に数値データの上昇のみを目的にしているととられかねないような行き過ぎた取扱いがあれば,それは本調査の趣旨・目的を損なう」(文科省, 2016)と述べている。しかし実際のところ、学力テスト直前に「テストのための指導」を行う事例は複数報告されている:(1) https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20180829-00094820 / (2) https://373news.com/_news/storyid/166212/?utm_source=dlvr.it / (3) https://www3.nhk.or.jp/lnews/kanazawa/20221013/3020013016.html

都道府県の得点が公表され、しかも各都道府県によっては市町村別の、さらには各市町村によっては学校別の得点が公表されることもある。首長や教育長、学校長は、点数を少しでも高くするべく、学校現場に対して、無言のまたは具体的な重圧をかけていく。
 教員は上からの重圧を受けて、全国学力テストのための対策に時間を割かざるを得ない。文部科学省が「事前対策しなくてもよい」と言ったところで、学校現場はそこから簡単に降りられるような状況ではない。教職員組合がみずから調査をおこない窮状を訴えているのも、そうした首長や教育長、学校長からの抗しがたい重圧があるからに他ならない。

    • テスト結果の活用を「教員・学校・自治体の評価」と紐づけた瞬間に、そのテストは教員・行政側にとってハイステークス・テストとなる。仮にテスト結果が教員の人事や給与、自治体の予算に関係しないローステークスなテストであれば、上記の記事で指摘されているような「重圧」はかかりにくい。一方で、テスト結果が教員の給与の昇給、あるいは、たとえ給与には影響が出ないとしても、教育委員会からの圧力の強化に寄与し得る場合、本来の教育目的から逸脱した指導が為される可能性がある。だからこそ、指導・調査・評価を一緒くたにして学力テストを実施するべきではない。特に、指導・調査と評価は明確に区別されるべきで、「テストのための指導」を引き起こすことなく教員の指導力向上を目的とするのであれば、テスト結果を人事や給与と絡めてはならない。その意味で、学力テストの本来の目的を達成するには、テストがローステークスであることが必要条件である。この点については以下の記事でも述べた:

sudos.hatenablog.jp

  • (3) ここは特にコメントなし。
  • (4) この点についてはハイステークス・テストのみが原因ではないと思うが、たしかにそうだなぁ、と感じた点。日本の学力テストでも都道府県ごとにランキングを発表して 各県の競争を煽っているわけだが、そうなってくると、教育目的の達成の基準が「順位が上がるか or 維持できるか」にすり替わってしまう危険性がある。1位以外の都道府県は1位を取り続けるまで「不十分」と見なされるし、仮に1位を取ったとしても、内田良氏の記事で紹介されていたように、1位であり続けることが目的化してしまいさまざまな弊害を及ぼし得る。そうして学校教育で果たすべき教育内容がどんどん肥大化していき、肥大化していくのみならず、本当に重要な教育内容が果たされなくなる。

文献メモ

  • Koyama A, Matsushita M, Ushijima H, Jono T, Ikeda M. Association between depression, examination-related stressors, and sense of coherence: the Ronin-Sei study. Psychiatry Clin Neurosci. 2014 Jun;68(6):441-7. doi: 10.1111/pcn.12146. Epub 2014 Feb 10. PMID: 24506541.
  • Schwartzman, R. (2013). Consequences of commodifying education. Academic Exchange Quarterly, 17(3), 41-46.
  • Thomson, G., Gill, S., & Goodson, I. (2020). Happiness, Flourishing and the Good Life: A Transformative Vision for Human Well-Being (1st ed.). Routledge. https://doi.org/10.4324/9780429464317

