SSudo's Lab

須藤爽のブログです。専門は英語教育政策。重要文献のログ・感想を残していきます。

外国語教育は「必ずしも英語である必要はない」わけではない:「新英語教育研究会」シンポジウム (2022) の感想

7月30日に開催された新英語教育研究会のシンポジウムを拝聴しました。
最初に、鳥飼玖美子氏、大津由紀夫氏、斎藤兆史氏、江利川春雄氏からそれぞれ20分ずつ問題提起が行われ、その後40分程度で自由討論という流れでした。


全体的に面白かったので満足はしています、が、ひとつ気になったのが、やっぱり「英語」教育の話をするのね――という点(まぁ、学会名が「新英語教育学会」なので、当然と言えば当然なのかもしれませんが)。以下、それについて感想を記します。


斎藤氏を除く3人が「外国語教育」という用語をスライドに含めていたり、鳥飼氏については「異文化コミュニケーション」「多言語多文化主義」、大津氏については「複言語主義」という用語がスライドに記されていたり、3人の論者が多少なりとも英語以外の外国語への配慮を示している点はうかがえたが、それについて深く議論がされることはなく、結局は「これからの『英語』教育はどうあるべきか」という議論に終始していた(特に最後の方は、英語教育における英文法の位置づけであったり、英語教員向けの英語学習法であったり)。英語帝国主義の立場から見た日本の外国語教育の問題点の指摘や、もっと言えば、日本の英語教育における「英語=北米の標準英語・イギリス英語」というモノリンガル・バイアスの話などの議論をもっと聞きたかったなぁ、と個人的には思う。


最後に大津氏が江利川氏に対して、「日本の教育で教科として外国語教育を行うことの最大のメリットは何か」という趣旨の質問を投げかけた。「英語教育」ではなくて「外国語教育」と確かにおっしゃっていた。


これに対して江利川氏は「外国語を学ぶことで、母語の認識を高めることができる点」という趣旨の発言をされた(多少言い方は違ったかもしれないが)。この発言の内容は、大津氏がスライドで提示していた内容と重なる部分が大いにある。


大津氏のシンポジウムでの発表内容を大まかにまとめると、次のようになる。

  • 言語 (a language) とことば (language) を区別することがダイジ
  • しかし、日本の外国語教育では後者の視点が軽視されがち
  • それぞれの言語の「個別性」「多様性」のみに注目するのではなく、ことばの「普遍性」に注目することが重要
  • そのためには、国語教育と外国語教育の接続性を重視し、生徒・児童が「ことばへの気づき (metalinguistic awareness)」を体験できるよう促すことが教員に求められる
  • それは必ずしも英語である必要はない(この点について、発表の際はあまり触れられていなかったが、事前配布のスライドには記されている)


外国語を学ぶことで母語との類似・差異を認識し、「ことばへの気づき」が生まれる——という意見には全面的に賛成する。個人的にも、外国語を学ぶことの最大の意義は、「ことばへの気づき」を通じて母語の理解を深めること——にあると思っているので、この点については大津氏、それから、先述した江利川氏の主張に対して異論は全くない。


一方で、母語との類似・差異を深く理解するためには、その外国語についての知識がかなりの程度必要になる。単純に、語順の違いだとか、発音の違いだとかを母語と比較するだけであれば、表層的な理解でも十分なのかもしれないが、果たしてそのレベルの「ことばへの気づき」で母語の認識が高まったり、母語の理解が深まったりするだろうか。


個人的な経験を述べさせてもらうと、私が英語学習を通じて「ことばへの気づき」が生まれ、結果的に母語の理解が数段高まったと感じた経験のなかで最も鮮明に覚えているのは、以下の日本語文とその翻訳を見たときである。

ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係でした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく、実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。(宮沢賢治セロ弾きのゴーシュ」)



Gauche played the cello in the orchestra for the town theater. But his reputation wasn’t very good. In fact he was the worst of all the musicians, so the conductor was always picking on him. (‘Gauche the Cellist’ translated by Paul Quirk)

これは学部生時代に、翻訳の授業で眞野泰先生の授業で紹介されたもの。日本語文とその翻訳を比較して、気づいたことを言ってみよう——という課題だった。


この課題に答えがあるわけではないのだろうが、眞野先生の意図は、日本語の「は」という副助詞の強力さについて痛感させることにあった。見てわかるように、日本語文では一文目で「ゴーシュは」と言ってから、2文・3文目では主語が記されていない。一文目の「は」の残像が残っているからだ。


一方、英語では、いちいち主語を書かないといけない。日本語のように、一文目で「〇〇は」を記し、それ以降は述語を工夫すれば主語を書かなくても自然に読める――というわけにはいかない。個人的にはこの経験を通じて、日本語の「は」と「が」に対する理解が数段高まったと感じている(そのときに高まったというより、自分の母語に対する無知を自覚することができ、その後の勉強につながったのだが)。今では日本語で「は」を使うとき、けっこう注意して使うようになっている。


さて、上記が個人的な「外国語学習を通じて母語の理解が深まった」一例なのだが、このレベルの学習を行うには、その外国語にかなりの程度習熟している必要があるように思う。というのも、先の特徴に気づくためには、少なくとも以下の知識が前提とされるからだ。


・英語の主語が把握できる
・主語を把握するには、品詞(特に名詞)のはたらきについて理解している必要がある
・主語を把握するには、該当する英単語の意味を知っている必要がある


