SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は(英語)教育政策,教育経営。

【読書メモ001】「新しい能力」って、ほんとうに「新しい」の? (中村, 2018)

書誌情報
中村高康 (2018) 『暴走する能力主義:教育と現代社会の病理』筑摩書房


リサーチ・クエスチョン

近年の教育政策では、なぜ「新しい能力」についての議論が繰り返されているのか?

 

背景

 「これからの時代に求められる新しい能力」。教育関係の話題になると、こんな言葉をしょっちゅう耳にする。「これから」という言葉を使うことで、「これまで」の教育との違いを強調しているんだろうか。最近の学習指導要領の改訂や大学入試改革をみても、「新しい能力」を相当意識していることがわかる。
 そもそも、ここで言われている「新しい能力」とは具体的にどのような能力なのか。松下佳代氏(京都大学 高等教育研究開発センター 教授)は、「新しい能力」に関する内容を以下のように整理している。

 

日本で教育目標とされている主な能力概念

世界の教育の潮流「新しい能力」とは〜松下佳代氏に聞く - eduview

 うーん…… パッと見て意味がわかるのは「リテラシー」ぐらいじゃないだろうか。それ以外は名前を聞いても、どんな能力なのか一言で言い表すことは(少なくとも私には)できない。もっとも、「リテラシー」——和訳すると「読み書き能力」——に関しても、かなり抽象的な言葉で、いったいそれが何を意味するのかはよくわからない。
 上記の「新しい能力」すべてを取り上げるのはたいへんなので、最も気になった「キーコンピテンシー」について調べてみた。キーコンピテンシーの定義は次の通り。

OECDにおいて,単なる知識や技能ではなく,人が特定の状況の中で技能や態度を含む心理社会的な資源を引き出し,動員して,より複雑な需要に応じる能力とされる概念。(p. 166)
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/__icsFiles/afieldfile/2015/09/04/1361407_2_3.pdf

 「心理社会的な資源」。こんな言葉はじめて聞いた。なんだか雰囲気はカッコイイが、その意味はよくわからない。もう少し資料を見てみよう。
 先ほどの資料では、「キーコンピテンシーの3つのカテゴリー」と題して、この概念が細かく定義されている。

1.社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力

A 言語、シンボル、テクストを相互作用的に活用する能力
B 知識や情報を相互作用的に活用する能力
C テクノロジーを相互作用的に活用する能力

2.多様な社会グループにおける人間関係形成能力

A 他人と円滑に人間関係を構築する能力
B 協調する能力
C 利害の対立を御し、解決する能力

3.自律的に行動する能力

A 大局的に行動する能力
B 人生設計や個人の計画を作り実行する能力
C 権利、利害、責任、限界、ニーズを表明する能力

 
 ここまで細かく説明してくれれば、「キーコンピテンシー」がどのような能力なのか、だいたいわかってきた。勝手になじみのある言い方に翻訳すると、「1. 社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力」は「リテラシー」とか「問題解決能力」、「2. 多様な社会グループにおける人間関係形成能力」はいわゆる「コミュニケーション能力」とか「協調性」、「3. 自律的に行動する能力」は(そのままだが)「自律学習 (autonomous learning)」、と考えて問題ないかと。確かにどれも「新しい能力」というイメージはなんとなくある。特に耳にするのは「コミュニケーション能力」。大学入試に民間試験活用を! で話題になった英語4技能化も、この「コミュニケーション能力」と大いに関係していることは明らかであろう。
 しかし、これらの能力は本当に「新しい」のか? この問いに対して筆者は以下のように答える。

実のところ私は、新しい時代にコミュニケーション能力や協調性、問題解決能力などといった「新しい能力」といわれるものがこれまで以上に必要されている、とはあまり思っていない。誤解を与えそうなので急いで補足しておくが、現代においてこれらの能力が不要であるといっているのではない。ただ、それらはこれまでも求められていたし、これからも求められるであろう陳腐な能力であって、新しい時代になったからはじめて必要ないし重要になってきた能力などでは決してない、ということなのである。(p. 24)

 
 

筆者の仮説

いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。(中略)ではそうした見方が妥当だとすると、なぜこのような渇望が生み出されるのだろうか。その答えを導き出すために私が用意しているロジックは次の5つの命題からなる。

  • 命題1 いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない【2章】
  • 命題2 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される【3章】

(pp. 47-48)

 どの章の内容も非常に興味深く、勉強になった。特に第4章で扱われている「メリトクラシー再帰性」に関する説明が秀逸だったので、備忘録として引用しておく。

私たちは、能力主義を批判するとき、おそらくは現状のまずい能力主義の問題点を批判し、より優れた能力主義があるものとして議論しがちである。しかし、抽象的能力測定の不可能性と構成性を前提とすれば、理念的にどれほど素晴らしい能力主義的体制であっても、実際に導入されればそれは暫定的能力主義にしかなりえない。したがって、「より優れた能力主義」に見えたものでも、必ず批判される契機をあらかじめその内に含みこんでしまっているのである。それが抽象的能力を問題化するものである限り、必ずそうなるのである。(p. 127)

感想

 「新しい能力」という言葉を聞くと、これまでの教育ではカバーしきれていなかった、これからの時代に必要な能力——という感じで、なんだか学校教育がより良くなっていく・進歩していくイメージを持つ人が多いのではないだろうか。現状の教育の問題点と時代のニーズを考慮して、弁証法的に学校教育を発展させていく、みたいな。
 しかし、本書を読むと、日本の教育が進歩もしていなければ後退もしておらず、同じところをグルグル回る、無限ループの状態に陥っていることがよくわかる。「新しい能力」と呼ばれる普通の能力を<発見>し、賞味期限が過ぎたらその能力は時代遅れとなり批判される。そして再度、賞味期限付きの「新しい能力」と呼ばれる普通の能力を<発見>し、それも期限が切れたら、またまた「新しい能力」を<発見>し……。これはかなりマズい。
 現状の解決策として、筆者は次のように指摘している。

このように見てみると、大学入試改革を巡っても、やはり私たちは「新しい能力を求めなければならない」という強迫観念に苛まされているように思われる。冷静に考えてみては、これだけ変化が急激で複雑な社会の中で、どのような能力が将来必要になるのかと言うことを千里眼のように見通すことができると考えるほうがどうかしている。にもかかわらずそうした発想に私たちが引き込まれてしまうのは、<能力不安>から生じる強迫観念に縛られているからではないか。こうした時代だからこそ、私たちはこの強迫観念にたいして一定の距離感を持って接していくことがむしろ必要なのである。(p. 223, 太字は引用者)

「新しい能力」という呪文に惑わされることなく、教育政策・大学入試改革を冷静にウォッチするためにも、この指摘を心にとどめておきたい。