第2章 教育は関係のプロセスである

  • 本書で「テストに基づく評価」に対する代替案として提示されている「関係に基づく評価」の理論パート。
  • 本書では(おそらく)指摘されていないが、ここでいう「関係」の概念はドゥルーズ (Gilles Deleuze)を下敷きにしているように感じた(と偉そうなことを言っているものの、正直に言えばドゥルーズの著作自体を読んだことはなく、千葉雅也さんの『現代思想入門』で少しかじったくらいだが)。いくつかポイントを引いてみると、
    • 「関係を二人以上の独立した人間の出会いとみなす捉え方を転換させ、関係のプロセスが個人という概念に先行するという考え方」(p. 28)
    • 関係のプロセスは共創 (co-orientation) 的であり、かつ、可変的なもの
    • 「教師→生徒」という権力関係からの脱構築
  • ドゥルーズの「リゾーム」や「生成変化」「管理社会批判」と大いに関連するかと。「テストの基づく評価」では、本来多方向に広がっているはずの関係(=リゾーム)が「行政担当者→教師」「教師→生徒」という関係に限定される。さらに、標準化されたカリキュラムや厳格なテストがそのような権力関係を固定化する。まず初めに「A→B」という関係があって、そこに個人があてはめられていく——という構図。さらに、テスト結果を中心に成績評価が行われることで生徒同士の競争意識が芽生え、クラスメートは協働のためのパートナーというより、競争で勝つための敵とみなされる。つまり、本来多様であるはずのリゾームの糸がテスト評価によって断ち切られ、限定化されている——みたいに当てはめて整理できるかと。
  • この辺の話は、やはり「事例」「実践報告」が必要。まぁ、第2章は理論パートだから事例研究の紹介が無いのは当然として、第3章以降でその点に期待。

文献メモ

【読書メモ026】2020年の民間試験導入問題をめぐる "fairness" についての考察 (Butler & Iino, 2021)

書誌情報
Butler, Y.G., Iino, M. (2021). Fairness in College Entrance Exams in Japan and the Planned Use of External Tests in English. In: Lanteigne, B., Coombe, C., Brown, J.D. (eds) Challenges in Language Testing Around the World. Springer, Singapore. https://doi.org/10.1007/978-981-33-4232-3_5

  • 2020年の大学入試への英語民間試験導入をめぐる議論を「公正性 (fairness)」の観点から分析した論文
  • 阿部 (2017) や南風原 (2018) でも指摘されているCEFR対応表について、次のように批判している:

Critically, the table was not based on MEXT's own validation efforts; instead, MEXT simply put together information reported by the test developers, but the credibility of some of that information (i.e., validity evidence) is questionable. Curiously, MEXT modified the table a couple of times without clearly explaining the changes. For example, TOEIC has a listening and reading test (TOEICL&R, 990 points in total) and a speaking and writing test (TOEIC S&W, 400 points in total), and the sum of the scores of these two tests (1390 points) was used inthe table released by MEXT in July 2017. In the version released in March 2018, however, the TOEIC speaking and writing score was multiplied by 2.5 (1000 points) and added to the TOEIC L&R score, resulting in a total of 1990. Moreover, MEXT simply replaced the old numbers with the new aggregated scores without verifying their compatibility with CEFR (Hato 2018). Unexplained changes were made in all four domestic tests as well. (p. 50, 下線は引用者)

  • Fariness
    • Kane (2010) による fairness についての概念整理をもとに、民間試験導入を分析している。
      • Kane, M. (2010). Validity and fairness. Language Testing, 27(2), 177–182. https://doi.org/10.1177/0265532209349467
      • Kane によると、validity と fairness の関係はそれらの用語をどう定義するかで変わってくる。定義の仕方次第で、validity が fairness を包摂することもあればその逆もあり得る。両者を広義に捉えればほぼ同じ概念を指す、なんてこともあり得る。とはいえ違う用語である以上、それぞれが特に注目・強調する箇所は異なる。そこで Kane は両者の用語を "Are the proposed interpretations and uses of the test scores appropriate for a population over some range of contexts?" (p. 177) という共通の問を検討する用語であると説明したうえで、それぞれについて次のように説明している。

Validity theory has tended to focus on the accuracy and appropriateness of score-based interpretations and decisions about all of the individuals in the population of interest. Analyses of fairness have tended to focus on group differences and on differences in the accuracy and appropriateness of interpretations and decisions across groups, which are defined in terms of race/ethnicity, gender, age, and so on. (p. 181)