上記の項目に加え、ある程度、英文が「読める」段階になっていないと、ことばへの気づきをもたらすことは難しいのではないだろうか。何を言っているかよくわからない外国語の文章を持ち出されて、「こことここを比較すると日本語と違うよね!」と言われても、あまり感動しない気がする。感動しなければ「気づき」にはつながらず、単に「へー--」で終わってしまう。


もう一つ例を示す。日本語の学習者(日本語を母語としない者)が苦戦する文法事項の一つに「受身」がある。日本語の「受身」の特殊さは、他の言語の「受身」「受動態」と比較してはじめてその特殊さを痛感できるはずである。日本語の受身にはA, B, C という特徴がある一方で、〇〇語の受身にはC, D という特徴がある——という説明を理解してはじめて、日本語の「受身」であったり、その外国語ならではの「受身」の使い方であったりを理解できるはずだ。ここでもその前提として、その外国語の「受身」「受動態」についての知識が求められる。英語に関して言えば、「受動態」を理解するためには、最低限、「be動詞」や「過去分詞」の知識が不可欠であり、そこまで到達するにはそれ相応の時間と労力がかかる。何が言いたいかと言うと、外国語の学習を通じて「ことばへの気づき」を促したいのであれば、ある程度、いや、相当な程度、その外国語に足を踏み入れる必要があるということだ。


逆の例を示すと、私は学部時代にちょっとした興味から、フランス語を2年、ハングルを1年、アラビア語を1年、大学の授業を通じて学んだ。しっかり単位を取るぐらいには学んだのだが、上記のような、母語の認識が深まるような「ことばへの気づき」の経験をしたことはほぼない。もちろん表層的な「ことばへの気づき」はいくらでもあったのだが(例えばアラビア語に関しては、「本当に右から左に書くんだなぁ」とか「母音が3種類しかないんだなぁ」とか「文字で表されるのは子音のみで、子音だけを見て母音を読み取るんだなぁ、すげぇ」とか、そういうレベルの気づきはいくらでもあった)、それらの浅い経験を通じて「母語の認識・理解」の向上という点で寄与した気はあまりしない。いやいや、それはお前の感受性が低いからそうなだけだ——と言われたらどうしようもないのだが、ただ、個人的な感想としては、1年や2年ある外国語を学んだだけで、母語への気づきを促すことはなかなか難しいと思う(もちろん、「母語の理解を深める」という目的以外を考慮するのであれば、上記のような複数の言語を「浅く広く」学ぶ方法も何らかの教育的意義があるのかもしれないが)*1


以上のことから、外国語学習を通じて、「ことばへの気づき」を促す、あるいは、「母語の理解を深める」ためには、その外国語の理解が相当に必要なはず。それにかかる時間と労力を考慮すると、学校教育で扱える言語はやはり一つ(多くても二つ)に絞られ、それは結果的に英語一強へとつながるのではないだろうか。というのも、教員養成課程で、複数の言語を対象に「ことばへの気づき」を生徒に与えられるようなプログラムを組む余裕も、それを指導する側・される側の余裕も、全くないはずだ。この種の理解を生徒にもたらせるかどうかは、かなりの程度、教員の腕にかかってくるはず。教員養成課程で複数の外国語を対象に、「ことばへの気づき」が促せる人材を育成することはきわめて困難であろう。どれかひとつに絞る必要がある。どれかひとつの外国語を深く学ぼう――と言われて、日本の教育事情の中で英語以外の外国語を選択する学習者は果たしてどれくらいいるのだろうか。


よく日本の外国語教育について語られるときに、「必ずしも英語である必要はない」というセリフを耳にする。外国語教育の目的を考えれば、学ぶ外国語は「何でもいい」と。それはおっしゃる通りなんだけど、でも、実際のところ、「何でもいい」と言っている人ほど、英語からは逃げられないという現実をよく理解しているのではないだろうか。「必ずしも英語である必要はない」はだいたい決め台詞として使われることが多く、それを起点として議論が行われることはほぼない。印象としては、「必ずしも英語である必要はない」=「自分は英語帝国主義の理解があります!」という意思表明のフレーズのように聞こえる。この発言が、本気で「日本の外国語教育で、英語以外の外国語を学ぼう!」「そのための方法を考えよう!」ということを意味しているわけではないと思う。みんなうすうすそれに気付いているから、論点として避けられる傾向にあるのではなかろうか。現実は、「『必ずしも英語である必要はない』わけではない」となってしまっていて、おそらくその状態はしばらく変わらない。


外国語教育を通じて、ことば (language) への気づきを得ることの重要性を強く認識する一方で、複言語主義の精神も重視したいというジレンマを抱えている。現実的な案は、英語一強の状態をある程度許容しつつ(=諦めつつ)、その中でも「複言語主義」「異文化理解」に対する精神を養っていく——という感じだろうか。でもそれって、まずは英語を深く学び、それを通じて「ことばへの気づき」を得て母語の理解を深めたうえで、「でも、外国語って英語だけじゃないぜ。他の言語も学ぼうぜ」——みたいなノリなようで、なんか違う気がする。

*1:いやいや、「実感」ではなくそういう「経験」こそがダイジなのだよ。複数の外国語を学んだことで、たとえ「実感」はしていなくても、母語の認識は確かに深まっているから安心したまえ——と言われたらどうしようもないのですが。ただ、学習者がその目的であったり効果を「実感」できない学習に対して、はたして魅力を感じるでしょうか。