      • 【コメント】 印象としては、validity が対象とするのは主に「テストそのもの」なのに対し、fairness は「社会」にも関心が拡げられているように感じた(とはいえ、後の procedural/substantive まで考慮に入れるとそうは言えない気もするが)。
      • Kane は fairness をprocedural due process と substantive due process の2つの観点から考察している。Butler & Iino (2021) でもこの概念整理をもとに、民間試験導入のfairness について検討している。
      • 簡単に言ってしまえば、前者が「すべての受験者が平等に、同じ方法で評価されているか」、後者が「テストの点数の解釈やそれに基づく決定が合理的 (reasonable) で適切 (appropriate) かどうか」を意味する。この定義だけ読んでも後者についてのイメージが掴めなかったのだが、要するに SES (Socioeconomic Status) の観点を含めて公正性を評価しよう——ということだと思う。具体例として、アセスメントやスコアの解釈が valid and fair でも、そのテストで必要となるスキルを受験者である子どもが家庭で学ぶ機会が保障されていなければ substantively unfaird だよね、みたいなことが述べられている。
      • 【コメント】この概念整理は果たしてどれくらい有効なのだろうか。個人的には、上記の procedural fairness と substantive fairness は包摂する内容に差がありすぎるので、両者を "fairness" と一括してまとめることに違和感を覚えた。そもそも、validity/fairness で二分してさらに procedural/substantive に二分しているわけだが、validity と procedural fairness は指している内容がほぼ同じであろう(あえてその2つに分けることで説明力が上がっているとは思えない)。例えば、equality/equity の方がスッキリしそう。
    • まず、民間試験導入について、validity と (procedural) fairness の観点から考察している。CEFR対応表の怪しさ、テスト費用のコスト(経済格差だけでなく地位格差も含む)、採点の怪しさ(高校英語教員や大学講師を採点官として多く雇っている点で)について、validity と fairness が担保されていない点が指摘されている。この点は阿部 (2017) と南風原 (2018) でも検討されているが、英語文献で民間試験導入について論じた先行研究はそう多くないので引用文献としては有用。
    • 肝心の "substantive fairness" についての記述をまとめると以下の通り:
      • 民間試験の一部には学習指導要領外の内容も含まれる → そのための対策が必要 → 進学校の生徒は対策の機会を享受しやすい・裕福な家庭は教育機会を提供しやすい → substantively unfair
      • 日本の英語教育政策では、procedural fairness だけでなく、substantive fairness についても検討すべき、という指摘。
    • 【コメント】繰り返しにはなるが、あえて procedural/substantive という二分法を使う必要はあるのだろうか。というより、「テストそのものの評価」と「経済格差」の話は明確に分けて検討した方が混乱を招きにくいと思う。今回の substantive fairness について言及したいのであれば、ブルデューの理論とかを引いた方がうまく説明できそう。

【読書メモ025】日本でいう "ALT" は韓国ではコストカットの対象になっていた! (Kathleen, 2014)

以前、ALT の制度的機能について以下の記事で考察した。

sudos.hatenablog.jp

要約すると、日本のALT 制度はNPM的発想からすれば真っ先にコストカットされそうなのに、根強く残り続けている。なぜか。そこには、ALT が生徒の英語力を向上させるという実利的価値以外に、その学校の商品価値の向上に寄与している実態があるのではないか。つまり、「A高校にはALT がいて、B高校にはいない=A高校は英語教育に力を入れているが、B高校は力を入れていない」のように、ALT の存在が保護者・世間に対する広告塔として機能している可能性がある——といったことをまとめた。

上記の内容について考えるうえで、非常に参考になる論文を読んだ:


書誌情報:Lee, Kathleen. (2014). The Politics of Teaching English in South Korean Schools: Language Ideologies and Language Policy. Publicly Accessible Penn Dissertations. 1339.
https://repository.upenn.edu/edissertations/1339


上記論文は韓国の英語教育政策について、特に "Teaching English in English" policy に注目して調査・分析したもの。その中で、native English-speaking teaching assistants (以下、NS)の雇用についての記述があり、NPM とのつながりを考えるうえで非常に興味深く読んだ。以下、要点ごとにまとめておく。

A few teachers speculated that the TEE certificate program would be eliminated because of the political tendencies of the newly elected superintendent of SMOE, Kwak No-hyun. Sincehis election to office in fall of 2010, Kwak has reduced the budget for English education in support of universal free lunch programs and afterschool programs for underprivileged students. (p. 92)

  • SMOE は Seoul Metropolitan Office of Education の略。TEE は Teaching English in English の略。
  • Kwak No-hyun がソウル教育庁長官に就任以来、NPM的発想が強化され、さまざまな教育施策のコストカットが為される(この論文では "NPM" という用語は用いられていない)。
  • この流れを受けて、NS の大胆な削減も為された:

With the uneven implementation of TEE and TEE certification, critical scrutiny of the TEE policy reveals broader political and economic agendas. Hilda and Nicole noted, in a conversation with me, their suspicion that an increase in the number of TEE certifications would be used to justify discontinuing the costly practice of employing native English-speaking teaching assistants (NESTAs) (FN: 12.07.28). In 2012, SMOE aimed to reduce 4.4 billion won (USD $3.9 million) of 96 the budget by letting go 255 NESTAs employed at Seoul high schools, except for 20 teaching at special foreign language schools (Seung-hye Yim, 2011). By February 2013, middle school positions would also be eliminated leaving approximately 1,000 NESTAs only at elementary schools (S. Kim, 2012). Hilda reasoned that the decision to eliminate secondary school positions was perhaps due to the fact that secondary school teachers majored in English and also there is an extreme focus on test preparation, thus making NESTAs expendable since they were hired to teach conversation. (p. 96, 下線は引用者)

  • 上記の通り、2012年にソウル教育庁は高校のNS を削減することで、 44億ウォン(日本円で約4億6,000万円以上)のコストカットを実現した。この施策の正当化として機能したのが TEE certification であった。韓国では、日本でいう「英語は英語で教える」政策を実現させるために、大規模な教員研修制度を2009 年に導入した。簡単に説明すると、教員として一定の経験年数、英語指導プログラムの受講、オンラインコースの受講、TEE Test of Knowledge という試験での合格、実際の現場指導での監察官による評価を経て、TEE certificate というものが贈呈される(ちなみに、TEE Ace certificate と TEE Master certificate の2種類がある。後者の方が基準は高い)。
  • 日本ではALT が英語教育推進の「広告塔」として機能している一方、韓国ではその役割をネイティブスピーカーに担わせるのではなく、TEE certificate に担わせた。そうすることで、ネイティブスピーカーの雇用を大幅に削減することに抵抗がなかったと言える。もしかすると、各学校で TEE certificate の保有率をアピール材料として使っていたりするのだろうか。
  • 以下の指摘は日本の状況と比較しながら読むと、非常に面白い。

Elementary-school teacher, Dana, also believed that one objective of TEE certification was a cost-cutting measure to “send native speakers home”
explaining that, “some native speaker are not trained. They are not teacher. I think. I can feel when I teach English in English camp, also I know that their English is better than me. But teaching is different, right?” (INT: 11.01.05). While Dana and other teachers acknowledged that there were some effective NESTAs, many teachers I interviewed felt that the cost of recruiting and hiring them did not yield the returns they expected, citing lack of teaching expertise and practical training. (p. 96, 下線は引用者)

  • ネイティブスピーカーは指導者としての訓練をまともに受けてない! という批判は日本でも(一部の研究者を中心に)たびたび為されるが、あまり世間的には浸透していないイメージ。でも、いざ ALT制度を廃止することに舵を切ったら、韓国の例のように真っ先に廃止の根拠として使われるのではないだろうか。

【読書メモ024】移民政策と言語政策 (Khan, 2022)

書誌情報:Kamran Khan(2022)The Securitisation of Language Borders and the (Re)production of inequalities. TESOL Quarterly. https://doi.org/10.1002/tesq.3186

読書会で上記文献を読みました。以下、ログとしてメモを残しておきます(要約ではありません)。

1. Introduction

1.1. Language requirements

[...] an increasing shift toward 'Ius Linguaram' (Fortier, 2021; Gramling, 2016) in which language becomes a basis for citizenship claims.

  • 市民権が血統主義でも出生地主義でもなく、「言語主義」へとシフトしつつある——という指摘。
  • 西洋における multiculturalism は「失敗」したと言える。そのロジックは以下の通り:ホスト国が移民に居住スペースを与える→その恩恵にもかかわらず、信頼を裏切る行為が為される→政府によるもっと厳しい介入が必要だ!
  • Schinkel (2018) は上記の変動を "multiculturealism" と表現した (スペルをよく見ればわかるように、"multiculturalism" ではない)。要するに、慈悲を持って移民たちに介入するのではなく、彼ら・彼女らが integrated されていないという現実 (reality) をふまえ、もっと厳しい態度で接するべき——という動きのこと。

2. Securitisation and borders

  • 言語テストを設ければ当然受験者は「合格者」と「不合格者」に分けられるわけで、その弁別によって "inside" と "outside" のイメージも付加される。つまり、テストがあるから、"secure" な存在と "insecure" な存在も創出される。 加えて、言語とナショナリズムの結びつきの強さから、「当国の言語を話せる人間=安全/話せない人間=危険」というレッテルが貼られやすく、monolingual norm を助長する。

2.1. Language borders

2.2. A typology of language and bordering

  • "There are three main forms of borders in relation language assessment (Khan, 2021) all of which contribute to citizenisation." (p. 1462)

1. settlement linguistic borders : ある国に定住するための言語テスト
2. internal linguistic borders : 正式な言語テストではないが、何らかの主張 (claims) を行わせる(例として、宣誓 (oath) が挙げられている)
3. extraterratorial linguistic borders : "assessments which take place in other contries in order to enter another where settlement is desired." (p. 1463) 例として、spouse reunification や family reunification が挙げられている。要するに、市民権を獲得した人の家族や配偶者を呼び寄せられるか——についてのアセスメント。

    • 【コメント】 2 がよくわからなかったが、oath / citizenship でググってみたところ、以下のサイトを見つけた:https://www.canada.ca/en/immigration-refugees-citizenship/services/canadian-citizenship/become-canadian-citizen/citizenship-ceremony.html#oath このサイトに書かれている通り、カナダでは "internal linguistic borders" として、セレモニーにて60語程度の宣誓文と国歌斉唱が求められるらしい。
    • 【コメント】 カナダのバンクーバーに滞在している方の話によると、3 の実態はけっこう観察できるらしい。近所の中国出身の方が英語をほとんど使えないにもかかわらず、市民権を得ているらしいが、これはまさに "family reunification" の例だと言える。
    • 【コメント】 3 について、日本に移民した際に家族を呼び寄せられるかについては、子どもと妻は呼びやすいが、親については基本的に不可らしい。

3. Racial and intersectional implications

  • 言語テストにおいて非ヨーロッパ人が直面する困難さをヨーロッパ人やアメリカ人が味わうことはない(だって、英語が母語だから。テストを受ける必要もないし、受けるとしても言語能力的に苦労しない)。このように、今日の言語テストに基づく移民受入は、特定の人種・特定の言語を選好する構図となっている。

3.1. Costs and social class

  • 近年の動向として、ホスト国公認の言語試験の受験を自国のみで可能とする対応が増加している。つまり、ある国への移住を希望し当政府公認の言語テストを受ける際、その国以外で受験することはできず、必ず現地で受験しなければならない。当然のことながらそれには受験費用だけでなく旅費を含めた諸々の費用が必要となり、受験機会の時点で経済的選抜が行われていると言える。

3.2. Time

  • 市民権獲得のために費やした時間は帰って来ない——という点が割と見落とされがちという指摘。

4. Conclusion

General Comments

  • 全体的に抽象論に終始していて、具体的な事例の紹介がほぼなかった。
  • 当論文では、移民問題を安全性 (securitisation) との関連から述べている。この点について、日本はどうなのか。永吉 (2020) の分析によると、日本での移民が増加することで、「日本文化が損なわれる」や「働き口が奪われる」に肯定した回答者は3割にとどまった一方で、「犯罪発生率が高くなる」「治安・秩序が乱れる」に肯定した回答者は6割を超えたことが報告されている。永吉が指摘するように、移民増加と犯罪との関連について指摘する際は、「移民の増加が起こっている地域で生活環境が悪化する」ことと、「移民が生活環境を悪化させている」ことを区別して考察する必要がある (p. 150)。
  • 今回知ったが、在留資格としての「永住」と「帰化」は、前者が文字通り永住権のことでいわゆる「グリーンカード」に相当する一方、後者は「日本国籍取得」のことを指す。そして日本の特殊事情として、永住権よりも日本国籍の方が取得しやすいという点が挙げられる。永住権申請には、原則10年以上の滞日が必要なのに対し、帰化申請の要件は5年。ただし、永住権申請は「高度人材」に関しては1年(みじか!)で申請が可能で、この異例の短さも日本の特殊事情といえる。
  • 読書会では、イギリスの市民権テストが論点として挙がった。どうやらイギリスの市民権テストでは、イギリスの一般生活に関する問題だけでなく、イギリスの文化や歴史についてかなり細かい点まで問われるらしい(紹介してくれた方曰く、専門家が解いてもけっこう難しいレベル。仮にイギリスで育ったとしても、きちんとした教育を受けていなければ解答できないレベル)。この意図は何なのか。川上 (2019) は Morris (2017) の分析をもとに次のように説明する:

(前略)政府が申請者に対してイギリスの文化や歴史等に含まれるイギリス的価値や基本的考え方を理解させようという意図が強くなったからである。つまり、申請者がイギリス社会へ統合されることがより一層強調されるようになったと見る。その結果、オーストラリアやカナダ、アメリカ出身の申請者のテスト合格率は微減だが、アフリカやアジア諸国からの申請者の合格率は20~30% 減少した。このことを、Morrice (2017) は政府が社会に統合しやすいと考える移民を選別し、一方で、アフリカやアジアから流入する社会的弱者、特に女性を排除していると指摘する。さらに、市民権取得にかかる費用が以前よりも高額となっていることも、申請者にとってはイギリス市民となるための壁となっているという。結局、「市民権テスト」は、自律的で、経済的自立が可能な個人という先進国の比較的共通の価値観をもつ移民を受け入れ、それ以外を排除する仕組みとして機能しているのではないかと指摘する。その上で、「市民権テスト」の合格が必ずしも社会統合に繋がるとは限らないと主張する。(pp. 84-85)

【読書メモ023】EBPM のダークサイド(杉谷, 2022)

書誌情報:杉谷和哉 (2022) 「EBPMのダークサイド:その実態と対処法に関する試論」『評価クォータリー』63, 3-16.
http://www.iam.or.jp/quarterly/ev063.html


今週の政策情報学会に向けてちょっとした予習(傍観するだけだが)。
なかなか勉強になった。英語教育政策にも応用できそうなヒントがたくさんあった。

  • 「狭義エビデンス」と「広義エビデンス
    • 狭義エビデンスは、RCTのような厳密な手法に基づいた実証分析から導出されたエビデンス
    • 広義エビデンスは広い意味での(客観的な)政策の根拠。
    • 狭義エビデンスはその厳密さゆえに、定義範囲が狭いことに加えて、実施できる事例が少数。一方、広義エビデンスは定義範囲の広さゆえに厳密さに欠ける。「これらを十把一絡げにEBPMと呼称して論じていることは問題含みであり、混乱を招いているのも否めない」(p. 3)。
  • EBPM のダークサイドとして、テクノクラシー・権力・政策実施・時間、の4つの論点を挙げている:
  • テクノクラシー
    • Wicked problem (Head, 2022):奥田 (2019) によると、「問題自体の定義がステイクホルダーごとに異なる問題」 (p. 192)。くわえて、問題自体の性質にかかわる性質として、「問題どうしの相互連環、知識の不足、不確実性の三点にまとめられる。」 (p. 192)
    • ウィキッド・プロブレムのように、問題の捉え方そのものが多様である場合には、公共政策はある一定の価値に依拠せざるを得ず、その調停は民主的なプロセスによってでしか解消されえないのである」(p. 5)

  • 権力
    • Peter Triantafillou (https://warwick.ac.uk/fac/sci/dcs/people/peter_triantafillou/) の議論に基づく。
    • 業績管理 (performance management) と EBPMの対比を通じて、EBPM の問題点が指摘されている。前者は成果主義に根差すため「手続き<成果」なのに対し、後者はエビデンスに基づく実践を重視するため「成果<手続き」という性質を有する。後者の問題点として、Triantafillou は、現場の専門性の軽視・特定の政策の選好、の2点を指摘している。
    • 問題点の2つ目については、エビデンスハイアラーキーの危険性についても言及されている。エビデンスハイアラーキーは、エビデンスの質の標準化には貢献するかもしれないが、それによる弊害もある——という指摘。その点については、このスライドを思い出した:https://speakerdeck.com/takehikoihayashi/she-hui-falsetamefalseebidensuping-jia-hexiang-keta-5x3falsejian-tao-waku-zu-mi 
    • 重要なのはエビデンスの強力さ云々だけでなく政策目的と一致しているか、もっと言えば、その問題設定は妥当なのか——という点。
    • 【コメント】 業績管理とEBPM のどっちがいいか——という話ではなくて、この枠組みをもとに、どちらか一方に偏っていないかチェックすることが重要だと思う。成果主義だけだとその実施過程が疎かになってしまうだろうし、エビデンス重視だけだとその実施過程の文脈が無視されてしまう。ちなみに英語教育政策は、圧倒的に「業績管理」に傾いていると言えるはず。

  • 政策実施
    • 先述した、Triantafillou が指摘した一つ目の問題(現場の専門性の軽視)は、政策実施にまつわるものと考えられる。すなわち、普遍的なエビデンスの導出を目指すあまり、現場での実践知が軽視される——という指摘。
    • 以下の指摘はいろいろ考えさせられた:

トリアンタフィロウも指摘していたように、EBPMは手法の統制を通じて、「効果的」な政策を実施する企てでもある。教師の裁量を統制するEBPMの方針は、教育の成果に着目し、そのプロセスはブラックボックスに入れてしまう。これはEBPMが因果関係を重視することに起因するのだが、この点にこそ、教育学者がEBPM に反対する理由があると言われている(村上2020)。(p. 7, 下線は引用者)

    • 【コメント】 村上 (2020) で指摘されているように、一般的に教育学は、(1) 帰結よりも過程重視、(2) 成果よりも価値や規範重視、という2点の特徴を抱えているはずだが、英語教育はそれに逆行している印象。近年盛んに議論されている入試改革は、過程よりも帰結重視だし、価値や規範よりも成果重視。その意味で、本紙の以下の文章は、英語教育政策にとっては非常に "刺さる" 指摘。

政策における「コンテクスト」(文脈)とは、政策が実施される条件や状況、環境などのことを指し、その内実は多岐にわたる(佐野2008)。重要なのは、政策は実施されるにあたっては、具体的な状況に適応させるためのプロセスが必要だということである(杉谷2021c : 138-141)。したがって、我々は、研究や政策の内実が多様であるということを認識し、全ての政策分野において一律に適応できるようなモデルはないということを認識しておく必要がある (Oliver, et al, 2014 : 7)。EBPM はこのことを忘却させるレトリックにもなりうる。(p. 8, 下線は引用者)

    • 以下、Sanderson (2009; 2010) についての説明:

彼の立論は、政策が実施される現実の複雑さを重視するもので、政策は元来、実験的な要素を含んだもので、期待された結果を生み出すとは限らないという洞察に基づいており、そのうえで重視されるのが学習プロセスである (Sanderson, 2009; 2010)。エビデンスに基づいて策定された政策を実際に行ってみると、その現場のコンテクストによってはうまくいかなかったりすることがある。この失敗から導出された教訓を共有し、エビデンスを錬磨していくことが、サンダーソンのプロジェクトの核心にあると言ってよい。 (p. 11, 下線は引用者)

  • 時間
    • Bornemann and Strassheim (2019)
    • 時間ガバナンス (Time Governance)
    • 時間のガバナンス (Governance of Time):時間をガバナンスの対象として扱う。例えば、「これからの時代は英語がますます必要になるから英語学習を充実させるべき」とか「これまでの英語教育は文法・訳読偏重だった。これからはコミュニカティブな活動を重視すべき」のように、望ましい将来像やシナリオを考案することを通じて、あるいは、過去を現在の視点から解釈することを通じて、資源の使い道を決めるのが「時間のガバナンス」。
    • 時間によるガバナンス (Governance by Time):「集合行為を生み出すために、時間をガバナンスの手法として用いる。(中略)しばしば用いられるレトリックの一つが、「緊急性」であり、今すぐに行動を起こさなければならないという論理のもと、様々な取り組みの正当化が図られる。」 (p. 9) 
    • 【コメント】 2020年度の英語民間試験導入を巡る政策論議でも、しばしば「緊急性」というレトリックは用いられていた。時間ガバナンスの視点も分析に取り入れると、けっこうおもしろそう。

文献メモ

  • 奥田恒 (2019) 「マイケル・ハウレットの『政策統合』アプローチ:ウィキッド・プロブレムへの対処戦略からの検討」『社会システム研究』, 22, 191-206. https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224847116416
  • 杉谷和哉 (2021) 「イアン・サンダーソンのEBPM論:その特徴及び意義についての考察」『政策情報学会誌』, 15 (1), 5-12.
  • Sanderson, I. (2002). Evaluation, policy learning and evidence-based policy making. Public Administration, 80(1), 1-22.
  • Sanderson, I. (2009). Intelligent policy making for a complex world: Pragmatism, evidence and learning. Political Studiesm 6(2), 53-85.
  • Sanderson, I. (2010). Evidence, learning and intelligent government: Reflections on development in Scotland. Germsn Policy Studies, 57, 699-719.